第2話 うごうごまみれ
翌朝、担任だという体育教師の後について廊下を歩きながら、私は早くも神主に大口をたたいたことを後悔し始めていた。
担任の首の後ろに巨大なヘチマみたいなウゴウゴがへばりついている。全くもって正体不明だ。こんな奇怪なのは見たことが無い。さながら蓑虫みたいに首筋にくっついてぶら下がっているのだ。
「どうやらこれが、最初の仕事みたいですね」
クロウがくつくつと笑う。
「この程度なら、得物を使わずとも容易いでしょう」
「無理無理、こんなの素手で触れないよ」
肩越しに声を潜めて抗議する。
「仕方ありません。これも修業です」
「絶対やだ!」
「何か言ったか?」
担任が不機嫌そうに振り返る。そりゃそうだろう。こんなものをぶら下げていたら、肩も凝るし腰も痛む。湿布やマッサージで治るはずもない。いつも不機嫌になるわけだ。
そんな奴を担任にもつのも不幸だろう。
仕方がない。腹をくくると人差し指と中指を立て手刀を作り、一思いに根元に向かって振り下ろす。ぬめぬめとした感触が指先に触れ、途端に腐った豚骨スープみたいな匂いが鼻を衝く。
「うっく」
思わず、臭! と叫びそうになるのを堪える。ウゴウゴはヘタが取れたみたいに首から落ちて消えたが、指に匂いが染みついていそうで心配になる。
「何だ。さっきから」
担任が足を止め、くるりと振り向いた。鼻先にあてた指を急いで引っ込める。
「服にゴミがついていました」
「そうか、すまんな」
精一杯の笑顔を向けると、担任は不思議そうに頷いた。首を傾げ、肩を回す。腰を回す。
「見事でしたよ、万琴」
担任は歩きながら何度も首を傾げている。突然五十首、肩、腰が治ってよほど驚いているのだろう。私はクロウに向かって思い切りしかめ面を作ってやった。
「京都から転校してきました。白川万琴です。どうぞよろしくお願いします」
しおらしく頭を下げると、どよめきが沸いた。
素の自分を見せると浮きまくることは確実なので、いつも転校の際は、キャラの設定を依頼主も交えて綿密に練り上げる。仕事と割り切っているせいもあるが、どのみち学校という暇人の集まる場所は、誰もが自分の役割を演じる小劇場だから、嘘をついて騙しているという罪悪感もあまりない。
今回私は喘息の治療のため、親戚を頼って空気のきれいなこの村へやって来たことになっている。ハイジの友達のクララみたいな、大人しい良家の子女風でいくつもりだ。
教壇に立ち、作り笑顔のまま教室を見回すと、いるわ、いるわ。若いエクトプラズムに引き寄せられたウゴウゴがあっちにも、こっちにも。どれも低級霊ばかりだが、とにかく数が多い。先が思いやられる。
「白川さんの席はあそこで」
窓際から二列目の後ろの席が空いている。期待や警戒の入り混じった視線を浴びながら、通路を進む。
ふと窓際の一番後ろ、普通ならすかした不良が座る席に、妙な男子が座っていることに気付いた。目の下まで前髪を伸ばし、今時見たこともないような瓶底眼鏡をかけている。分厚いレンズが光を反射して、完全に人相を隠している。善人なのか悪人なのか、大人しいのか狂暴なのか、さっぱり掴めない。
なんだ、こいつは。怪しいぞ。警戒のアラームが灯る。ふとその背後から、おかっぱ髪の女の子が顔をのぞかせた。十歳くらいだろうか。随分可愛らしい守護霊を連れている。思わずニコッと笑いかけたら、恥ずかしそうに男子生徒の背中に隠れてしまった。
自分の席に着くと、こんどは隣の男子と目が合った。健康的に日焼けした顔に白い歯を見せて「俺、矢嶋湊。よろしく」と自己紹介する。
笑うと目尻にきれいに三本皺ができて、破顔するという表現がぴったりになった。その背後には着物を着て、白髪をきちんと髷に結った優しそうなお婆さんが、満面の笑みで立っている。
