三章:伯爵令嬢は侯爵令嬢の望みを叶える⑦
アルベールに手を引かれたまま、エレオノールは後ろを振り返る。
「あの、これはどういうことなのでしょうか」
「シャルロット嬢が言っていただろう。彼女はレティシアになったんだよ。君の望み通りね。彼女がレティシアに似ていると言ったのはエリーだろう」
「確かに言いましたけれど……」
廊下からも会話は聞こえていたらしい。
アルベールはエレオノールを連れて、夜会の会場であるホールに足を踏み入れた。そこには既に何十人もの参加者の姿がある。アルベールとは周囲に挨拶をしながら奥に進んでいく。エレオノールもそれに合わせるように笑みを振りまく。
今夜の夜会の主催は国王だ。そのため、ホールの奥の少し高い舞台には国王を始めとした王族の姿が見える。――その中にはジスランとリディアーヌの姿もある。二人の姿を見ないようにエレオノールは舞台から視線を逸らそうとした。しかし、違和感に気づき、視線を戻す。
舞台には国王、王妃、そして皇太子と皇太子妃のための椅子が並べられている。もう一つ空席があるが、おそらく第二王子のためのものだろう。第二王子の姿はまだない。
エレオノールが気になったのはジスランの衣装だ。普段彼は黒などの暗い色を好む。なのに、今日彼が着ているのは真っ白な燕尾服だ。ジスランが白い服を着ている姿をエレオノールははじめて見た。
ジスランは不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。隣に座るリディアーヌが話しかけているが、返事をする様子はない。
「エリー、こっちだ」
足を止めたエレオノールにアルベールが声をかける。彼にエスコートされたまま、エレオノールはホールの隅の方に移動した。
「これから、何が始まるんですか」
いい加減、エレオノールにもこれから何かが起ころうとしていることは分かる。舞台に視線を向けていたアルベールが一瞬、エレオノールを見た。
「見てれば分かるよ」
「説明してはくださらないですね」
「エリーの望みは何でも叶えてあげたいけどね。今、私が説明するのはシャルロット嬢の意に反するからね」
またしばらくアルベールは口を閉ざした。周りは楽しそうに談笑しているのに、二人だけが黙ったまま。そして、その沈黙を破ったのはアルベールだった。
彼は視線を床に落とすと、ポツリと呟く。
「彼女はすごいね。私にはこんな真似は出来ない」
「……どういう真似ですか」
「君を試すような――いや、信じるような行動さ。私は今まで本当の意味で君を信じていなかったのかもしれない」
信じていないという言葉に驚くより前に、エレオノールは自分自身のことを考えた。
アルベールのことを信じていなかったのはエレオノールも一緒だ。エレオノールはずっと、彼の言葉を嘘だと思っていた。
「すまなかったね」
どこか気まずそうながらも、アルベールは謝罪を口にした。エレオノールは少し考えてから訊ねた。
「……何故、アルベール様が謝られるのでしょうか」
「君を傷つけた」
それはシャルロットと楽しそうに踊っていたのを見せられたことか。しかし、アルベールはこちらの心を読んだかのように言葉を続けた。
「この間のことじゃないよ。それ以外のことさ」
「……それは何のことでしょうか」
本当にエレオノールには心当たりがなかった。アルベールはいつだってエレオノールに優しかった。傷つけるような真似はされていない。
――いや、違う。
そこまで考えて思い至る。アルベールに嘘をつかれて、エレオノールは傷ついた。彼が言っているのはそのことなのだろうか。これはつまり、嘘をついていたという告白なのか。
「うん。そうだね。全部のことかな。私がしたこと、しなかったこと全部」
しかし、返って来たのは全く違う答えだった。
エレオノールは首を傾げる。アルベールの視線がこちらを向く。
「シャルロット嬢にね、怒られたよ。『アルベール様はもう少しエリー様のお気持ちを考えるべきです』って。私はエリーの気持ちを考えて、エリーが望む婚約者らしい振る舞いを努めてきたつもりだ。でも、そうしたのは、そうすればエリーの心が手に入ると思ってたからだ。君と婚約を結ぶ前もそうさ。皇太子殿下の冷たい態度に悩む君に優しくすれば、私に心変わりしてくれるんじゃないかって期待してた。……私の想像以上にエリーは一途で、全く見向きもされなかったけどね」
