五章:侯爵令嬢は真実を知る⑤
皆にはじめて会った日のことを思い出す。
幼少期、乳母を亡くし独りぼっちになったエレオノールに声をかけてくれたリディアーヌ。あの子は我儘なところもあったけど、一緒にいたら寂しくなかった。大好きな異母妹だった。なのに、彼女はエレオノールからジスランを奪った。
婚約者であったジスラン。エレオノールにとって初恋の人。ずっと焦がれていた人。彼はとっても真面目な人だった。なのに、彼はエレオノールを顧みてくれなかった。
新しい婚約者であるアルベール。いつだって優しくしてくれた兄のような人だった。でも、彼はリディアーヌに愛を囁いていた。
エレオノールは裏切られてきた。だが、リディアーヌもジスランも裏切りたくて裏切ったわけじゃない。全部、目の前にいるアルベールに利用されただけなのだ。
エレオノールが今まで見てきたものが全てではなかった。真実はエレオノールの知らない場所に存在したのだ。すべて、アルベールが仕組んだことだった。
エレオノールはずっと、アルベールが穏やかで優しい人だと信じていた。誠実で、嘘なんてつかない正直な人だと思っていた。――しかし、実際、彼が裏でやっていたことは全然違う。
ジスランを脅迫し、リディアーヌを利用した。そうして、ジスランとエレオノールの婚約を破棄させた。ジスランには薬を盛ったこともあるらしい。国家反逆罪で捕まってもおかしくないことをしている。
エレオノールの倫理観で言えば、アルベールは悪い人だ。
しかも、彼がそうしたのは全てエレオノールを手に入れるためだと言う。
今もエレオノールはアルベールが自分を好きになった理由があまりしっくり来ていない。
しかし、彼が嘘をついたようには見えない。元から嘘をついていたわけではないが、今アルベールは真実を全てエレオノールに教えてくれた。
アルベールは今、昏い笑みを浮かべている。
――エレオノールは何を伝えるべきだろうか。
言わないといけないことがある気がする。でも、その前に言いたいことがあった。思ったことを伝えようと思った。
エレオノールは婚約者をじっと見上げる。
そして、微笑んだ。
「嬉しいです」
瞬間、顎と手首を掴むアルベールの力が緩んだ。面食らったようにアルベールが目を見開く。
「本当に、アルベール様は私のこと愛してくださっていたんですのね」
エレオノールはずっとアルベールを疑っていた。彼の愛を疑っていた。だって、信じることは怖い。裏切られたときのことを思うと本当に怖い。だから、エレオノールはアルベールの言葉を信じられなかった。
でも、今は違う。
アルベールは本当にエレオノールを愛してくれていた。エレオノールを手に入れるために、手段を選ばなかった。――それは、それだけエレオノールを愛してくれていることの証明ではないだろうか。
胸に広がるのは昏い喜びだ。
本当にアルベールはエレオノールのことを愛してくれていた。そのことが嬉しい。
もうアルベールの腕の力はエレオノールでも振り解けるほどだった。エレオノールはこの想いを伝えるために、アルベールの腕を解くと自身の腕を彼の首に回した。
「嬉しいです。本当に嬉しい」
アルベールはまるで放心したかのように一切の身動ぎをしない。代わりにエレオノールは腕の力を強める。
「欲しいものはなんでもくださるとおっしゃいましたわよね。愛をくださるとおっしゃいましたわよね。――では、私にアルベール様をください。その代わりに私を差し上げます」
エレオノールは一度腕の力を緩め、アルベールの顔を見る。彼は信じられないとでも言うようにエレオノールを見つめている。
「一生、アルベール様は私のものです。心変わりなんて許しません。死ぬまで、いえ、死んでも私のものです。ずっとずっとずっとずっと、私だけを愛してくださいますか?」
ずっと、ずっとエレオノールは自分を愛してくれる誰かを探していた。
