ギフテッド
呼杜音和
序章
フロックコートの詰襟が喉を圧迫するのを感じ、尾上警部は一つだけ、首のボタンを外すことを自分に許可した。真っ白なハンカチで、額に滲みだした脂汗を拭う。
神田区東松永町にある蓮暁教の本部は、不気味な静けさの中に沈み込んでいた。賑やかな往来の音も、どこかに吸収されて届かない。信徒たちは別の部屋に押し込められ、事情聴取を受けるのをじっと待っている。先ほどから遺体を検分している巡査医師の吉田も、固く口を閉ざしたままだ。
血しぶきの散った障子から夕陽が差し込んで、室内を朱色に染め上げていた。鮮血を吸って膨らんだ畳の目から濃密な匂いが立ち上り、鼻腔の奥にこびり付く。切断され、折り重なるように倒れた遺体は、思わず目を背けたくなるほど無残な姿をさらしていた。血の海。血で血を洗う。どの言葉をもってしても、これほどの惨劇を表現するには不十分に思えた。
縦一文字の斬撃を受け、背開きさながら骨まで削られた男が、血濡れの顔をこちらに向けている。驚いたような目つきで、なぜ私は殺されたのでしょうと問いかけている。壁一面に楓の葉のような手形を残したのは、あそこに転がった手首か。腹から臓物を垂らして死んだ女の、蛙のように開いた腿の内側だけが、浮かび上がるような白さだった。
この残忍さ、人のなせる所業ではない。
カチャカチャと、腰に帯刀したサーベルが鳴る。柄に置いた手は、怒りに震えているのだと思い込もうとした。
「尾上警部」
振り向くと、所轄駐在所から派遣された平塚巡査が敬礼の姿勢で立っている。
「目撃者を連れてまいりました。教祖の世話役だそうです」
青白い顔をした、痩せた女を伴っていた。
「ご苦労。話は私が聞く。君は吉田君を手伝ってくれ」
顔なじみの若い巡査に指示を与えると、手帳を取り出して女と向き合った。
「世話役とは、普段どんな仕事をするのかね」
事件とは直接関わりのないことから尋ねたのは、相手の緊張を解くためだ。
「お着替えなど、千姫様の身の回りのお世話をさせていただいております。その他には、客人の接待なども」
「なるほど教祖は千姫というのか」
政界にも信者がいるという千姫の噂は耳にしていたが、敢えて知らないふりをする。
「はい。大変な霊力をお持ちの、巫女様でございます」
「ここには長いのかね?」
「かれこれ十年ほどお世話になっております」
伏し目がちに話す女からは何の感情も伝わってこない。恐ろしい惨劇を目撃し、一時的に感情が麻痺してしまっているのだろうが、話は聞けそうだった。刺激しないよう、もの柔らかに尋ねる。
「あなたも辛いでしょうが、捜査のためです。何があったのか、一部始終を話してもらえますか」
こくりと一つ、からくり人形のように頷いた後、女は訥々と話し出した。
「奈良県吉野群長瀞村の郷長、中田宗兵衛様とご一行が、姫様にお目通りを願ってやって来られたのは正午頃でございました。郷長様はご子息夫妻とその娘のサヨ様、下男の四名を伴っておいででした」
「ふむ。中田宗兵衛、喜一郎とウメの夫婦、娘のサヨは数えで十歳と。留吉というのは下男ですな」
押収してあった帳面をめくり、名前を読み上げる。
「はい。サヨ様に憑いた邪霊を祓ってもらいたいとのことでした。なんでもサヨ様は生まれてから一言も口が利けず、一人で歩くことすらままならないそうで、行者や僧侶、祈祷師、誰にみせても悉く匙を投げられたとのこと。姫様が最後の頼みと、遠路はるばる参られたのでございます」
口ひげをなぞっては頷き、話の続きを促す。
「始め姫様はあまり気乗りがなさらないご様子でした。サヨ様がこのように大変な因縁を背負わされたのは、全てあなた方やその先祖の犯した罪が原因であると、それは厳しく郷長様を非難されました」
「それは、どんな罪か言いましたか」
手帳にペンを走らせながら尋ねた。女は「いいえ」と首を振る。
