霊房機

エモリモエ

白い手がおいでおいでをしているよ


どういうわけか目が覚めた。

熱帯夜である。

つけっぱなしのエアコンが微かな音をたてている。

うーん、うーん、うーん。

少し古い型のエアコン。騒音というほどではないけれど、振動音が少しする。

うーん、うーん、うーん。

気にすれば気になるが、気にしなければどうということもない程度の音。

自慢じゃないが、俺はそんなもので目が覚めるほど繊細でない。

が、ハンパな時間に目を覚ました理由もほかに思いあたらない。

外は暗く、まだ眠い。

けれど、横たわった状態で、まぶたを閉じないままでいる。

なんだろう。

何かが気になっているのだが、何が気になっているのか分からない、そういう感じ。

眠いんだけど、寝たくない。

どっちつかずの寝苦しさを持て余して、ごろん、ごろん、とワケもなく寝返りを打ったりしている。

そのうちに、しだいに夜目にも慣れてきた。


おそらく。

それはずっと視界に入っていたのだ。

目には映っていたけれど、少しも気にしていなかったモノ。

エアコンのあたりに何かひらひらしたものが見える。

手のひらくらいの大きさの。

いや、本当に手のひらみたいだ。

それも、若い女の手。


送風口から白い手がはみ出して、おいでおいでとやっている。


なんだろう、あれは。

思ったけれど、明かりを点けて確認する気は起きない。とくに理由はなくて、リモコンに手を伸ばして電気を点けるのが単純にめんどくさいというはなし。

それとも寝ぼけているのだろう。

闇のなか、なんだか珍しい物を見ている気持ちでそれを見ている。


それは最初、ひとつだと見えていたのだが、よくよく見ると、ふたつに分かれているようだ。

こちらに両の手のひらを、ひらひらひらと振っている。


暗いから、何かを見間違えているんだろうな、と寝ぼけながら思う。

本当は別ななにかが、きっと、手のひらみたいに見えているだけで。

あんなところに見間違えるような、何があったかなあ?

それとも、これは夢かもしらん。

思いながら、ひらひらしたのを眺めている。


眺めているうちに、最初は手のひらだけだったそれが、スルスルスルと伸びてきた。

スルスルスル、と。肱のあたりまで。

スルスルスルとさらに伸び、二の腕あたり。

腕いっぱいを動かして、おいでおいでとやっている。


それでもまだ寝ぼけているものだから、何かを見間違えているんだろう。いったい何を見間違えているんだろうなあ、とベットの上からそれを見ている。

狭い部屋のことで、ベットからエアコンまでの距離はない。あってもせいぜい一畳ぶんといったところ。

暗いとはいえ、よく見える。

どう見ても女の腕のようにしか見えない。


そんなことあるわけないのに。


すると。

送風口の暗い奥、ひらひら白い腕の間に、今度は女の顔が見えた。


そこで。

ああ、そうか。これは夢か。と、思いあたった。

夢でもなければありえない。

エアコンに女が入っているなんて。

でも、これは夢だと決めてしまったら、気味は悪いが、怖くない。


うーん、うーん、うーん。

エアコンが微かな音をたてている。

うーん、うーん、うーん。

その音はだんだん女の声にも聞こえてきた。

冷たい空気を送ってくる送風口には二本の腕と女の顔が詰まってる。

幽霊とかオバケとか、そんなヤツ。


こんな変な夢、見たことがない。


そうやって見ているうちにも。

ずいずいずい、と女の顔が出て来る。

ゴッゴッゴッ、と音をたてて肩までが出る。

女はおいでおいでをしている。

こっちを見て、にたあ、と笑った。


醜い笑みだ。


その笑顔を見て、俺にはその女の正体が分かった。

去年、交通事故で怪我をした時に一か月ほど入院をした。その時に担当だった看護師だ。

少しからかっただけなのに、本気になったバカな奴。

こっちはただの退屈しのぎ。

面倒になって病院にクレームを言ったら、いつの間にか担当をはずれていなくなったっけ。

きれいサッパリ忘れてた。

そういえば、あの女はどうなったんだろうな。

退院した後もしばらく付きまとわれた気がするんだけど。

それがいつ終わったのかも覚えていない。

顔立ちは美人だったのに、笑うと途端に不細工になる。残念な女だったよ、うん。


もしかしたら。

これってあの看護師の幽霊なのかな?

あの女が死んだって話は聞かないけどな。

いや、たとえあの女が死んでいたとしても、俺には知りようがない。

だって、そうだろう?

