七章:侯爵令嬢は決着をつける⑥


 エレオノールは顔をあげ、いまだに自分を抱きしめて離さない婚約者を見る。


 彼の目は真っすぐにリディアーヌに向かっている。そこにあるのは間違えようのない殺意だ。憎悪。激情と言ってもいい。再び、エレオノールは背筋が冷えていくのを感じた。


「エリーに手を出そうとして、私が許すと思ったのか」


 何度か、エレオノールはアルベールが怒ったところを見たことがある。アルベールは怒っても、その感情をあからさまに表現しない。


 しかし、今、アルベールは激怒を隠していなかった。本当に人が殺せそうな目をリディアーヌに向けている。


「ルシール」


「はい、なんですか? お坊ちゃま」


 アルベールは視線を動かさないまま、ルシールの名を呼ぶ。彼女はどこか面倒くさそうに答える。


「外にいる連れを呼べ。――三人だ。連れてきた連中だけでどうにか出来るな」


 エレオノールにはアルベールの言葉の意味が分からない。しかし、ルシールには伝わったらしい。


「……まあ、出来ますけどね。よろしいんですか?」


「そういう可能性も考えて、二人も連れてきたんじゃないのか」

「厄介なことになってたときを考えたってだけです。そういうつもりはありませんでしたよ」


 ルシールは立ち上がる。


 気づけば、侍女の両手両足は布で拘束されている。これで身動きを取ることは出来ない。


「それで三人ってことですが、ロッシュ準男爵も含まれてます? 彼は協力してくれたじゃないですか」


「目撃者を生かしておくわけにはいかないだろう?」


 ――目撃者を生かしておくわけにはいかない。

 その言葉で、嫌な想像が浮かぶ。


 エレオノールはアルベールの腕を掴んだ。


「アルベール様。何をしようとしていらっしゃるんですか」


 その質問にアルベールは答えない。代わりに口を開いたのはルシールだ。


「坊ちゃまはリディアーヌ様と侍女マチルド、ロッシュ準男爵を私たちに殺してほしいと言っているんですよ」


 彼女の口調は妙に淡々としている。


「人目につかないようにコッソリとね。そういうことは得意なので」


 エレオノールを息を呑んだ。


 正直なところ、疑問は尽きない。何故、ルシールとその連れにアルベールがそんなことを頼んだのか。一体彼女が何者なのか。


 でも、大事なのはそこではない。アルベールがリディアーヌたちを殺そうとしているという点だ。


「駄目です」


 エレオノールは声を張り上げた。


「リディを――彼女たちを殺すなんてお考えになるのはやめてください」


「エリー。リディアーヌはね、決してやってはいけないことをしようとしたんだよ」


 対して返ってきたのは淡々としたものだ。こちらを見下ろす瞳も冷たい。


「リディアーヌは私からエリーを奪おうとした。これは重罪だよ。生かしておけるわけがない」


 アルベールはエレオノールを大事に想ってくれている。優しくしてくれる。しかし、その反面他者にそれほど優しくないことはエレオノールも知っていたことだ。そして、リディアーヌはアルベールの逆鱗に触れてしまった。彼は容赦をするつもりはない。


 ――それでも、と思う。


「それでも、いけません」


 それでも、リディアーヌを殺すのは間違っている。だから、エレオノールは訴え続ける。


「間違いを犯した者の命を奪って、それで全部なかったことになるのでしょうか。私は違うと思います」


 過去は消えない。


 エレオノールは全部覚えている。

 ジスランに顧みられなかったこと。リディアーヌにジスランを奪われたこと。


 全部、全部覚えている。


 例え、その全ての原因がアルベールで、二人に非がなかったとしても、かつて傷ついたことをエレオノールは覚えている。


 覚えているうえで、全てを受け入れることを決めたのだ。


「間違いや失敗は誰にでもあるでしょう。取り返しがつく過ちは、取り返しがつかない方法で償うものではありませんわ。私が生きている以上、その代償に彼女たちの命を奪うのは少し違うと思いますの」


