六章:侯爵令嬢は元婚約者と向き合う④


「とりあえず、座るといい」


 そう言って、彼が指差したのは執務机の前にある応接用のソファだ。


 エレオノールは「失礼いたします」と言って、ソファに腰をかける。ジスランは執務机から動く様子がない。距離は空いたままだ。


 執務室の重たい空気は全く変わっていない。


(……何から話せばいいのでしょうか)


 話したいことはある。しかし、どこから切り出せばいいのかが分からない。


 思い切って本題から聞くべきだろうか。いや、突然「皇太子殿下は幸せですか?」と訊ねても困惑されるだけだろう。出来れば、それとない世間話から話をしたいところだが、どういう話題を振るのが適切かが分からない。


 いたずらに時間だけが過ぎる。


 ――もう思い切って何かを言おう。


 そうエレオノールが決心したときだ。ジスランが口を開いた。


「きょ、今日はいい天気だな!」


 エレオノールは目を瞬かせて、ジスランを見つめる。


 ジスランは自身の発言に後悔したのか、沈痛そうな表情で目をつぶっていた。


 その話題は世間話の始まりとしてはあまりにも定番すぎた。当たり障りはないが、面白みにも欠ける。しかし、皇太子からエレオノールに話題を振ってくれたのはこれがはじめてのことだった。


 思わず笑みがこぼれる。


「そうですわね。雲一つない空模様で、晴れてよかったですわ。お庭でお茶会をするにはピッタリのお天気でした」


「シャーリィも晴れてよかったと言っていたぞ。晴れという天気はいいが、こうも天気が良いと執務をしているのも馬鹿らしくなるのが問題だな。馬を走らせたくなる」


「ふふふ、そうですわね。殿下は今もよく遠駆けにはいかれるんですか?」


 エレオノールが婚約していた頃、ジスランは週に一、二度の頻度で馬に乗って出かけていた。遠駆けはジスランの趣味だ。


 それは今も変わらないのだろうか。そう思って訊ねたのだが、返ってきたのは否定の言葉だった。


「……いや、最近はあまり行かなくなったな」


 ジスランは窓の外を眺めながら答える。


 ――驚いた。あれほど好きだったのに。別の趣味でも見つけたのだろうか。


 エレオノールは首を傾げる。


「……それはどうしてでしょうか?」


 ジスランは一度こちらに視線を向ける。


「馬に乗って走っているととても気分が晴れるんだ。嫌なことが忘れられる」


 彼はすぐにまた窓の外に視線を戻す。エレオノールも同じように外を見る。


 窓の向こうには青い空が広がっていた。


「王宮での暮らしは長く、僕にとって息苦しいものだった」


 皇太子がとても真面目な人物であることはエレオノールも知っている。


 彼の抱える重責はエレオノールの想像以上だろう。彼にとって皇太子という立場は重たいものに違いない。


「それが嫌と思ったことは――ない、と言えば嘘になるか。ただ、僕は皇太子の座を投げ出したいと思ったことはない。この国のために尽くすのがいずれ王になる僕の役割だと思っている。まあ、ただ、色々なしがらみの中で雁字搦めになって、窮屈な思いをずっと抱えていた」


 ジスランの赤い目が真っすぐにこちらを見た。


 ――彼がハッキリとエレオノールに視線を向けたのは、婚約したとき以来かもしれない。


「君には申し訳ないことしたと思っている。君が僕に好意を抱いていることは気づいていた。そのためにたくさんの努力を重ねてたこともだ。だが、僕は君の好意に応えなかった。その結果、君を長い間苦しめ、傷つけてしまった」


 ジスランの表情も声も後悔に満ちていた。


 エレオノールは思わず立ち上がる。


「謝らないください。事情は聞いています。全部、アルベール様が悪いのでしょう?」


 あるいはアルベールをそうさせたエレオノールか。いずれにせよ、ジスランに非はない。


「アルベール様は……その、皇太子殿下を脅迫したと仰ってました」


「――本当に情けない話だ。将来一国の王になろうという男が臣下の言いなりになってしまったんだ」


 そう言うジスランの顔色は真っ青だ。


「あのときのアルベールは本当に恐ろしかった。それまでアイツのことは温厚な人間だと思っていた。一度も怒った姿を見たことがなかった。まさか、本性があんな恐ろしい悪魔のような奴だとは」


