本編

(本編)


 それは、大学四年生の十月のはじめのころでした。わたしをふくめて、ほとんどの学生たちは内定も決まって、卒論を書き始めているってかんじでしたね。もちろん隆一くんも、けっこうな大企業の内定が決まっていました。あれですよ。東京に本社がある✕✕✕✕✕✕ですよ。すごいですよね。山形なんて、あんなの地方も地方だったのに。それに単位にしたって、三年のうちには取れるものを取っていて、あとは卒論の演習だけだと言ってました。その卒論も夏休みまえの発表の時点で、もう九割はできていたぐらいだったので、まあ、卒業をちゃんとして出世もするんだろうな、と同期のわたしたちはもちろん、後輩たちもそう思っていましたね。

 しかし、隆一くんはですね、とても頭もよかったし、おしゃべりも上手だったんですけれど、興味のないものには、まったくと言っていいほど無関心な人だったんですよ。ですから、もう四年も終わろうというのに、自動車免許を持っていなかったんです。

 で、夏休みのあいだに、わたしがきいたところによると、すでに実技のやつは終わらせているけど、まだペーパーテストを終わらせていない、と。で、このまま行かないとまた実技から受け直さなきゃいけない、とまで言ったんですよ。

 そのようすがあまりにもあっけらかんとしていたので、わたしもさすがに、

「それじゃお金がもったいないよ」

 と強めに言いましたよ。

 そしたらですね、隆一くんは、

「そうなんだよなあ、お母さんからもそう言われるんだよなあ」

 と、一転して、しょんぼりとした顔になりました。隆一くんはお母さん子だから、おなじようなことをわたしに言われたのが嫌だったんじゃないですかね。

 それからわたしたちはほんとうに卒論演習でしか会わないようになりました。というのも、わたし自身となりの宮城県にある実家から通っていたこともあって、前期で単位を取ってしまうと、大学に行く必要がまったくなくなったからなんです。

 でも、ときたま卒論演習があると隆一くんと顔を合わせました。そして、九月の終わりにですね、隆一くんが、

「テスト受けに行ってくるよ」

 とだけわたしに言ったんです。

 正直わたしにとって隆一くんのあれこれは、そのときどうでもいいことだったので聞き流しましたが、隆一くんにとってその決断はとんでもないことだったのだと、いまでは思います。山形の免許センターは、ひどく辺鄙な場所にありましたからね。近くには交通量がまるでない道路と、雑草が生えているだけってかんじで。

 そして、これが隆一くんと直接顔を合わせた最後の思い出になってしまいました。

 あとは電話で聞いたお話です。

 そのときの隆一くんはひどく興奮していました。こっちから電話を切ろうともしましたが、隆一くんが息をきらしながら、聞いてくれ聞いてくれと、あまりにもしつこかったので、ちょっとだけならと聞いてあげることにしました。まあ、結局こう言ってしまったから、あんなに長電話になってしまったんですけどね。

 それから隆一くんは三十秒くらい声をととのえると、いつもの研究室で話すときぐらいのトーンに戻っていきました。

「朝井さんは、免許のこと覚えてるかい。ぼく、まえに言っていたでしょ」

 まず隆一くんはそうわたしにききました。わたしはかるく相槌のつもりで、あるよ、とだけ言いました。すると十数秒の沈黙のあとこう言いました。

「そっか、覚えててくれたんだね。よかった。よかった」

 すこし泣きそうな声になっていました。電話越しにガサゴソとものをこするような音が聞こえてきました。わたしはあわてて隆一にききました。

「いま、どこにいるの。携帯電話?」

「ちがうよ。そんなことよりも聞いてくれよ」

「なに」

「ぼくさあ、ちゃんと免許センターに行ったんだよ。きみに言われたとおりにね」

 わたしもかれに言いたいことはたくさんありましたが、かれはわたしのことなどもう聞いてはくれないようでした。

「それで行ったんだよ。金もかけたくないから、朝っぱらから自転車をこいでね」

「自転車でいったの。駅からバスもでていたでしょ」

「なんで試験受けるだけでバスなんかつかわかきゃいけないんだよ。それにしても朝からあの免許センターは変だったな。濃い霧がかかっていて、なんか化け物でもでるようなかんじだったな。でもほんとうにまずいのは夜なんだよ」

