38.踊る愚者は足を踏み外す
離れに長期滞在したおじ様達は、自領へ攻め込む敵の撃退を見届けて帰国を決めた。今後セレスタイン国と交渉するのは、戦勝国であるムンティア王国だ。
戦争にかかった費用は元より、様々な方面で賠償が発生した。今後はムンティアの支配下に入ることで、安定的に水の供給を受けられるだろう。しかし裏を返せば、逆らった時点で水を止めることも可能だった。生殺与奪の権利を、ムンティアが握る形だ。
アンネリースにそんなつもりはないだろう。人道的な観点から、水の供給を提案したはず。話の裏を匂わせて妥協を引き出すのは、宰相たるウルリヒの仕事だ。セレスタインが残り二カ国と手を組まぬよう、しっかり釘を刺す必要があった。
だが、その前に……ジャスパー帝国を乗っ取ったと勘違いする馬鹿が踊りだした。元プロイス公爵マヌエルは、勝手に新帝国の皇帝を名乗り荒波に漕ぎ出す。ウルリヒにしたら、呆れる以外の反応は思いつかなかった。
ジャスパー帝国は大国で強国だったが、その理由を考えたことはないのか? 先代が広げた領地の大半は属国だ。かつての王族がそのまま残り、服従の姿勢を見せていた。だが君主不在となれば……誰もが勝手に自国の独立を宣言する。
報復の襲撃は、スマラグドスの離脱により撃退が容易になった。現にジェイド国は独立し、自国の防衛を固める。すでに我が国に使者を送り、アンネリースとの会談を準備し始めた。この段階で、大した武力のない公爵が新皇帝を名乗ったらどうなるか。
あの男には想像力が足りない。にやりと笑い、ウルリヒは署名した書類にインクの吸取り紙を押し当てた。じわりと吸い上げたインクを確かめ、署名を終えた紙を書類箱へ重ねる。
「ご報告です。旧帝国でマヌエル・フォン・ホーエンローエと名乗った男が殺されました」
プロイス公爵のままなら、見逃されたかもしれない。だが、ジャスパー帝国復活を宣言する新皇帝を自称すれば、周辺国の格好の獲物だった。親友の副官カミルを手足の如く使いこなすウルリヒは、ご苦労と彼を労った。
「それで、姫とボスの様子はどうですか?」
「今後は女王陛下と呼んでください。相変わらずですよ」
丁寧な口調に、ぞくっと背筋に悪寒が走る。この方が今までの命令口調より怖い。カミルは勘の良さを発揮し、数歩下がった。
「そ、そうですか。では」
「次の仕事があります」
嫌な予感は的中した。がくりと肩を落とし、カミルは逃げ損ねた己を呪う。あそこで余計な質問をせず、さっさと退室すればよかった。言い渡された仕事は想像と違う話で、断る理由もない。
「承知しました。ご報告は一週間後になります」
承諾したウルリヒに一礼し、カミルは浮かれた様子で廊下を跳ねるように移動した。あの地域は、よい温泉があった。休養してもいいと言っていたし、楽しもう。送り出されたカミルは失念していた。己の直感は「危険だ」と信号を送ったのに。
小さくまとめた荷物を括り付け、愛馬に跨った。屋敷が遠くなる頃、ルードルフに挨拶し忘れたと気づく。
「まあいっか」
ウルリヒが伝えてくれるだろう。簡単に考え、彼は草原を駆け抜ける。砂埃が収まった後を追う数人の男達に気づくことなく。
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