「あ、よろしくお願いします」
お婆さんに向かって頭を下げていた。
担任が出席を取り連絡事項を伝えている間、教室をじっくりと観察する。廊下側の前から三番目、つやのある黒髪を背中に垂らした女子の頭上を、うるさいハエのようにバレーボール大のウゴウゴが飛び回っている。
「あの女生徒は、どうやら霊に頼られやすい体質のようですね」
クロウの言葉に、黙ったまま頷く。
すでに何体もの霊を背負いこんでいて、体調がすぐれないのだろう。漂白されたみたいな顔色をしている。
クロウが祓いには支障がない範囲で、絶妙にチャンネルをずらしてくれるので、私は浮遊霊や地縛霊などの姿を直視することはない。おかげで腐った目玉をぶら下げ、ところどころ肉の剥がれ落ちた生首が、鼻の穴や口から蛆虫を溢しながら飛び回る姿を見ずに済んでいる。
若木が割れるようなラップ音が鳴る。これだけ大きな音がしても、誰一人反応するものはない。スマホをいじっている時みたいに上の空だ。
再び頭上でラップ音が鳴った。早速霊が私の存在に反応して、挑発してきているのだ。バレーボールが急に方向転換し、こちらめがけて飛んできた。
私は考え事をするように、右手の人差し指を立てこめかみに当てる。指先に気を集中させ、ピンポン玉くらいの大きさになったところで、えいやっと弾き飛ばした。
それはバレーボールを矢のように射抜いた。バレーボールは粉々に砕けて煌めく塵になり、消えた。
「お見事」
押忍。小さく呟いた。
担任が教室を出ていくと、わらわらと女子に囲まれる。面倒だが、ここで病弱な良家の子女キャラを確立しておく必要がある。今後キャラにふさわしい言動を取れば、転校生の珍しさが消えた頃には日常の風景に埋没してしまえる。悪目立ちして女子を敵に回すと、霊より恐ろしいのは経験上承知していた。
あたし美穂、万琴って呼んでもいい? 万琴って背が高いよね。あ、それあたしも思ったー、顔もちっちゃーい、もしかして、読モやってるとかー?。
こういう褒め言葉に、往々にして嫉妬と棘が含まれているのは、さすがの私も気付いている。
「違うよ、全然。服とか興味ないし」
私はクララ、私はクララ、と自分に術をかける。
「ね、これ、前の学校の制服? かわいー」
「そうかな。普通だと思うけどな」
柑橘系だのフローラルだの、チープな香りが入り混じって、ムンムンと押し寄せてくる。
「うちのよりは、断然まし。制服買わされなくてよかったね」
「もう三年生だし、どれくらいこっちにいるか分からないから、制服は買わなくていいって言われたの」
「っていうことは、もしかして喘息が良くなったら元の学校に帰っちゃうってこと?」
「一応、その予定」
「そっかー、早く良くなるといいねー」
早く良くなって出て行ってもらいたがってるな。私はクララ、私はクララ……。
「ありがとう。短い間かも知れないけどよろしくね。でもここは自然が豊かで、とってもいいところね。私、気に入っちゃった。空気もきれいで、叔父さんの家に着いてからずっと調子がいいの」
自ら戦力外宣言をしてからの褒め殺し。加えて風邪も寄り付かない健康体を隠すための布石を打つ。一石三鳥。この台詞で決まりだ。
だがなぜだろう。女子団から発する熱がすっと冷えるのを感じた。隣同士、目くばせを交わすものもいる。
まずい。ここは一旦仕切り直したほうがよさそうだ。
人垣の後方に、先ほどバレーボールに絡まれていた女子生徒がいるのに気づき、「あれ、高屋敷さん、気分が悪いの? 顔色がよくないわ」と立ち上がった。
高屋敷という苗字は、一度聞いたことは何でも記憶してしまうクロウが耳打ちしてくれた。心の中でクロウに礼を言って、彼女の腕をとる。
「保健室にいこう?」
