四章:侯爵令嬢は異母妹と再会する⑤


 あれからどれくらい時間が経っただろう。


(……外の物音がしませんわね)


 エレオノールは体を起こす。


 リディアーヌに閉じ込められたクローゼットの中は薄暗く、エレオノールは身動きもとれずにいた。それから体感的には五時間以上経っているような気がする。しかし、窓のないクローゼットの中では正確に今の時間を知るすべはない。


 ――いつまでここに居ることになるのだろう。


 リディアーヌはエレオノールをここに閉じ込めた後、侍女に「ヤンを呼んで」と命令をしていた。その後、時折リディアーヌが侍女に何かを命令する声や侍女たちが歩く音――そういったものが聞こえたのだが、今は何も聞こえなくなってしまっている。物音がなくなる前に少しだけ外が騒がしくなった気もするが、よく覚えていない。


 エレオノールは手探りで扉を探す。なんとか探り当てた扉に耳をあてる。しかし、向こうからは何も聞こえない。


(どこへ行ったのでしょうか)


 リディアーヌは謹慎を命じられている。外出することは許されていない。食事をするために食堂へ行ったか、邸内を散歩に行ったか――何にせよすぐに戻ってくる可能性が高い。


(…………逃げないと)


 リディアーヌはエレオノールをひどい目に合わせると、満足したように笑った。「続きはまた後でね」と言って、彼女はクローゼットの扉を閉めた。


 まだ、怪我を負わされたわけではない。しかし、このままここにいたらどんな目に遭うか分からない。リディアーヌが侍女に呼ばせたヤンという人物が誰かは分からない。しかし、いい想像は出来ない。どうにかこの場から脱出しないと危険だ。


 もちろん、クローゼットから出れただけで身の安全を図れるかは分からない。継母はエレオノールを助けてはくれないだろうし、時間帯によっては父はまだ仕事で屋敷に戻ってきていないはずだ。


(でも、ここにいるわけにもいきませんわ)


 物置を出るには今目の前の扉をどうにか開けないといけない。クローゼットの内側にドアノブはない。そのため、エレオノールは扉を押す。しかし、向こうに何かが置かれているようで動かない。


 長い時間、エレオノールは奮闘したが、まったく効果はなかった。エレオノールは息を整え、額の汗をぬぐう。


(一体、どうすれば)


 クローゼットが明るければ置いてある荷物の中から扉をこじ開けるのに役立つものも探せるが、こうも暗いとそれも難しい。


 そのときだ。


 扉の向こうで物音がした。――誰かが部屋に入ってきたのだ。


(リディが戻ってきたんですわ)


 エレオノールはとっさに身動きをとめる。足音がまっすぐ、クローゼットに近づいて来る。全身が緊張で強張る。


「ご無事ですか、エレオノール様」


 しかし、扉の向こうから聞こえたのはリディアーヌの声ではなかった。聞き覚えのない女性の声だ。エレオノールは瞬きをする。


「助けに来ました。聞こえていらっしゃいますか?」


「……どなたでしょうか」


 エレオノールの返答に、扉の向こうの誰かは安堵の息をもらした。


「ルシールと申します。アルベール様のご指示で助けに来ました」


「アルベール様の?」


 想定外の人物の名前に、エレオノールは困惑する。


 ルシールは「少しお待ちください」と言ったあとに、扉の前にある何かを移動させる音が響く。扉が開き、眩しさにエレオノールは目を閉じた。


「お待たせしてしま」


 突然、ルシールが言葉を切る。明るさに慣れてきたエレオノールはゆっくり目を開ける。


 目の前に立っていたのは赤髪のメイド服を着た女性だった。彼女の顔には見覚えがある。昔から掃除をしたり、マルセルと遊ぶ姿を見た記憶がある。こちらを見るルシールは驚いたように目を見開いていた。


「エレオノール様。その髪は」


 そう言われて、エレオノールは自身の髪に触れる。元々腰まで伸びていたエレオノールの髪は今、肩ほどの長さで乱雑に切断されている。ハサミを持ったリディアーヌに髪を切られたのだ。


 エレオノールは苦笑を浮かべる。


「大したことありません。怪我はありませんわ」


 状況を考えれば、怒ったリディアーヌに怪我をさせられていてもおかしくなかった。これだけですんだのは運がよかっただろう。


 ルシールは何か言いたげだったが、エレオノールの髪についてはそれ以上言及はしなかった。エレオノールがクローゼットから出るのを手伝ってくれる。


「急いでください。今、リディアーヌ様は外出されてるんです。ただ、入れ違いでロッシュ準男爵が到着してしまって。急がないとこの部屋に来てしまいます」


「外出って、リディはお父様に外出を禁じられているでしょう? それにロッシュ準男爵というのは」


「アルベール様が嘘の呼び出しの手紙を書いたんです。リディアーヌ様が大喜びでお出かけになりましたよ」


「まあ」


 父が知れば、激怒しそうだ。


 ルシールはちらりと心配そうに廊下を振り返る。


「ロッシュ準男爵はリディアーヌ様の言うことを何でも聞いてくれる、リディアーヌ様にとってとっても都合の良い人ですよ。このままでは何をされるか――なので、とにかく私を信じてついてきてください」