本当に望んでいたのは変わらぬ永遠の愛だ。物語のように心変わりすることのない愛。アルベールはいくらでも愛をくれると言ってくれた。一生自分のものだと言ってくれた。それはエレオノールがずっと欲しかったものと何が違わない。
アルベールがなんでもくれると言うのなら、エレオノールはアルベールが欲しい。彼の永遠が欲しい。一生、エレオノールを愛し続けると約束してほしい。
アルベールはまるでエレオノールが清い存在かのように言ったが、エレオノールだって醜い。
誰かにずっと愛してほしかった。愛する相手が誰かと仲良くなったときに醜く嫉妬もした。エレオノールだって、アルベールと同じだ。彼が卑下する必要はないのだ。
「約束する」
ようやく、アルベールが口を開いた。
それから強い力でエレオノールを引き寄せる。
「一生、君だけを愛するよ。心変わりなんて絶対にしない。私はエリーのものだ」
「全部全部私にくださいね。もし、私のこと裏切ったらアルベール様の命は私が貰いますから」
「裏切ることなんて絶対にしない。私の心も、身体も、命も、全部エリーのものだよ」
「私もアルベール様のものです。――愛しています、アルベール様」
エレオノールはアルベールに身を委ねる。大きな手がエレオノールの頬に触れた。彼の顔が近づく。エレオノールは目を閉じる。
二人はそっと唇を重ねた。
✧
誰かを愛し、誰かに愛してもらえる。エレオノールがずっと望んでいて、諦めかけていた夢。
エレオノールはこれ以上なく、幸福な気持ちだった。夢のような心地だった。
――違和感を覚えたのは、背中に座席がぶつかった感触でだ。
最初は触れるだけだった口付けがどんどん深くなる。
エレオノールの頭に回されていた手が腰に回る。シュッと何かが解かれる音がした。メイド服のエプロンのリボンが解かれたのに気づき、エレオノールはようやく我に返った。
「ア、アルベール様!」
全力でアルベールの体を押し返す。アルベールは少し不満げな表情を一瞬したが、すぐに笑顔を浮かべる。
「どうかしたの、エリー」
「な、何をされようとしてるんでしょうか」
「あはは、愛し合う二人ですることなんて決まっているだろう」
アルベールは笑っているが、目は全く笑っていない。
――彼は本気だ。本気でここで事を運ぼうとしている。
しかし、エレオノールにはまだ理性が残っている。倫理観もある。このまま、ここでアルベールと男女の関係になるとのは色々と問題がある。
「あの、そういうことは結婚してからではないと駄目だと思うんですのよ」
「真面目だな、エリーは。そんなの守ってる人なんてほとんどいないよ。若い人たちは皆結婚前からやってるって」
「そ、そうなんですの……?」
「うん、そうそう」
「で、ですが、ラルカンジュ公爵やお父様は婚前交渉は良くないとおっしゃられると思いますの」
「大丈夫。バレなければ平気だよ」
アルベールの言う「皆やってる」が本当なのか、エレオノールには判断がつかない。バレなければ大丈夫、という言葉に流されかけそうになり、――再び近づいてきたアルベールの体を押し返した。
「バレなければって――絶対にガエルとルシールには知られてしまいます」
二人はまだ馬車の御者台で控えているはずだ。彼らの直接の雇用主はラルカンジュ公爵だ。バレないというのは不可能だと思う。
アルベールはボソッと「気づいたか」と残念そうに呟く。
「他の方がどう、というのは問題にはなりません。アルベール様はラルカンジュ公爵家の嫡男。私はコルネイユ侯爵家の人間なんです。きちんと良識に則って行動するべきです。こういうことは結婚まで待ちましょう」
「……エリーは私のものになったんじゃないの?」
「ええ、私はアルベール様のものですわ。ですが、それとこれは別の問題です」
どう言われようが、エレオノールは考えを改めるつもりはない。やはり、そういうことは夫婦になってからするべきだ。
アルベールは非常に不満そうだった。じっとエレオノールを見つめる。
「エリーは私と結婚する気になったんだよね」
「ええ、もちろんです」
「もう、他の女を私にあてがおうとしない? 逃げようとしない?」