「ですが、姫様の霊視によりますと、サヨ様には何体もの霊が取り憑いており、一番前におられるのは高徳の聖様であると」
霊視と書きつけて二重線で消した。それでは事実は何も分からない。
「姫様は、その聖様が大変おいたわしいお姿になっておいでですと申されました」
なるほど、と一つ頷いてから、話を元に戻すために尋ねた。
「最初は渋っていたが、依頼を引き受けたということですか」
「さようでございます。御祈祷は何時間にも及びました。ただならぬ相手であったようでございます。祝詞の最中、姫様が突然うっと声を上げられ、のけぞるように身体を反らされました」
急に障子の外が暗くなったかと思うと、雨風の音がざっと強まった。
「おや、夕立だろうか」
一つ咳払いをして、女に向き直る。
「そういったことは、よく起こるのですかな。その、祈祷の最中には」
「いえ、めったにございません。よほどの悪霊であったようです」
風がどんとぶつかり、家屋が軋んだ。隙間風が入るのか、斜めに垂れ下がった御簾がはためき、室内の気温が急速に下がってゆく。
「ですが流石は姫様、直ぐに体を起こして御祈祷に戻られました。御祈祷が終わると、姫様はこう申されました。私にできるのはここまでです。これ以上は、サヨさんのお身体がもちません。ですが、お首はお据えいたしました」
「首を据えた、と?」
遠雷に混じり、どこからかワーンと囁くような音がする。なぜか、これ以上話を聞いてはいけない気がする。
「はい、確かにそう申されました。姫様のお力をもってしても、サヨ様をお救いできないと分かり、ご一同はすっかり落胆しておいででした。その時でございます、それまで力なく下男にもたれておられたサヨ様が突然口を開き、中田宗兵衛、と申されたのです」
「ふむ、奇妙な」
ぞわり、と背筋を寒気が這い登る。できることなら女の生気のない頬を打って、今すぐにでも話を止めさせたい。
「続いてお父上、お母上、下男の名を次々に呼ばれたのです。皆様の驚きはたいそうなものでした。生まれてから一度も口を利いたことがなかったのですから、無理もございません。郷長様が、この子は賢い子じゃ、ちゃんと父母の名前をわかっておると、手を打ち、涙を流して喜ばれました」
「警部、ちょっといいですか」
遺体を検分していた巡査が言うのを、まだだと手で制す。
「それで?」
「はい、サヨ様も笑っておいででした。もう、嬉しくてたまらぬというように、何か申されたのです。ですがその時、急に姫様の血相が変わり……」
「警部、やっぱり変ですぜ」
「平塚、後で聞く」
先ほどから巡査は、破壊された祭壇の下に倒れた、巫女の遺体を検分している。陣羽織の背中を、長い黒髪が蛇のようにうねり、流れ落ちていた。
目の前の女に視線を戻す。
「血相が変わって、それでどうなりました」
「姫様は、サヨ様が申された言葉に、突如ご乱心あそばされたのです」
警部と巡査、二つの声が重なる。
「サヨさんは何と言ったのかな」
「サヨの遺体がどこにもありませんぜ」
女の、墨を流し込んだような目が、ふっと嗤ったように見えた。ワーンという、蟲の羽音にも似た音が大きくなる。
その時、巫女の遺体がぴくりと動いた。
「生きてる! 警部! 先生! 息がありますぜ!」
吉田巡査医師が駆け寄り、脈を確かめようと巫女の手をとった。
「尾上武春、吉田英彦、平塚信造」
名を呼んだのは、あどけない、少女の声だった。
振り向くと、いつの間にか女の姿は消えていた。代わりに赤い振袖姿の女児が立っている。その小さな口から、鼓膜を震わす不快な音が漏れている。
ふいに、漆黒の闇が降りた。
「その言葉、それ以上言わせてはならぬ!」
がばと跳ね起きた巫女が、颯のように飛びかかる。
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