第1話 渡りの巫女、奥吉野へ

 教えられた通り最寄り駅でタクシーを拾ってから、優に一時間は経っていた。旅行気分で窓の外を眺めたのも初めの十分ほど。後は堅い背もたれに頭を預け、右や左にぐらぐら揺られていたら、いつの間にか眠っていたらしい。

 運転手に起こされ、料金を支払って車が走り去ると、深い緑の底に取り残された気がした。固まった腰をうんと反らしたら、稜線に切り取られた空のかなたを、鳶がすいすいと旋回していた。


「こりゃまた、とんでもない山奥に来ちゃったね」


 伸びをしたまま振り返る。


「だいだい車で一時間もかかるのに、最寄駅って言い方で合ってんの?」


 今日のクロウは、墨染めの衣に手甲脚絆に編み笠、手には錫杖という旅スタイルだ。それがまた凛々しくて、私はつい見とれてしまう。物心ついた頃からずっと一緒にいるのに、全く見飽きることがない。編み笠の縁を上げ、目を細めて空を仰いでいたクロウがこちらを向く。


「万琴(まこと)、口を開けて寝ていたので涎が」


 慌てて手の甲で口の周りを擦る。


「嘘です。ですが口を開けて寝ていたのは本当です」


 恨みがましい目を向けた私に、涼やかな笑みを返す。


「この地はただの山奥ではありませんよ。熊野古道を抱く奥吉野です。かつては熊野詣の人々で大変な賑わいだったはず」


「それ何時代の話し? 見渡す限り、人っ子一人いませんけど?」


「江戸の時代です。さあ、文句はそれくらいにして、参りましょう」


「どっちにしろ、何もないど田舎に変わりないし」


 クロウに聞こえないようぶつくさ言いながら、砂利道をザクザクと踏みしめて歩く。朱色の鳥居の向こうには急な石段が続き、その先はこんもりと繁った杜に呑み込まれている。黒い神額には玉置神社の文字が浮き彫りにされている。


「どうかした?」


 クロウが鳥居のそばに立ち止まっているので、上りかけた階段を戻る。

 鳥居の脇、蕾を付け始めた紫陽花が群生しているあたりに、それはいた。


「必要ある? 無害だよ?」


 灰色の砂嵐のように、私にはそれが見える。霊という言葉を知る前から、私はそれをウゴウゴと呼んでいる。


「そのようですね。本人も望んでここにいるようですから」

「そうだよ、いこいこ。私、もう喉がからからー」


 クロウが同意してくれたことが嬉しくて、石段を二段飛ばしで駆け上がる。

 上り切った勢いで、いきなり現れた長身の男に衝突しそうになった。何とか踏みとどまり頭を下げる。


「すいません!」

「いえ、こちらこそ申し訳ない」


 男の白衣に紫の袴という格好を見て、「神主さん、ですか?」と尋ねた。


「はい、そうです」


 にこやかに笑みを湛え、男は頷いた。ということは、この人が今回の依頼主だ。急いで居住まいを正し、頭を下げる。


「私、京都の青龍庵から来ました白川です。白川万琴です」


 神主は温厚な笑みを浮かべたまま、丁寧に腰を折って言った。


「お待ちしておりました。遠いところを、ありがとうございます」


「こちらこそ、宜しくお願いします。まずはご祭神にご挨拶を」


 手水を使い、神主の後に続いて参道を歩く。小ぢんまりとしているが、境内は綺麗に掃き清められ、手入れが行き届いている。


「よい神社ですね。さやかな光に満ちています」


 クロウが高い杉の木立を見上げて言った。

 狛犬に挟まれた階段を上った、見晴らしの良い場所に本殿はあった。神主が柏手を打つと、澄み切った音が遥かな山々にまで響きわたる。垂れた頭を上げると、紙垂を揺らして風が吹き抜け、額の汗を心地よく冷やしていった。歓迎されているようで、思わず顔がほころぶ。


