二章:伯爵令嬢は侯爵令嬢の真意を知る⑤


 『レティシアの物語』は主人公レティシアが王子と結ばれるまでの物語だ。


 貴族の令嬢であるレティシアはある日出会った王子に一目惚れをする。レティシアは王子に再会しようと奮闘する。


 しかし、王子を好いているのはレティシアだけではない。アデールという令嬢も王子のことを好きだったのだ。


 アデールはレティシアに意地悪な真似をする。

 彼女が刺繍したハンカチを隠したり、時には池に突き落としたりもする。

 しかし、レティシアは負けない。周囲の力を借りながら困難を乗り越えていくのだ。


 そして、クライマックスの舞踏会。王子の結婚相手の候補としてレティシアとアデールの名があがる。国王はどちらを妻にするのかと王子に問う。


 王子が選んだのはレティシアであった。

 王子もまた、レティシアに一目惚れをしていたのだ。


 自身の瞳と同じ青いドレスをまとったレティシアが赤い絨毯を敷いた階段を登り、王子のもとへ向かう。


 見開きいっぱいに描かれるのは綺麗なドレスを身にまとったロースが階段を登り、王子に手を伸ばすシーン。王子もレティシアに手を伸ばし、笑みを浮かべている。


 エレオノールはそのシーンが本当に大好きだった。


 レティシアは自身の瞳と同じ、空のような淡い青いドレスを身に纏う。階段には赤い絨毯がしかれ、王子は真っ白な服を着ている。とても幻想的なシーンだ。


 エレオノールは幼い頃、飽きるほどこの頁を眺めていた。


 こうしてレティシアは王子と結ばれた。多くの人に祝福され、二人は結婚した。

 二人は末長く幸せに暮らしました、という文章で物語は締めくくられている。



「とっても素敵なお話ですね」


 エレオノールとシャルロットは寝台に並んで腰をかけている。本を読み終えたシャルロットはこちらに微笑んでくれた。


「……私、レティシアにずっと憧れてたんです」


 物心つく前に母を失ったエレオノールにとって、母が残してくれたたくさんの物語が母の読み聞かせの代わりだった。子守唄の代わりだった。


 その中で特にエレオノールはこの物語を気に入った。

 幼い頃は乳母に読んでもらい、彼女が亡くなってからは自分で何度も何度も読み返した。もう、本を開かなくても内容を全て諳んじることが出来る。


 この物語はエレオノールの宝物だった。


「いつか、私もレティシアみたいに素敵な王子様と結ばれたいって本気で思ってたんです。……馬鹿みたいでしょう? こんなの、空想上のお話なのに」


「そんなことないですよ。どんな夢を抱くかはその人の自由です。私はとっても素敵な夢だと思います」


 シャルロットは本を閉じる。そして、彼女は笑った。


「宝物を見せてくださってありがとうございます」


『とっても素敵なお話ね、お姉様。大切な本を見せてくれてありがとう』


 同じように『レティシアの物語』を見せたとき、あの子・・・はそう言った。そして、シャルロットと同じような明るい笑顔を浮かべたまま、ぎゅっと本を抱きしめて、こう言ったのだ。


『ねえ、お姉様。私もこの本好きになっちゃった。だから、このご本、私にちょうだい?』


 エレオノールにとって、この本はどんなものよりもかけがえのない大切なものだ。他の本ならいくらでもあげてもいい。でも、この本を誰かに譲るというのはひどく抵抗心が湧いた。