「だが、生かしておけばまた君に危害を加えようとしかねない」


 彼がリディアーヌを殺そうとしているのは、何も自身だけのためじゃない。エレオノールを守るためでもあるのだ。


 だから、エレオノールは微笑んだ。


「なら、私のことを守ってください。アルベール様なら、どんな脅威からだって私を守ってくださるでしょう」


 アルベールは沈黙する。


 ――エレオノールは信じている。


 なんだかんだ言っても、アルベールはエレオノールに弱い。どれだけ自身の意に反しても、最終的にはエレオノールの気持ちを尊重してくれる。


 この件についてエレオノールは折れるつもりはない。それであれば、アルベールが譲るしかないのだ。


 それでも緊張は解けない。


 ここまでアルベールを激昂させる出来事があったのははじめてのことだろう。今までは折れてくれていたからと言って、今回も必ずそうなるとは限らないのだ。


 誰も動けない。誰も動かない。


 ルシールも護衛たちも主の言葉を待っているし、リディアーヌとロッシュ準男爵は自分たちの身がどうなるのか黙って待つほかない。


 エレオノールもアルベールの答えを待つ。


 彼はしばらくエレオノールを感情の読み取れない瞳で見下ろしていた。それから、深い深い溜息をつく。


「…………分かった」


 その言葉に一気にその場の空気が軽くなる。


 エレオノールも安堵の息をもらし、アルベールに抱き着いた。


「ありがとうございます、アルベール様。大好きです」


「今回だけだよ。……エリーには敵わないな」


 そう言うと、アルベールはエレオノールから離れる。コツコツとリディアーヌに近寄った。


 アルベールは冷たい目で彼女を見下ろす。


「今回はエリーに免じて許そう。ただ、私は彼女のように寛大ではないんだ。次、またエリーに危害を加えようとしたら」


 それからアルベールはリディアーヌの耳元に何かを囁いた。


 元々青かった顔色からさらに血の気がひく。ガタガタとリディアーヌは震え出した。


「ね? 分かったら、返事は?」


「も、もう何もしないわ! 金輪際、お姉様にも関わらない」


 異母妹の声音は裏返っていた。満足したようにアルベールは微笑む。


「分かってくれて嬉しいよ。――君も、命が惜しかったら余計なことを吹聴しないようにね」


 釘をさされたロッシュ準男爵は蒼白な顔色ながらも、「分かりました」と頷いた。


 また、アルベールはこちらに戻って来た。


 アルベールがリディアーヌに何を言ったのか気になるが、聞かない方がいいかもしれない。


「こんなことになった以上、やっぱりリディアーヌを同じ馬車に連れて帰るのは無理だな」


「それであれば我々が連れて帰りましょう」


 そう提案してきたのはルシールだ。


「馬で来ましたが、相乗りさせれば帰れますよ。残りのこともお任せください。お坊ちゃまたちは先に帰ってもらって大丈夫です」


「うん。頼んだ」


「エレオノール様も、ご安心ください。決して悪いようにはしませんので」


 ルシールはエレオノールに笑ってみせる。


 不安は残るものの、アルベールよりはルシールに任せたほうが穏便にすみそうだ。「よろしくお願いしますね」とエレオノールも会釈をした。


 アルベールに連れられ、エレオノールは馬車に向かう。


 それと入れ違いで屋敷の外にいた男たちが中へ入っていった。人相の悪い屈強な男たちだ。貴族でないことは――いや、一般市民でないことが明らかに分かる。


(これで、一安心なのでしょうか)


 元々、エレオノールが望んでいたのはリディアーヌと向き合うことだ。


 真実を話すつもりで来たが、結局それは叶わなかった。アルベールにリディアーヌと結婚する意志がないことは伝えられたものの、これで良かったのかという疑問は残る。


 少しすると護衛たちも屋敷から戻って来た。全員揃ったことを確認すると、馬車は走り出す。


 ロッシュ準男爵の別邸がどんどん遠ざかる。エレオノールは見えなくなるまで、屋敷を見つめ続けた。 


「エリーは本当に甘いね」


 ポツリとアルベールが呟いた。エレオノールはアルベールを見た。


「君はいずれ、あの三人を生かしたことを後悔するかもしれない」


 こちらを見る淡褐ヘーゼル色の瞳には昏く光っている。


 折れてはくれたものの、やはりエレオノールの選択を納得してはいないようだ。


「後悔なんてしませんわ」


 この点に関しては断言できる。今日の選択をエレオノールが後悔する日は絶対に訪れない。


 エレオノールは微笑む。


「アルベール様。私、ずっと物語の主人公ヒロインに憧れていたんですの」


 母が遺したたくさんの恋愛物語。


 その中の主人公たちは苦難を乗り越え、最後には愛する王子様と結婚する。彼女たちは幸せそうだった。

 

