二章:伯爵令嬢は侯爵令嬢の真意を知る⑦


 その後の記憶は曖昧だ。


 気づけばエレオノールは馬車に揺られ、侯爵邸に帰ってきていた。


 屋敷は妙に慌ただしい。

 後に知ったことだが、リディアーヌは婚姻のため、数日後には王宮に引っ越すことが決まっていた。その準備に皆明け暮れていたのだ。


 自室に戻ろうとしたエレオノールは途中で、リディアーヌと遭遇してしまった。彼女は驚いたように「お姉様」呟く。

 その表情はどこか気まずそうなものだった。


 ――そんな顔をするなら最初からこんな真似をしなければよかったのに。


 エレオノールは唇を噛みしめる。


「……聞いたのね」


 リディアーヌはエレオノールが王宮に呼ばれていた点、そして憔悴しきった表情からそのことを察したらしい。


 エレオノールはこれ以上異母妹の顔を見るのが嫌で、階段を登ろうとする。


「お姉様からあの人を奪うつもりはなかったの。こんなつもりはなかったの」


 なのに、リディアーヌはエレオノールを追いかけてきた。妹はそう訴えながら、階段を登ってくる。階段の中ほどでエレオノールは足を止める。


「では、なぜ、こんなことをしたんですか」


 あんなに大好きだった異母妹が、今は憎くて憎くてたまらない。


 今、エレオノールはどんな表情をしているのだろう。鏡がないから分からない。でも、きっと悪魔のような顔をしている。


 リディアーヌは一瞬驚いたような表情を浮かべる。

 しかし、沈痛な面持ちで口を開いた。


「――だって、私の方が愛されているんだもの」


 そのときの感情は今でも言葉には言い表せない。

 激昂する、というのはああいうことを言うのだろう。


 気づけば、エレオノールはリディアーヌを突き飛ばしていた。リディアーヌは悲鳴をあげて、床に倒れこむ。

 異常に気付いた使用人達が駆け寄って来た。


「何をしているの、エレオノール!」


 真っ先に声をあげたのは使用人達と一緒に近くにいた継母だ。彼女は娘に駆け寄り、階段の中段で立ち尽くしている義理の娘を睨みつけた。


 運よく、リディアーヌは大きな怪我がないように見える。


 エレオノールとリディアーヌがいたのは階段の中段だ。そこまで高くない。しかし、二人が階段の一番上に立っていて、打ち所が悪ければ、リディアーヌは死んでいたかもしれない。


「――お、お継母様かあさま、私は」


「全く、本当にあの女によく似てしまったわね。嫉妬から暴力を振るうなんて最低だわ」


 その時にはエレオノールも我に返っていた。

 とんでもないことをしてしまった。怒りのあまり、異母妹を階段から突き落とすなんて許されることじゃない。


 エレオノールの顔は真っ青に染まっていた。


「よくお聞きなさい。リディは悪くないわ。全ては貴方や貴方の母親に、殿方の心を射止める魅力がないのがいけないのよ」


 ――殿方の心を留めておく魅力。


 確かに、エレオノールは皇太子妃に相応しくなるように努力をした。ジスランと仲良くなれるよう努力をした。――しかし、そもそも、エレオノールにはジスランに好かれる魅力があっただろうか。


 エレオノールは社交界にあまり出ないのが原因とはいえ、知人は少ない。友人といえる人もいない。次期皇太子妃として慈善活動に精は出したが、貴族社会で周囲との関係はうまく築けていない。


 だが、リディアーヌは社交界でも人気だ。

 可愛らしくて明るくて優しいリディアーヌ。彼女はとても魅力的な令嬢だった。誰もが彼女に惹かれ、ジスランの心さえも射止めた。


 だが、エレオノールはどうだ。エレオノールは婚約者であるジスランに好いてもらうことが出来なかった。


 ――死んだ母もそうだったのだろうか。


 エレオノールは母の顔を覚えていない。

 しかし、死んだ乳母は「エリー様は幼い頃の奥さまにそっくりだわ。きっと、奥さまそっくりの美人になられるでしょうね」と言っていた。


 継母とリディアーヌも顔立ちがよく似ている。継母の年齢は三十代後半だが、二十代と言ってもいいほど若々しい。


「リディ。部屋に行きましょう。お医者様を呼ぶわ」


 セヴリーヌは娘を起こし、その肩を支える。

 二階にあるリディアーヌの自室に向かうため、階段を登って来る。エレオノールがまたおかしなことをしないようにと、使用人がエレオノールを囲った。


 すれ違う際、一瞬リディアーヌと視線が合う。


 エレオノールは彼女に謝ろうとした。許されなくても、ひどいことをしてしまったことは謝罪しないといけない。


 しかし、その前にリディアーヌがポツリと呟いた。


「お姉様、怖い」

 

 彼女は怯えている様子だった。


「まるで、あのお話の悪役の令嬢みたいだわ」


 リディアーヌの言葉に、エレオノールの頭は真っ白になった。


 幼い頃、エレオノールはレティシアに憧れた。レティシアと王子の結婚に納得せず、レティシアを殺そうとしたアデールを怖ろしいと思った。


 ――そんな女より私の方が殿下に相応しいわ!