怪我もとっくに治って、今は病院通いをしているわけじゃなし。噂ひとつ聞くツテもないんだから。

俺の知らないところで、失恋の果てに自殺して化けて出た……とか?

まさかな。

そんなロマンティックかつ非合理的な話。

百歩譲って、まったくないとは言わない。

が、そうそうあるとも思えない。

しかも我が身に起こるなど、どう考えたってありえない。


でも。

と、エアコンから生えてるみたいになってる女を見ながら思う。

めちゃくちゃ幽霊っぽいよなあ、あれ。

やっぱ、幽霊なのかなあ。

それにしても。

幽霊が出ると涼しくなるって言うけど、エアコンも霊気で冷たいんだったら電気代がかからなくていいな。

地球に優しい霊房機。省エネ大賞受賞、間違いなし。

なあんてことをノンキに考えているうちに。


女はもう腰まで出ている。

このままいったら落っこちるだろう。

だって、エアコンは壁の上のほうについているんだから、ほら。


どたッ!!


不細工な音をたてて、不細工に落っこちた。


音と一緒に、人間ひとりが落ちただけの振動。

女はそこにうずくまっている。

どうやら痛がっているらしい。

送風口から出てくるなんて超常現象な登場をしたくせに。


それにしても。

こういった幽霊みたいな存在は、ふつう落ちて痛がったりするものか?


思ったら、何故か。

急に怖くなってきた。


それが実体を持って実在することがようやく実感できたと言うか。

遅まきながら怖くなって。

部屋から逃げよう、と思った。

が、いざ逃げるとなったら体がまったく動かない。

世に言う金縛りというやつ。

ベットの上でウンウンうなって起き上がろうとしたが。

やっぱりちっとも動けない。


なんだよ。

金縛りとかって、ホントのホントに幽霊か?

落ちた時、どたッって言ったけどな、あいつ。

幽霊が、どたッ、なんて音たてるのか疑問だけど。

いや、待てよ。

あれが幽霊じゃなかったら、むしろもっと怖くないか?

くそ、なんだか分からないけど、めちゃくちゃ怖いじゃないか!


女は痛そうにうずくまっていたが、ついに、こちらに顔をあげた。


女はニコニコと笑っている。

その顔にはダラダラと血が流れている。

そして。

ずる、ずる、ずる、と女が這ってやってくる。


ぎゃっ、と悲鳴を上げ。

たかったんだが。

なにしろ金縛りというのにかかっている。

情けないことに声も出ない。


女はなんだかグニャグニャしている。上半身ではなくて、腰から下。骨がないのか、なんなのか。動きがおかしい。そのうえ重くてどうにもならないとでもいうように自分の体を引きずりながら、でも、その腕は妙に力強く、着実に這ってやってくる。


顔はニコニコ。

血がダラダラ。

ずる、ずる、ずる、と。

やってくるんだ、その女が。

なのにどうにもならない金縛り。

絶体絶命。

どうしたらいい?


ああ、もお、ごめんなさい。ごめんなさい。

ついに降参。ナムアミダブツ。心の中で合掌をする。

からかったりして、悪かった。

謝るから、どうかゆるして。

迷わず成仏してください。


そんな必死の願いも空しく。


女はずるずるやってくる。

ベットの端に手をかけて。

ぐうッ、と上体をあげてから。

ベットの上に攀じ登り。

俺の体にのしかかる。

ずる、ずる、ずる、と体の上を這いずって。

ずっとニコニコ笑ってる。


ああ、本当に醜い笑顔だ。


動けないから逃げられない。

せめて目ぐらい背けたい。

じゃなかったら瞼を閉じさせて。

二度と見たくなかった顔が、どんどんズルズル迫ってくる。


どうせ祟られるんだったら美女に祟られたかったな。

思った途端に。

女の顔が真顔になった。

真顔になると、けっこう整ったその顔立ちの。


あれ?


この女、あの時の看護師じゃないな。



……見覚えがない。



女は首を絞めてくる。

すっかり俺にのしかかって。

上からぎゅうぎゅう締めてくる。

女からは血が、バタ、バタ、バタ、と落ちてくる。

俺は女と見つめ合う。

ぎゅうぎゅう首を絞められる。

妙に黴臭い血のにおい。

バタ、バタ、バタ、バタ。

落ちてくる。

バタタタタタタタッ……。

意識を失う瞬間まで、俺は考えていた。



この女はいったい誰なんだ?

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