意味なく語尾に?マークをつけると女子っぽい感じがする。どこがいけなかったのだろうと考えながら、女子団から退避した。
転校を繰り返すうちに気付いたことがある。注目を集めると仕事に支障をきたす。だからキャラを演じ、周りを欺くことは不可避なのだが、どうやら私は、あまりその才能に恵まれていない。
前回の任務地は有名な進学校だった。学力の差を誤魔化すためには、スポーツ推薦でやってきたという設定を取るより他なかった。しかし、仕方なく入った陸上部で本物の部員を差し置いて次々と新記録を叩きだし、全校生徒の前で表彰されるという失態を犯していた。
「ところで保健室って、どこ」
こちらだと指さすクロウの目には涙が滲んでいる。これは、確実に面白がっている。
「ね、高屋敷さん、私まずいこと言っちゃったかな」
よく見ると、高屋敷さんは驚くほど整ったきれいな顔をしていた。子供のように青く澄んだ白目にリップを塗ったような赤く小さな唇。こんな鄙びた田舎には不釣り合いな美少女だ。だが細すぎるし、体調がすぐれないせいか肌に潤いがなく覇気が感じられない。まあ女子に覇気を求める男子は少ないだろうし、庇護欲をくすぐってよくモテるに違いない。
「うーん、京都の人にいい所って褒められてもね」
苦笑しながら教えてくれる。
「私、朱緒。よろしくね」
「よろしく」
手を差し出すと、恥ずかしそうな笑顔で握手に応じてくれた。冷たく汗ばんだ手を、念を込めて握り返す。憑いていたものがポロリと落ちる。だが、また朱緒はすぐに拾っちゃうだろう。もう少し仲良くなったら、自分で落とす方法を教えてあげなくちゃいけない。
体育の授業は見学か自習をするか、どちらか選べと言われたから、迷わず自習と答えた。だが当然勉強などするつもりもなく、クラスメイトが出てゆくと、私はこっそり教室を抜け出した。
グラウンドへ続く階段を上り、バックネットの裏からさらに階段を上るとテニスコート一面分くらいの草地があり、その奥に木造二階建ての旧校舎が建っていた。日当たりが悪いせいか、雑草に覆われた地面は乾ききらずに湿っている。ぬるま湯のような草いきれが立ち上っていた。
川べりに建つせいで湿気が多いのだろう。校舎の表面には黴とも苔ともつかぬものが生え、窓枠のペンキは剥がれ落ち、屋根は所々ブルーシートで覆われている。すぐ背後には雑木林が迫っている。立ち入り禁止のロープを超えて窓から中をのぞくと、椅子や机が乱雑に積み重ねられ、埃をかぶっていた。
「まだ入らないよ。ちゃんと調べてからにする」
クロウが心配そうに何か言いかけたので、先回りして答えた。
「外から見る限り、変なものはいなさそうだけどな。嫌な感じはしない」
二階の窓を見上げる。昼間だから当然かもしれないが、神主の言っていた女の姿は見えない。古いというだけで、どこか牧歌的な雰囲気まであり、なんだか肩透かしを食らったような気がする。
「万琴、足元に百足がいます」
「へ?」
見下ろすと、優に二十センチはあろうかという大百足が、ローファーの上を黒光りしながら這ってゆくところだった。ギャーっと雄叫びを上げ、飛び跳ねる。
「これ、気を付けなさい。無駄な殺生はなりませんよ」
「えええ、そっち?!」
私の精神的ダメージはどうしてくれる。
百足が無事草むらに逃げおおせるのを温かく見守ってから、クロウが言った。
「さて、正門の脇に図書館がありましたから、旧校舎について調べてみては?」
「あの建物、図書館だったの? なんでこんなところに家が建ってるのか不思議だったんだ」
「古民家を移築したとありましたよ。きっと何か資料が見つかるでしょう」
なんで先にそれを言ってくれない。クロウはたまに意地悪だ。
