32.感傷に浸る暇はないようだ

 周辺国の中で一番豊かな土地は、旧ムンパール王国である。この認識は、どの国も同じだった。ジャスパー帝国の侵略対象から逃れた領地は、穏やかな人々により統治され栄えた。


「真珠を飲んだ竜が腹臥したとして、なぜ自らが真珠を手にできると思うのか」


 歴史を教える教師のような口調で、ウルリヒは地図の上を撫でた。ジャスパー帝国の国境が記されない地図は、複数の国の思惑が交錯する。愚かにも自国の力を過信し、他国を侮る者のなんと多いことか。


 巨大帝国を支えた元皇帝は、手の下にある二つの国に目を細めた。まずは指先で踊る小物を平らげ、次に後ろで牙を剥く愚者を潰せばいい。策を弄するのは側近である自分の役割、叶えるために動くのは親友の仕事だった。


 女王の決断一つで、采配が決まる。その重みを彼女は理解しているのだろうか。主君に選んだ美女を思い浮かべた。その傍らで果物を剥いたルードルフは、牙を抜かれた狼だ。草原を制する実力と運、立場や生まれを有するくせに、欲がなさすぎた。


 初めて彼を見出した時、腐りきった帝国を正して、ルードルフに皇帝を譲ろうと考えた。すぐに修正を余儀なくされる。正しすぎる者は王に向いていない。だが汚れた者は相応しくなかった。


 悩んだ結果、出た答えがアンネリースだ。凛として立つ姿は君主と仰ぐに相応しく、優しく慈悲深い言動に人々は自然と頭を下げる。障害が降り掛かろうと、はねのける強さがあった。


「私は人生を懸けて詫びねばならない」


 女王から家族や国を奪った罪を、望んだ人生を台無しにした愚かさを。けれど、人々は最上の主君を得る。


「感傷に浸るところ悪いが、陛下がお呼びだ」


 飛び込んだ親友ルードルフは、ウルリヒの思いをばっさりと一言で切り捨てた。頭がいい奴は、考えることが多くて大変だ。以前にそう言って笑った姿を思い出す。ウルリヒは自嘲して肩を竦めた。


 悪い癖だ。考えすぎてしまう。これが自分は頂点に立つ者の器ではない、と判断した理由だった。決断は責任を伴う。その度に考え込んで悩み抜いていては、国の運営はできなかった。


 正しい道をさっと選ぶ。難しく簡単なことを、彼女は成し遂げるだろう。


「いま向かいます」


「その話し方、普段から使うのか」


 気味が悪い。ルードルフにしたら、皇帝であるウルリヒしか知らない。臣下として言動を変えたウルリヒに、違和感を禁じ得ないのだろう。


「ええ、女王陛下の忠実なるしもべですから」


 呆れたと顔に書いて、ルードルフは手を差し出した。


「何か持っていくものがあれば寄越せ」


「将軍閣下に持たせるほど重いものは、捨てました」


 にやりと笑って、彼の手をぱちんと叩く。ウルリヒの吹っ切れた様子に、ルードルフは「ならいい」と終わらせた。察しがよく、人の気持ちを汲むくせに不器用な男。どこまでも純粋で理想を追うのに、清濁合わせ呑む強さを見せる女性。


 私の人を見る目は確かだったな。ウルリヒは満足げにルードルフと肩を並べて、足を踏み出した。

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