「長旅でお疲れでしょう。どうぞ、社務所の方でお茶を差し上げます」


 いつの間にか旅装を解いたクロウと共に、神主の後に続いた。


          ※

 

「それにしても、お若いのに感心ですな。渡り巫女の修業とはいえ、高校生であるにもかかわらず、点々と場所を移して浄化の旅をなさっているとは」


 長押に飾った歴代神主の写真を見上げていると、盆に茶器を載せて神主が戻って来た。お茶を淹れながらにこやかな顔を向ける。四十歳くらいだろうか。くっきりとした二重瞼の目尻に皺はあるものの、声も若々しく腹も出ていない。姿勢よく伸びた首が長くて、インテリのアルパカみたいだと思った。


「ささ、粗茶ですが。どうぞ」


 そう言って私の前と、もう一つ隣にも湯呑を置く。袴の裾をさばき、向かいに腰を下ろすと、笑顔のまま私たちを見比べた。だんだん頬が緩んでくるのを止められない。


「もしかして、見えちゃってます?」


 実際には触れないクロウの袖を、つんつんしながら尋ねる。


「はい。お若いお坊様ですね。随分と、容姿端麗なお方で」


「私の守護霊です」


 ですよねですよね、壮絶な美男子ですよね! 凛とした眉に涼しげな目元、優雅な線を描く鼻梁。美しすぎて、どこか憂いをおびて見えるその横顔。話し方や物腰からも、高貴の生まれであることは容易く想像できる。


「守護霊にもいろいろあり、クロウは、あ、彼の名前です、クロウは私の指導霊です」


「いただきます」


 クロウは神主に頭を下げ、出された湯呑に手を伸ばす。すると、湯呑は机の上に載ったまま、湯呑の幽霊みたいなものが現れて、クロウの口元に運ばれる。

 クロウを見ることのできる人に出会うと、私はつい有頂天になってしまう。クロウは私の自慢だから。もしかすると、唯一の。従妹の御鈴(みすず)と御典(みのり)の指導霊なんて、シワシワの怖いお婆さんだもんから、いつも私のことをやっかんで目の敵にしてくる。


「こんな立派な方が守護霊だと、巫女様も安心でしょう」

「ええ、まあ」


 幸先がいい。今回の仕事はやりやすそうだ。私がクロウ相手に話していても変に思われずにすむのだから。


「でも、巫女様は止めてください。私はまだ修業の身です。それに今回は叔父と姪という設定ですから、万琴と呼び捨てにしてください。私も叔父さん、と呼ばせて頂きます」


 今回は神主の家に住み込みで高校へ通うことになっている。


「うちのものが、電話で大体のことはお聞きしたと思いますが、もう少し詳しくお聞かせいただけますか」


 師匠のドラ息子、将大は大学を出た後も定職に就かず、いい年をして家の手伝いみたいなことをしている。今回の依頼も将大が受けたのだが、どうも話が要領を得ない。剣の腕だけは立つのに、後はからっきし頼りないのだ。


「新校舎と、今は使われていない旧校舎があるというお話しでしたが」


「ええ。旧校舎の中へは私も入ったことがありません。昭和四十五年に新校舎が完成してからは、ずっと閉ざされたままのようです。こちらはつい最近、取り壊しが決まったばかりです」


「では新校舎も五十年ほど経つのですね」


 それではちっとも新しくないが、旧校舎に対する呼び名なのだろう。


「旧校舎には昔から女の霊がおります。まだ校舎として使われていたころから度々目撃されていました。私も二階の窓辺に立っているのを一度見たことがありますが、これはただ出るというだけで特別悪さをするわけではないようです。ですが新校舎の方はとにかく数が多い。やはり生徒が集まる方へ寄ってくるのでしょう。で、ものを隠したり廊下を水浸しにしたり、つまらん悪さをする。霊とは人に気付いてもらいたがるものですからね」