「ええ。お約束しますわ」
妙に疑り深い。
――いや、今までのエレオノールの言動を振り返れば、当然かもしれない。
彼からすればずっと本心から愛を告げていたのに、エレオノールは信じないどころかシャルロットを連れてきたのだ。心配になっても仕方ないかもしれない。
「分かった。結婚してくれる気になったなら、それだけでも大分前進だ。今日は私が折れよう」
エレオノールはほっと肩を撫でおろす。
アルベールが退いてくれ、エレオノールは体を起こした。エプロンの紐を結び直す。
「改めて、――コルネイユ侯爵邸で生活をするのは君の身が危険だ。今回の騒動が落ち着くまで、ラルカンジュ公爵邸で生活してくれるね」
エレオノールは頷く。
彼の本心を知れた今、アルベールに頼りたいというのが本音だ。しかし、一つだけ確認したいことがある。
「リディが皇太子殿下以外の殿方を寝所に招いたっていうのは本当なんですか?」
エレオノールの耳に届くのは父経由で伝わった話と、リディアーヌの主張のみだ。実際にどうだったのか、アルベールなら答えを知っているのではないか。そう思って、訊ねてみた。
アルベールは眉間に皺を寄せる。
「リディアーヌはなんて言っていた?」
「……シャーリィ様に嵌められた、と」
「まあ、そうだね。嵌められたっていうのは正しいかな。実際のところは私も全部は分からない。真相を知っている人は本当に少ないんじゃないかな。今回のことは全部、陛下の策略だからね」
エレオノールは瞬く。
「君も知ってのとおり、皇太子妃には相応の能力と責任が求められる。でも、リディアーヌはその役割を全うしようとしなかった。教育係をつけてもろくに勉強に励まない。やる気もない。遊んでばかり。もともと陛下も、皇太子殿下とリディアーヌの噂が広まりすぎて収拾がつけられなくなったからやむを得ずリディアーヌを皇太子妃に据えただけだ。王宮に入れてからも役目を果たそうとしなかったリディアーヌを皇太子妃失格と判断したんだろう」
そして、リディアーヌは国王の策略どおり、離縁された。
「結果的には良かったんじゃない? リディアーヌも本当に望んで王宮にいたわけではないからね。ずっと、あそこに居続けるほうが大変だったと思うよ」
リディアーヌが皇太子妃になるよう仕向けた張本人にも関わらず、アルベールは他人事のように言う。
そのことを窘めようかとも思ったが、エレオノールにもアルベールを責める権利はない。アルベールがそう仕向けたのはエレオノールのせいでもあるのだから。
エレオノールは沈痛な表情で一度視線を床に落とす。それから別の質問を口にした。
「アルベール様。リディはこれからどうなるんでしょうか」
「さあね。コルネイユ侯爵は修道院に送るつもりみたいだけど」
「どうにかすることは出来ないんでしょうか」
アルベールは怪訝そうな表情を浮かべる。
「まさか、リディアーヌに同情してるのかい? 何をされたか、忘れたわけじゃないだろう」
そう言って彼はエレオノールの髪に触れる。リディアーヌに髪を切られ、クローゼットに閉じ込められたのはほんの数時間前の話だ。
「ですが、元を辿れば、リディが悪いわけではありませんでしょう」
リディアーヌにもまったく非がないとは言わない。軽率な部分も多々あっただろう。だが、彼女がこんなことになってしまった原因はアルベールに――ひいてはエレオノールにもある。
エレオノールにはリディアーヌもアルベールも責めるつもりはない。責められない。
「あの子に修道院での生活が送れるとは思いません」
異母妹は甘やかされて、何でも与えられて育った。清貧を善しとする修道院の生活に耐えられるとは思えない。
「あの子だけが辛い目に遭うのは少し違うのでありませんか」
アルベールは難しい表情を浮かべたまま黙る。それから「少し、考えてみよう」と約束してくれた。
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