 兵士に捕らえられたアデールはそう叫んだ。その様子はとても醜い、と描写されていた。


 リディアーヌの言う通りだ。今のエレオノールはアデールとそっくりだ。


 王子ジスランを奪われ、その嫉妬からレティシア(リディアーヌ)を殺しかけた。エレオノールの行動は衝動的なものだったが――やっていることはアデールと全く一緒だ。


 リディアーヌが王宮へ移るまでの数日間。エレオノールは部屋での謹慎を命じられた。外に出るときは常に使用人が見張りについた。もう二度と、リディアーヌに危害を加えないようにだ。



 出発の日、リディアーヌは最後の別れにとエレオノールの部屋を訪ねた。当然、何人もの使用人が同席している。


 ろくに食事も喉を通らなくなったエレオノールと違い、リディアーヌはいつもどおり――着飾っているため、それ以上に美しかった。


 しかし、彼女の表情はどこか暗い。


「お姉様に最後にお話がしたくて。あのまま、別れるのは嫌だったの」


「…………リディ、本当にごめんなさい。貴方を怪我させたかったわけじゃなかったんです」


「いいの。分かってるわ、お姉様。私が悪いのよ」


 優しい異母妹はエレオノールを許してくれた。

 ――だから、エレオノールも彼女を許さないといけない。そう思った。


「……皇太子妃という役割はとても責任の重いものです」


 その片鱗をこの五年、エレオノールはずっと感じていた。リディアーヌはどこか怪訝そうな表情を浮かべる。


「でも、きっと、リディなら大丈夫ですわね。皇太子殿下と一緒に、この国の未来を築いていってくださいませ」


 愛し合う二人ならきっとどんな困難にも立ち向かっていけるだろう。


 エレオノールとジスランの間にはそれが欠けていた。――あったのは、エレオノールの一方的な想いだけだ。


 リディアーヌは何も答えなかった。目を見開いたまま、黙っている。


「リディ?」


「……お姉様は、もう怒っていないの?」


「ええ、もちろんですわ」


 それは嘘だ。

 今もエレオノールの胸の中は嫉妬や憎しみ、苛立ちでいっぱいだ。


 それでも、エレオノールは二人を祝福することを決めた。それは二人への愛情からではない。自身の矜持ゆえだ。


 今のエレオノールはアデールと同じ立場だ。でも、エレオノールは悪役かのじょにはなりたくなかった。

 ――嫉妬心で暴走し、最終的に不幸な結末を迎える。そんな悪役になりたくなかったのだ。


 エレオノールは精一杯の笑みを浮かべる。


「皇太子殿下にも『お幸せに』と伝えてください。リディも幸せになってくださいませね」


 リディアーヌはしばらく沈黙していた。しかし、笑みを浮かべる。


「ありがとう、お姉様。きっと、幸せになるわ」


 そう言って、リディアーヌは「もう出発の時間だわ」と言って、部屋を出て行こうとした。


「そうだ。王宮に持っていけないものが私の部屋に残っているの」


 去り際、思い出したようにリディアーヌは言った。


「お姉様が欲しいものがあったら自由に持っていってちょうだい」


「……分かりましたわ」


 こうして、リディアーヌはコルネイユ侯爵邸を去っていった。

 ――エレオノールがなれなかった、皇太子妃として。



 ✧



 エレオノールは記憶の海から、現実へと意識を戻す。


「皇太子殿下は私のような女ではなく、リディを選びましたわ。レティシアにそっくりなリディを、です。アデールのような――私のような女が殿方に好かれるわけがないんです」


「たしかにリディアーヌ様は人気があったと聞きます。でも、男の人全員がリディアーヌ様を好きになるわけではないじゃないですか」


 シャルロットの主張には一理ある。

 だから、その点についてはエレオノールも否定はしなかった。


「皇太子殿下の好みがリディアーヌ様だったとしても、アルベール様の好みとは別のお話じゃないですか。お二人は別人です。アルベール様が愛してるのはエリー様なんですよ」


 ――本当にシャルロットは何も知らない。


 社交界に疎いエレオノールでさえ知っている事実を、ずっと領地で暮らしていた彼女は知らないのだ。


「違います」


 だから、ハッキリとエレオノールは否定をした。


「シャーリィ様。リディはたくさんの男性から好意を持たれていました。その中には、――アルベール様も含まれるんですのよ」


 その言葉にシャルロットは絶句した。顔色が青白くなっていく。


(確かに、女の子同士じゃないと出来ない話もありますわね)


 内心、エレオノールは自嘲する。

 こんな話、アルベールの前では出来ない。


「いえ、リディの結婚相手の最有力候補と思われていたのがアルベール様です。アルベール様もリディを愛していたんですのよ」


「だって、でも、あんなにエリー様のことを愛してるって」


 明らかにシャルロットはうろたえていた。

 

 ――彼女の真実を告げるのはもしかしたら酷なことかもしれない。


 しかし、エレオノールは伝えることにした。

 ずっと、胸に隠していた本当の考えを。


「だから、あれはアルベール様の嘘ですのよ。アルベール様は私のことを愛してなんていませんわ」

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