 私は思い切って気になっていたことを尋ねることにした。


「神主さんが、お祓いをされたことは?」

「ありません」


 あっさりそう答える。


「誰からも依頼されませんでしたし」

「なるほど。依頼もないのに神主さんが勝手にお祓いするわけにはいきませんよね」


 神主とはいっても、祓いの実力は人それぞれだ。神主になるのに、祓いのテストはないのだから当然ともいえるが。

 神主が言葉を続ける。


「それほど深刻な霊障が起こるまでには至っておりませんが、敏感な生徒は不安を感じているかもしれない。どちらにせよ、学ぶのに適した環境とは言い難いでしょう。今まで放ってありましたが、この際すっきりとさせたいものです」


「まずは新校舎のお祓いが先決のようですね。旧校舎の霊は無害なようですが、取り壊しとなると何か障りを起こすかもしれません。旧校舎にどんな因縁があるのか、調べてみることにします」


 鞄から巻物状の和紙と筆ペンを取り出すと、机に広げた。


「こちらが契約書です」

「ほほう、契約書まであるのですか」


 書面に目を落とす神主に、なるべく貫録を滲ませて話す。


「まあそうですね、一カ月ほど時間を頂ければ十分でしょう。前の任務地である大阪の高校は、生徒が二千人もいるマンモス校でしたから、少々てこずりましたが。こちらは三百人程、規模も小さいですし、深刻な障りも無いようですから、まず問題ないでしょう」


 霊と接触する人数に比例して、霊障は広がっていくものだ。それがまた新たな霊を呼び寄せる火種になる。生徒の数が少ない方が簡単に祓えるに決まっている。


「あまり大見得を切らない方がいいですよ」


 クロウが咎めるように眉を寄せる。


「それは頼もしいですな」


 クロウが見えても、神主には言っていることまでは伝わらないようだ。益々都合がいい。


「怪異が収まり、二週間何事も起こらなければ終了といたします。終了後、一年以内に障りが再発した場合、私、もしくは他の巫女が直ちに参り浄化にあたります」


 神主は頷きながら聞いている。


「また任務中、私の身に如何なる危害が及ぼうとも、依頼側には一切の責任を問いません」


 このくだりを言うときには、いつもしんみりとした気持ちになる。所詮、巫女とは使い捨てられるものだから。


「以上、よろしければ、サインをお願いします」


 神主が達筆な文字でサインし、契約が成立した。


          ※


 神社の傍に立つ平屋の古い日本家屋に、神主は一人で暮らしていた。どうやら独身らしい。

 神主は私を連れて家の中を一通り案内すると、最後に廊下の突き当りにある襖を開けた。かつて神主の母親が使っていたのだろう。六畳ほどの居心地よさそうな和室だった。南向きの室内は明るく、カバーの掛った三面鏡と、木目のきれいな整理ダンスが壁際に寄せられている。

 障子を開けると小さな縁側があり、手入れの行き届いた庭が眺められるようになっていた。反対側は急な斜面になっていて、窓からは澄んだ小川が見下ろせた。今日から暫くの間、ここが私の部屋となるのだ。


 無事契約が成立したことを京都のお師匠さんに報告し、手荷物を整理すると、今日は何もすることが無い。衣類や学校の道具などの荷物は明後日届くことになった。私は縁側の柱にもたれて、さっきからずっとクロウを見ている。


 クロウは庭の松の枝が大きく二股に分かれた所で、座禅を組んでいる。山の夕暮れは早く、色彩が急速に曖昧になってゆく。墨色の背景に、白く端正な横顔が浮き彫りになる。


 クロウは私といて幸せなのだろうか? 指導霊なんかやめて、自由に思うまま修行に打ち込みたいんじゃないだろうか。


 ふと浮かんだ思いを、ぶるぶると頭を振って打ち消した。何をセンチメンタルに浸っているのだ。私らしくもない。きっと慣れない環境のせいで、ホームシックにかかったのだ。


 だがその思いは、氷を飲み込んだように胸に冷たくつかえたまま、中々消えなかった。

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