 当時、十三歳だった皇太子が十八歳の年上の男性に脅されるのだ。恐怖を感じてもおかしくない。


 ジスランは重い溜息を吐く。


「君は皇太子妃に相応しい人だった。だが、僕は次期ラルカンジュ公爵を敵に回したくなかった。君とアルベールを天秤にかけて、僕はアルベールを選んだ。――言い方は悪いが、君の代わりは他にもいる。国を二分させるような内戦が起きるぐらいだったら、君を見捨てる道を僕は選んだ」


「当然の選択だと思います。皇太子殿下は正しい選択をなされました」


 不快に思われるかもしれないが、エレオノールはジスランの行動を肯定した。事実、ジスランの行動は為政者としては間違いではない。


 ジスランは「ありがとう」と苦笑いを浮かべた。


「父上にはこの件はとてもじゃないが言えなかった。それこそ、争いが起きかねない。だがら、僕はずっとこのことを誰にも言えずにいた。父上は君を蔑ろにする僕を責めたし、僕の寵愛が君にないと知って側室の座を狙って変な女たちが声をかけてくるようになった。いずれ、この婚約が解消されるまでの我慢と思ってたら、今度はアルベールに嵌められてリディアーヌを皇太子妃に迎えることになってしまった。――一番辛かったのはリディアーヌが王宮に来てからだな。まったく好きでもない、しかも皇太子妃に相応しいといえない女の相手をしないといけないんだ。あのときは心の底からアルベールを恨んだな」


 やはり、ジスランはリディアーヌを愛していたわけではなかった。


 それより、話を聞いている限り、ジスランに非は一切ない。間違いなく、今回の件の一番の被害者は皇太子だろう。


「姉である君に言うことではないことだと思うが、あの頃は本当に地獄のような日々だった。毎日のように遠駆けに行って、気分を紛らわせないとやっていられなかった」


 その話を聞いて、ピンとくるものがあった。思わず、エレオノールは口を開く。


「もしかして、シャーリィ様とも遠駆けに行かれました? 」


 シャルロットが様子がおかしくなる少し前。

 馬の世話をすることになったと言ったシャルロットは遠駆けをしたと言っていた。――もしかしたら。


 驚いたようにジスランは目を見開く。


「ああ、そうだが。――その話をシャーリィがしたのか?」


「いいえ。以前、遠駆けにお一人で出かけたというお話を聞いたんです。馬の世話をすることになったと伺っておりましたが……」


「ちゃんとは説明されてないか。まあ、当然だな」


 躊躇う様子を見せたが、ジスランは口を開く。


「シャーリィはしばらく王宮の厩で馬丁をしていたんだ。もちろん、素性は伏せて、男の振りをしてな」


 ――その話はあまりにも想定外すぎた。


 確かに以前、シャルロットは馬丁と仲が良かった話はしていた。馬に乗るのも好きと言っていた。だが、伯爵令嬢がまさか王宮で馬丁として働いていたとは思いもよらなかった。


 エレオノールは何も反応が出来なかった。ジスランは言葉を続ける。


「馬丁の一人が怪我をしたんだ。男装したシャーリィもそこに居合わせてな。人手が足りないっていう話になったから手伝うことになったと言っていた。言っておくが、僕も詳しい事情は聞いていないぞ。何で男の振りをして王宮にいたのかは本人に直接聞いてくれ」


 彼女が王宮にいた理由もエレオノールには分からない。


 ただ、シャルロットが放っておけなくて厩の手伝いを始めた、というのは簡単に想像が出来た。人の良いシャルロットらしい話だ。

 