誰にも見咎められず校舎に戻ると、今度は反対側の昇降口から外へ出る。さすがに茅葺き屋根はスレートに代わっているが、焼いた杉板に白い漆喰の壁というノスタルジックな建物が、校門を入ってすぐのところに佇んでいた。開け放した入り口からのぞくと、数人のお年寄りが窓際に並んだ椅子に座り、新聞を読んでいる。一般にも公開されているようだった。
中に入ると天窓から明かりが差し込み、案外明るい。そして静かだった。
図書館だから静かなのは当たり前なのだが、校舎にあれだけいるウゴウゴが、ここには一匹もいないのだ。
「こんにちは」
カウンターに歩み寄って、生成りのエプロンを付けた女性に声をかける。『司書 砂原響子』と記したネームプレートを胸につけている。
「こんにちは。新しく来た転校生ね?」
柔らかく微笑んで会釈する。三十歳くらいだろうか。落ち着いた雰囲気のきれいな人だった。
「白川万琴です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
「それって何をされているんですか?」
そう聞いたのも、司書なのに手に刷毛を持ち、糊を水でのばしていたからだ。
「古い郷土資料の修理よ。虫食いやら破れがひどくて」
「へえ。そんなことも司書の仕事なんですか」
「大切な資料ですもの。きちんと後世に残さないと」
和綴じの本を大切そうに広げた。続いて薄い和紙に糊を刷毛で塗り、敗れた個所に張ってゆく。クッキングペーパーみたいなつるつるした紙をはさんで、ページ同士がくっつかないようにしてから重しを載せる。手慣れた仕草でてきぱきと修理を進める。暫くそれに見とれてから、思い出して尋ねた。
「あの、旧校舎について調べたいんですけど、何か資料はありますか?」
「ええ。ちょっと待ってね」
微笑んで刷毛を置くと、カウンターの奥の棚から大きなカラー刷りの本を持ってきてくれた。
「創立百周年を記念して発刊された本よ。梁瀬高等学校百年史。禁帯出扱いで貸し出しはできないけど、閲覧席でどうぞ」
「ありがとうございます。へえ。百年以上の歴史ある学校だったんですね」
「設立は明治四十三年だけど、旧校舎はもっと古いのよ。でも、もうすぐ取り壊されるの」
「工事はいつから始まるんですか?」
「さあ。詳しくは聞いてないけど」
なぜか歯切れの悪い言い方をする。
「響子さん、こんにちは!」
その時聞き覚えのある声がした。振り向くと、足取りも軽く神主がやってくる。チノパンツに紺色のコットンセーターというラフな格好をしている。
「おや、万琴。授業中じゃないのか」
打合せ通り、気軽に呼び捨てにした。中々演技が自然でよい。
「うん。今は体育の授業だから、ここで自習しようと思って」
「ふーん」
自分から聞いておきながら、さして興味なさそうに返事する。
「叔父さんは? 何しに来たの?」
こちらも設定通りに返す。
「私は調べものだ。村の郷土史を研究している。ま、趣味程度にだが」
「ご謙遜を。はい、神主さん。今朝、県立図書館から届きましたよ」
「おお、早かったですね。いつもお手を煩わせて申し訳ない」
ほくほくと本を受け取る神主の横顔を見て、ピンときた。
ムフフ、神主ってば、響子さんに惚れているな。しかし四十を超えても独身でいるところを見ると、かなり奥手なのだろう。こうやって足しげく図書館に通い、わざと所蔵していない本を注文したりして、会話の糸口を掴もうとしているのだな。かなり姑息だが、いたいけにもとれる。ここは居候の恩義ある身として、一肌脱いでおくべきだろう。
「余計な親切心は、起こさない方がよいかと」
一つ咳払いをして、クロウが言った。
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