 エレオノールはいまだ状況がすべて飲み込めているわけではない。しかし、ここにいては危険なのは間違いないらしい。ルシールの言葉の審議を確かめる暇もない。覚悟を決める。


「分かりましたわ」


 ルシールはリディアーヌの部屋の扉を少し開け、廊下に人影がないことを確認する。彼女と一緒にエレオノールは廊下に出る。扉を閉める前に、ルシールはドアノブに何か細工をしていた。アナベルは不思議に思い、ルシールを見つめる。


「ドアノブを壊しました。これでエレオノール様の不在をしばらく誤魔化せます。さあ、急ぎましょう」


 ルシールに背中を押され、エレオノールはすぐ近くの小部屋に入る。使用人用の控えの部屋だ。


 そこでエレオノールはルシールに手伝ってもらいながら着替えをする。ルシールが用意してくれていたのはメイド服だ。短くなった髪を後ろで結ぶ。脱いだドレスはルシールが無理やりごみ箱に隠していた。


 ちょうどそのとき、廊下の方で人の声が聞こえた。廊下を覗き見たルシールが「来ちゃった」と険しい表情を浮かべた。


「どうなさいましたの?」


「ロッシュ準男爵が来ました。――クソッ。出来ればさっさと屋敷を出たかったのに」


 ルシールは舌打ちをする。柄の悪さに少しだけ面食らう。


 廊下では扉が開かないことで少し騒ぎになっているようだ。エレオノールは不安を隠しきれず、扉とルシールの顔を交互に見比べる。


「しかたないですね。このまま部屋を出ましょう」


「それでは準男爵たちに見つかってしまうのではありませんか?」


 リディアーヌの部屋からは少し離れているが、廊下は直線だ。小部屋を出る際に向こうに気づかれないのは難しい。


「大丈夫です。何のためのメイド服だと思っているんですか。遠目なら誤魔化せます。まさか、向こうもエレオノール様が部屋から脱出してるなんて思わないでしょう。自力じゃまず抜け出せませんからね。手助けをした人間がいるとは思わないでしょう」


 一抹の不安は残る。しかし、このまま小部屋に居続けるほうが危険性は増す。エレオノールはルシールの提案を了承することにした。


 ルシールは小部屋に置いてある雑巾のかかったバケツをエレオノールに持たせ、自身はハタキを手にする。さも掃除中という風を装って、二人は小部屋を出た。


 リディアーヌの部屋の前には数人の侍女と一人の男が立っている。侍女は先ほどもリディアーヌの部屋にいた者たちだ。男の顔には見覚えがない。


 歳は十代半ばだろうか。男、というよりは少年といえる年齢だ。侍女たちと比べてもそれほど背丈に差はない。小柄で細身な人物だった。彼がロッシュ準男爵なのだろう。


 男爵家でも有名な家名はある程度エレオノールの頭にも入っている。しかし、ロッシュ準男爵というのは本当に聞き覚えがない。


 侍女たちは何かを話しているのが見える。彼女たちは目の前のトラブルと話に気をとられていて、小部屋の扉が開いたことには気づかない。しかし、ロッシュ準男爵はこちらに気づいた。一瞬、目が合う――合った気がした。慌ててエレオノールは目を逸らした。何事もなかったかのように、準男爵たちに背を向け、ルシールの後をついていく。


 建物を出るまでの間、エレオノールたちは誰にも呼び止められることはなかった。



 ✧



 建物を出てた二人は裏門へ向かった。ルシールが錠前の鍵を開ける。


「少し離れた場所で馬車を停めています。もう少しですよ」


 エレオノールは一歩、屋敷の外に足を踏み出す。


 目の前に広がるのは見覚えのない道だ。普段、エレオノールが使うのは反対にある正面の門だ。裏門の前を道を通ることはない。


 ルシールに案内され、エレオノールは馬車が待っているという場所に向かう。しかし、途中で足を止めてしまった。


 エレオノールは後ろを振り返る。


 住み慣れた我が家が見える。赤茶の壁の、黒い屋根の大きな屋敷だ。


 エレオノールにとってはどれだけ居場所がなくても、居心地が悪くても、ここは間違いなくエレオノールの家だった。帰るべき場所だった。


(私はまたここに戻ってこれるのでしょうか)


 その答えは分からない。


「エレオノール様、早く」


 ルシールに催促され、エレオノールは迷いを振りきるように屋敷に背を向けた。


 少し歩くと、遠くから別の男が合流してきた。エレオノールはその男のことを知っていた。ラルカンジュ公爵邸で働く御者だ。アルベールと一緒にラルカンジュ公爵家の馬車で出かけるときは、いつも彼が馬車を走らせてくれる。


「――ガエル」


「ご無事で何よりです。お坊ちゃまがお待ちです」


 遠くに馬車が停まっているのが見える。


 ルシールに先導され、エレオノールは馬車に近づいていく。ガエルは警戒するように後ろを見ている。ルシールは断りもいれずに、馬車の扉を開けた。

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