ただ、黙ってエレオノールはアルベールの話に耳を傾ける。
「本当に君のことを想うなら、そもそも私は社交界における君の孤立を改善すべきだった。皇太子殿下に冷遇されている。コルネイユ侯爵夫人の反感を買いたくない。恋敵であったリディアーヌの姉である君と関わりたくない。――いろいろな理由で君と親交を結ぼうという人間は少ない。でも、彼らの中には君がどういう人か知れば、友人や知人になってくれるような人もいる。私はそのことを知っているし、そういう人と君を結びつけることも出来た。でも、私はしなかったんだ。君の心の拠り所が少なければ少ないほど、私に寄せる信頼は厚くなる。君が寂しい思いを抱えていることを、私は逆にチャンスだと思ってたんだよ」
ここまで、アルベールが思っていることを語ったのははじめてのことに思える。今、彼が口にするのはいつものような表面的な愛の言葉ではない。だが、不思議なほど、その言葉はエレオノールは聞き入れることが出来た。
アルベールは大きく息を吐いた。
「私は、もっと君の気持ちを考えるべきだった」
「……私も」
エレオノールは口を開く。
「私ももっと、アルベール様のお気持ちを考えるべきでしたわ。ひどいことを言って、申し訳ございませんでした」
いくら何でも嘘つき呼ばわりをするのはひどい。アルベールを傷つけたのはエレオノールも同じだ。
アルベールは苦笑する。
「いや、いいんだよ。自業自得の部分はあるし、君が言っていることはある意味正しいからね。私はエリーには嘘をついたことはないけど、――他の人間にはたくさん嘘をついてきたから」
――それはどういうことだろう。
そのことを訊ねる前に、「約束するよ」とアルベールが言葉を続けた。
「私は君に嘘はつかない。嘘をつかれたと思ったら、その場で私を殺してもいい。命を懸けるよ」
物騒な物言いではある。困惑したエレオノールは言葉を詰まらせてしまう。アルベールは苦笑いを浮かべる。
「私もね、少しはシャルロット嬢を見習おうと思うんだ」
「……見習うというのは、どのようにでしょうか」
「彼女のように、私もエリーを信じてみようと思う。『エリー様は大丈夫』と言ったシャルロット嬢のこともね」
そう言うとアルベールは自身を掴むエレオノールの手に、もう一方の手を重ねた。エレオノールももう一方の手をその上に重ねる。お互いに手をぎゅっと握り締める。
そのときだ。
国王が椅子から立ち上がり、手を挙げた。それぞれ談笑していた夜会の参加者は話すのをやめ、舞台に立つ国王に視線を集める。周囲が静かになると、国王は口を開いた。
「今宵は夜会へ参加、感謝する。本当に今夜はおめでたい晩だ。長きに渡る交渉の末、隣国ハインデイルと同盟を結ぶことが出来た」
国王の声が朗々と響き渡る。周囲と同じようにエレオノールも国王の言葉に耳を傾けていた。しばらく、国王は同盟を結ぶまでの努力と、同盟の意義について語った。そして、話にひと段落突いたところで、「皆にもう一つ報告がある」と話を移した。
「ジスラン」
名を呼ばれた皇太子が立ち上がる。隣に座るリディアーヌが不思議そうな表情を浮かべている。
「本来であれば、もっと別の形で皆に報告すべきところだが、このような形で皆に伝えることになったことは詫びよう。ただ、ハインデイルとの同盟同様、めでたい話だ。皆には祝福してもらいたい」
ジスランが前に出る。
「此度、皇太子がもう一人妃を迎えることになった」
国王の言葉と同時に管弦楽団が厳かな曲を奏で始める。閉じられていたホールの扉が開く。――そこから現れたのは一人の令嬢だった。周囲は突然のことに驚き、一体彼女は誰かと囁き合う。しかし、エレオノールは彼女が誰か知っている。
薄い栗色の髪。翠の瞳。これ以上ないほど着飾った彼女はシャンデリアの明りの下、誰よりも輝いて見えた。蒼いドレスを着たシャルロットは舞台に続く赤い絨毯を歩いていく。