 シャルロットの笑顔があの子と重なる。

 だが、重なったと思ったのは一瞬だけだった。すぐに、シャルロットが本を差し出してきたからだ。


「エリー様の大事なものを見せてもらえてとっても嬉しいです。お返ししますね」


 エレオノールは反応が出来なかった。

 本を受け取ろうとしないエレオノールにシャルロットは怪訝そうな表情をを浮かべる。


「エリー様?」

「…………シャーリィ様はこの本を欲しいと思わないんですか」

「え?」


 シャルロットは呆気に取られたように口を開く。それから困ったように笑った。


「そんな、子供じゃないんですから。とても素敵な物語だと思いますけど、エリー様の宝物なんでしょう?」


 ――あのとき、エレオノールも同様のことを主張した。


 『この本は私の宝物だからリディにあげられません』と何度も何度も繰り返し伝えた。しかし、あの子――リディアーヌは本を抱きしめたまま、決して離してくれなかった。


『レティシアは私に似てると思わない? 髪の色も瞳の色も同じだわ。きっとレティシアは私のことよ。だから、この本は私が持っていた方がいいと思うの』


『お姉様は私のこと好きじゃないの? 好きなら、私のためと思って譲ってちょうだい』


 そう言って、リディアーヌは可愛らしく頬を膨らませた。


 ――だから、エレオノールは大切な宝物を手放すことを決めたのだ。


 確かに本は大切なものだった。だけど、彼女の言うようにエレオノールはリディアーヌが好きだった。あの子もエレオノールにとって大切な存在だった。――乳母の死後、エレオノールに優しくしてくれたのは二つ年下の異母妹だけだったから。


 エレオノールの生母が死んですぐ、父は新たな妻を迎え入れた。

 それがリディアーヌと、八歳年下の弟マルセルの母親だ。


 父と母の結婚は家同士の結びつきのための完全な政略結婚だった。しかし、父には元々別に愛する女性がいた。それが後妻となった女性だ。

 婚姻後も、父は愛する女性を愛人として囲った。そして、政治上の都合で娶っただけの妻が死んだことで、父はようやく愛する女性を妻として招き入れることが出来たのだ。

 

 後妻は可愛い娘を産み、跡取りとなる息子を産んだ。


 エレオノールも含めれば、コルネイユ侯爵家は五人家族。

 でも、実際には四人家族だ。エレオノールは家族の一員としては完全に認められていない。

 継母は前妻の子であるエレオノールを疎んだし、父もエレオノールに興味を持っていない。


 唯一、エレオノールに優しくしてくれたのは母が実家から連れてきた乳母だ。

 彼女は本当の母親のようにエレオノールを育ててくれたが、彼女も幼い頃に事故で亡くなってしまった。


 他の使用人は新しい女主人である後妻の反感を買うのを嫌がって、必要以上にエレオノールに関わろうとしない。エレオノールは乳母の死後、空気のように暮らしていた。


 その状況が変わったのはリディアーヌとの出会いだ。


 彼女は独りぼっちのエレオノールに声をかけてくれた。母親に隠れてこっそりエレオノールの部屋に遊びに来てくれた。リディアーヌのおかげでエレオノールは寂しい思いをしなくてすんだのだ。


 あの子がいてくれてどれだけ救われたか。あの子には深い愛情と感謝を抱いていた。


 ――だから、エレオノールは宝物を手放すことを決めたのだ。


 大切にして、と伝えた。リディアーヌは分かったと嬉しそうに微笑んだ。


 優しくて明るくて可愛い自慢の異母妹。きっとあの本もエレオノールの手元にあるよりは、あの子が持っているほうがいい。あの子にこそこの素敵な物語が相応しい。


 エレオノールはそう自分自身に言い聞かせた。――リディアーヌが、その後エレオノールの宝物をどう扱うかなんて想像もしないで。


 記憶の中の異母妹と、目の前に座る伯爵令嬢の姿が重なる。

 リディアーヌと同じ、優しくて明るくて可愛らしい女の子。彼女はどこかリディアーヌを彷彿とさせるのだ。


 顔立ちは全然似ていない。失礼かもしれないが、美しさで言えばリディアーヌの方がシャルロットよりずっと美しい。


 でも、彼女の言動や雰囲気は異母妹に似ているように思えた。


 シャルロットは独りぼっちのエレオノールに声をかけてくれた。彼女のおかげでエレオノールは寂しい思いをしなくてすんだ。


 同時に、彼女はレティシアにも似ていると思った。まるでエレオノールのためにレティシアがシャルロットとして絵本から飛び出してきてくれたのではないかなんて馬鹿げたことを考えたこともある。