「誰かに大切にされることに、愛されることに憧れていたんです。ずっと、彼女たちのようになりたいと思っていました。ですが、実際に愛されなくて……私は主人公ヒロインとは違うんだと思っていましたの。愛されない悪役と一緒だと思っていたんです」


 王子様ジスランはエレオノールを愛してくれなかった。王子様が選んだのはリディアーヌだった。


 主人公ヒロインはリディアーヌのような子のことで、エレオノールの立ち位置は彼女とは違うのだと思い込んでいた。


 ――でも、そうじゃないのだ。


「本当は主人公ヒロインも悪役も現実にはいませんでしたのよ。誰だって主人公ヒロインにも、悪役にもなる可能性があるんです」


 リディアーヌは本来、主人公ヒロインに相応しい娘だった。


 でも、アルベールの思惑に巻き込まれ、彼女は主人公ヒロインではなくなってしまった。今の彼女は愛する人を奪われた悪役と同じだ。


「私もリディも一緒です。あの子の身に起きたことは私の身に起きてもおかしくなかったんですのよ。だから、やはり私はあの子を犠牲にして、すべてを終わらせることは出来ませんでした」

 

 エレオノールにはリディアーヌの気持ちが痛いほどわかる。


 今も、リディアーヌを以前のように愛せるかと言われれば答えられない。


 二人の間にはお互いの最愛の人を奪ったという確執がある。それをなかったことには出来ない。でも、そのことをずっと怨み続ける必要もないのだ。


「全部終わってさえいなければ、可能性は残ります。これからあの子たちがどうなるかはまだ決まっていません。私のことを怨みながら生きていくかもしれませんし、別の愛する人を見つけて私のこともアルベール様のことも忘れてしまう日が来るかもしれません。その選択肢を奪う権利は私たちにはありませんのよ」


 死んでしまえばその先の選択肢は失われる。


 エレオノールは悲観的な未来を警戒するより、希望的な未来に夢を見たい。リディアーヌにも輝かしい未来の可能性は残っているのだと、心から信じている。



 ✧



 エレオノールの言葉には迷いがなかった。アルベールは最愛の人をじっと見つめ、口を開いた。


「君は信じているんだね」


「夢を見ているだけかもしれませんけれど」


 彼女は苦笑する。


 思い返せば、最初に出会ったときから彼女はそうだった。

 彼女はツバメの雛の死を嘆いた。そして、生きていれば幸せな未来が訪れただろうと信じていた。


 アルベールは希望的な未来を夢見ることはしない。現実的な予想をし、なるべくリスクを減らそうと考える。


 今回の件でいえば、リディアーヌたちは始末しておいたほうが懸念事項を確実に潰せる。リディアーヌが考えを改めることを期待するより、口を封じたほうが確実だ。


 それでも彼女は信じてる。希望的な未来を夢見てる。


「いや」

 

 アルベールは笑う。緊張が解れたこともあり、自然に笑みが浮かんだ。


「エリーはそれでいいんだ。私はそんな君を好きになったんだからね」


 夢見る彼女が欲しい。そう思ったのがすべての始まりだ。あの頃からアルベールの想いは全く変わっていない。


 エレオノールは少し恥ずかしそうに顔を赤らめる。


「未来か」

 

 アルベールは思う。


 自身が利用し、見捨てようとした美しい少女はこれからどう生きるのだろうか。


 エレオノールが夢見るように、リディアーヌの未来が希望のあるものになるどうか。それはリディアーヌ次第だろう。


 アルベール自身はリディアーヌの将来には興味がない。重要なのは彼女がエレオノールとアルベールの邪魔をしてこないかどうかだ。


 先ほど脅しはかけておいた。反応を見る限り、馬鹿な真似はしないとは思う。それでも、彼女に対する警戒を外すつもりはない。


 ――でも。


 エレオノールが信じている。アルベールの最愛の人は、異母妹の未来が明るいものであることを願っている。


 だから、アルベールもほんの少しだけ思った。


 今まで散々利用し、顧みようとしなかった少女の将来に――本当に、ほんの少しだけだが――思いを馳せたのだ。


 リディアーヌの未来が幸せなものであれば、と。

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