「僕の愛馬のベレニスは分かるか? シャーリィはベレニスの扱いも上手くてな。気に入ったから供として遠駆けに誘ったんだ。シャーリィは僕と同じぐらい速く馬を走らせられた。だから、それ以降毎回付き合わせてたんだ」


 その話題になった途端、ジスランの目が輝きだす。


「あれは本当に楽しかったな。馬で草原を全速力で駆けるんだ。馬が疲れたら休憩をして――シャーリィは庶民のことに詳しくてな。いろいろと話をしてもらったり、遊びを教えてもらった」


 最初は好きな馬の話題になったからだと思った。

 だが、違う。馬ではなく、シャルロットの話題になったからだ。


 先ほど、シャルロットはジスランを好きになったことを認めていた。ジスランも楽しげにシャルロットとの思い出を口にする。


 ――どうしてシャルロットがジスランに嫁ぐことになったのか。二人がお互いをどう思っているのか。その答えを知れた気がした。


「皇太子殿下はシャーリィ様のことを愛していらっしゃるんですのね」


 エレオノールが微笑む。すると、そこまで楽しげに話していたジスランが途端に口をつぐんだ。気まずそうな表情を浮かべる。


「……シャーリィは僕のことを何か言っていたか」


「ええと、何か、と仰いますと」


「情けないとか、しょうがないとか、皇太子らしくないとか、そういう話だ」


 エレオノールは首を傾げる。


「いいえ、特にそういったことは仰っていませんでしたけれど」


「シャーリィには泣きついて側室になってもらったんだ」


 泣きつく、という言葉に驚いた。

 エレオノールは瞬きをする。どこか気まずそうにジスランは言葉を続ける。


「最初は男だと思ってたから、傍にいてくれるだけでいいと言った。だけど、アルベールがシャーリィは本当は女だって教えてくれて――求婚したんだ。最初、シャーリィには断られた」


『私、最低ですよね。お友達の婚約者だった人を、初恋の人を好きになるなんて』


 先ほど、シャルロットは泣きそうな顔でそう言った。


 シャルロットがジスランに出会った頃、彼女はどんどん様子をおかしくしていた。そして、エレオノールの心がもう皇太子にないことを聞いて、彼女は明るさを取り戻した。


 なぜ、彼女が求婚を断ったのかは想像がついた。


「でも、その後にやっぱり側室になってもいいと言ってくれた。仕方ないから、と。同情なのか、義務感なのかは知らない。だが、シャーリィが傍にいてくれるだけで僕は満足だ。それ以上はもう望まない」


 その言葉に違和感を覚える。もしかしたら、ジスランはシャーリィの本当の気持ちを知らないのだろうか。


 ジスランは立ち上がり、――笑った。どこか悲しい静かな笑みを浮かべた。


「エレオノール。君は今幸せか」


 それはエレオノールも訊ねたかった言葉。

 エレオノールは頷いた。


「幸せですわ。どういう形であれ、私は私を愛してくださる方と出会えました」


「僕も幸せだ。傍で僕を支え、ときには叱責してくれる人と出会えた」


 もしかしたら本来その相手はお互いだったかもしれない。


 ――だが、それはもしもの話だ。


 エレオノールはアルベールと生きることを決めたし、ジスランはシャルロットを妻に迎えた。今のエレオノールにとって、ジスランは敬愛すべき皇太子であり、大好きな友人の夫でしかない。ジスランも同じような気持ちかもしれない。


 エレオノールも微笑む。


「こうしてジスラン様のお気持ちを聞けて良かったです。貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」


 エレオノールはお辞儀をする。


 聞きたいことは聞けた。これ以上、皇太子の時間をとるわけにはいかない。


 ジスランは何かを言おうと口を開いた。しかし、結局何も言わなかった。苦笑を浮かべる。


「いや、こちらこそ。君ときちんと話が出来てよかった」


 おそらく、これが二人で話す最初で最後の機会だ。


 エレオノールとジスランは全てが終わって、ようやく向き合うことが出来たのだ。

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