「私は素敵と言ったのはエリー様がこの本をとても大事にしているというのも含めてですよ」


 シャルロットがエレオノールの手を取る。


「エリー様の想いも含めて、素敵だと思ったんです」


 そして、その手に本を握らせた。


「この本はエリー様の手元にあるのが一番いいと思います。また、私が読みたいと思ったら本を見せてくださいますか?」


 彼女は笑っている。はじめて会った時と変わらない、屈託のない笑顔だ。

 異母妹によく似ている、でも、異母妹とはまったく違う言葉をくれる人。


 ――もしかしたら、エレオノールはずっとシャルロットのような人を待っていたのかもしれない。


 エレオノールは手渡された本をギュッと抱きしめた。

 シャルロットはぎょっと目を見開く。


「エリー様!? どうされたんですか!」


 エレオノールは静かに涙を零した。

 ポロポロと雫が落ちて、ドレスの布地に染みていく。


 シャルロットは泣くエレオノールの背中を撫でてくれた。エレオノールは「ごめんなさい、ごめんなさい」と半分嗚咽で音にならない謝罪を何度も口にする。


 誰かにずっと、大切な宝物を見せたかった。

 本当に素敵なものだから、その価値を共有したかった。

 そして、「すごいね」「素晴らしいね」って言ってほしかった。

 宝物を欲しがったりしないで、ただ価値を認めてもらいたかっただけだった。


 シャルロットはエレオノールが落ち着くまで、ずっと隣で「大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。

 エレオノールは涙を拭う。


「私、ずっと信じていたんです。努力をしていれば、いつかジスラン様が認めてくださるって。――でも、レティシアが王子様と結ばれたのは彼女が努力をしたからだけじゃありません。王子様もレティシアを愛していたからです」


 物語の王子はレティシアに一目ぼれした。

 優しくて、明るくて、可愛らしい令嬢に恋をしたのだ。


 ――でも、エレオノールはレティシアとは全く違う。


 髪は真っ黒だし、瞳だって金色。大人びた風貌で、鏡に映る自身はきつい印象がある。パステルカラーのドレスはまるで似合わない。いつだってエレオノールは落ち着いた濃い色のドレスばかり着ている。


 王子様と結ばれるのは可愛らしい令嬢だ。

 レティシアのような――リディアーヌのような、可愛い女の子。シャルロットだってそうだ。


 エレオノールは彼女たちとはまるで違う。

 ジスランに愛されることなんて最初から無理だったのだ。


「きっと、こういう運命だったんですのよ。私はレティシアではないのですから」


 エレオノールは微笑むと、なぜかシャルロットは傷ついたような顔をした。彼女は何かを堪えるように唇を噛みしめたあと、エレオノールの手に触れた。

 そして意を決したように言った。


「アルベール様じゃ駄目ですか」


 エレオノールの目から見ても、シャルロットは真摯だった。真剣だった。

 彼女は必死に訴えかけてくる。


「アルベール様は本当に、エリー様のことを大事に想っていらっしゃると思うんです。あの方はエリー様のことを愛していらっしゃいます。お二人なら、レティシアと王子様のように『二人は末長く幸せに暮らしました』っていう結末を迎えられると思うんです」


 だが、エレオノールはシャルロットの言葉を妙に冷めた心地で聞いていた。

 シャルロットの声がまるで薄い壁を隔てた向こうから聞こえるように、遠い。


 ――彼女は本当にアルベールがエレオノールを愛していると信じているのだ。


 エレオノールはクスクスと笑った。


「無理ですわ。だって、私は悪役アデールですもの」


 そう言って、エレオノールは再び本を開く。


 この物語の悪役であるアデール。彼女は黒髪の切れ長の目の令嬢として描かれている。


 物語の終盤。王子に選ばれなかった悪役アデールは激怒する。レティシアを殺そうとするのだ。レティシアを殺せば、王子と結婚できると信じて。

 だが、それは失敗に終わる。


 王子に邪魔をされ、兵士に捕らえられたアデールはその後牢に捕らえられることになる。そして、そこでずっとレティシアを呪う言葉を吐き続けるのだ。


 その後、彼女がどうなったかは物語では描かれない。少なからず、彼女が幸福になることはなかっただろう。


 ――エレオノールは彼女とよく似ている。

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