二ヶ月前までは頭に本を載せて歩くことが出来なかった彼女が、今は背筋を伸ばし歩いている。その姿は誰の目から見ても美しい。二ヶ月という短期間で仕立て上げたとは思えない出来だ。誰もが、彼女をどこの淑女だろうと思ったことだろう。
シャルロットは真っすぐに大広間を進む。舞台の上からジスランが手を伸ばす。シャルロットは笑みを浮かべ、その手を取った。エレオノールは目を見開く。
それは間違いなく、あのシーンそのものだった。
青いドレスを着た令嬢と白い燕尾服を着た王子。彼女が歩く階段には赤い絨毯が敷かれている。
何回も、何十回も、何百回も読んだ『レティシアの物語』のクライマックスシーン、そのものだった。
シャルロットが階段を昇りきり、ジスランの腕を掴むまでの間エレオノールは一度も瞬きをしなかった。ずっと、ずっとシャルロットに見とれていた。その姿を目に焼き付けていた。
シャルロットの髪色は金ではないし、瞳の色もドレスと同じ青ではない。ジスランの髪色だって黒色だ。でも、間違いなく今の光景はかつてエレオノールが憧れたものだった。
今のシャルロットはエレオノールが憧れたレティシアそのもので、彼女は宣言どおり、レティシアになってくれたのだ。
――きっと、エレオノールはこの光景を一生忘れないだろう。
管弦楽団の音楽が止む。周囲に溢れんばかりの拍手が響く。周りが手を叩いているのに気づき、慌ててエレオノールも拍手する。
どうしてシャルロットが皇太子に嫁ぐことになったのかは分からない。それでもエレオノールは皇太子と二人目の妃の婚姻に、大好きな友達の婚姻に、エレオノールは祝福の気持ちが少しでも伝わるように懸命に拍手を贈った。エレオノールが嬉し涙を浮かべながら拍手ふるのを、隣のアルベールも同じように手を叩きながら見つめた。
その時、椅子に座っていたリディアーヌが立ち上がった。勢いよく、ジスランに詰め寄る。彼女が何かを叫ぶ。しかし、その声は拍手に掻き消されて聞こえない。
眉を吊り上げる皇太子妃の姿に参加者たちも異変を知り、拍手がどんどん消えていく。そのため、リディアーヌの声はホール中に響き渡ってしまった。
「もう一人妃を迎え入れるっていうのはどういうことなの!」
周囲がしんと静まり返る。
国王は険しい表情を浮かべ、王妃は顔を背ける。皇太子は無表情のまま、皇太子妃を見つめた。
「どういうこともなにもない。皇太子は側室を娶ることが認められている。だから、僕は彼女を側室に迎えることにした。それだけだ」
「何で私に黙って、勝手に――」
「勝手?」
エレオノールは長く、ジスランに冷遇されていた。しかし、ジスランがここまで冷たい声を出すのをエレオノールは初めて聞いた。
――皇太子は愛しているはずの皇太子妃に軽蔑するような眼差しを向けている。
「僕が誰を妃に迎えようと僕の自由だ。お前に口を挟む権利はない」
リディアーヌはそれ以上言い返せず、口を
周囲がおかしな空気になる。それを収めようと国王が口を開く。
「――随分と見苦しい真似を」
そんな声が聞こえたのはエレオノールのすぐ隣からだった。弾かれたようにエレオノールはアルベールに視線を向ける。エレオノールの婚約者は舞台のリディアーヌを見ていた。その口元に浮かぶのは、嘲笑だ。
――背筋がぞくりと凍る。今エレオノールの隣に立っているのは誰なのだろう。
エレオノールの視線に気づくと、アルベールは何事もなかったかのように微笑んで見せた。いつも通りの優しい笑みだ。
「良かったね、エリー」
それは何に対しての言葉だろうか。シャルロットが見せてくれた美しい光景のことか。シャルロットとジスランの結婚のことか。――それとも。
エレオノールは怖くてそれ以上考えるのをやめた。「そうですわね」とぎこちなく笑みを浮かべる。
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シャルロットが側室として王宮に入ったのは翌日のこと。それから一ヶ月後、――リディアーヌは姦通の疑いで、皇太子妃の座を辞することになった。
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