 隆一くんが口元を電話に近づけすぎているのか、それともべつの理由があるのか、音質がここからひどくなっていきました。

「なんで夜までいるの」

 とわたしはききました。

 すると隆一は気恥ずかしげに、

「試験に落ちたんだ」

 と言いました。そんなことがあるんだなあ、とわたしは思いましたね。だって隆一くんは✕✕✕✕✕✕から内定をもらっちゃうような人ですよ。免許のペーパーテストぐらい落とすはずがないって。

「おかしいでしょ。でも落ちちゃったんだ。でもいまだにわからないんだ。なんで落ちたのか」

 隆一くんによると、テスト中の問題用紙の文章がぜんぶ✕✕✕や、✕✕✕✕✕なんかに見えてしまったのだそうです。わたし自身おかしいことを言っているのは十分理解しています。しかし、わからない話でもないといいますか、なんとなく聞き入ってしまったんですよね。

 それから隆一くんは、しどろもどろな声でつづけました。

「でだよ、ぼくはね、このまま帰ってまた明日来るくらいなら、免許センターの近くで野宿することにしたんだ」

「そして、どうしたの」

「免許センターから出たぼくは、一番近いホームセンターまで自転車を走らせて安い寝袋を買ったんだ。それから寒河江のファミレスまで行ってスマホを充電した」

 どういうことなのかわたしにはサッパリでした。

「そんなんじゃ、バスの何倍もお金がかかってるじゃん。お金をかけたくないんじゃなかったの?」

「そんなことはわかっているんだ。でもそうすると決めたらそうするしかないだろ」

こういうところが隆一くんの強さでもあり、弱さでもありました。たぶんこのときには、免許なんて半分どうでもよかったのではないんじゃないですかね。

「で、ファミレスから免許センターのちかくのバス停に戻ってきたときには、夜空に星が輝いていた。あそこは明かりもなにもないからね。そして、バスの時刻表にスマホのライトを当てたらね、最終便は二時間まえに出たあとだった」

 それから隆一くんは、野宿したときのようすを事細かに教えてくれました。

「ぼくはね、寝袋に半分くらい身体を突っ込むと、ベンチに寝そべった。そして念のためにスマホをで問題演習したんだけどね。やっぱり簡単なんだな。べつにやる必要なんてはないんだ。だって問題が✕✕✕や✕✕✕✕✕に見えただけなのだから。結局メンタルしだいということになる。でも不安だったから、ぼくは問題を解きつづけた。でもやっぱり簡単だったから、画面をタッチする親指もどんどん遅くなっていって、ついに眠っちゃった」

「うん、それでつぎの日も受けに行ったんだよね」

「そうじゃない」

 隆一くんはおびえていました。

「ぼくはね、トイレがしたくなって目が醒めたの。だけど、近いコンビニでも一キロぐらいあったし、寝袋の外は寒かったからもう一度寝たんだ。でもね、いよいよ我慢できなくなって飛び起きた。そしたらね……」

「あいつがいたんだよ。足元にさ」

「あいつってなに?」

「✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕だよ」

「え、なに?」

「✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕は、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕だよ。どうしようもない」

 一応発音をそのまま伝えているはずですが、やっぱり伝わりませんよね。でもどこかで聞いたことはあるでしょう。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕ですよ。もし発音をそのまま文字起こしにできるのだとしたら、おねがいします。で、隆一くんはそいつが寝袋をかじっているのを見て思わず失禁してしまったのだそうです。

「ぼくはおもらしを垂れ流しながら、寝袋からなんとか這いずり出ると、助けを呼んだ。でも当たり前なんどけど、だれもいないんだ。そして、走ろうにも走れなかった」

「漏らしちゃったから?」

「いやちがうんだ。ぼくはね、寝袋から這い出て立ち上がろうとしたときに、足元を見て気づいたんだよ。両脚がなくなっていることにね」

 わたしはなにも言えませんでした。

「でもね、不思議と痛みはなかったんだ。断面もぼんやりとしていてね、ただ足首からなくなっていたんだ。で、立ち上がろうとしても、地面にたたきつけられるだけだった。でもがんばって這いずった。うしろを振り返ったら、あいつが寝袋を飲み込んでいるところだった」

 わたしは平常を装おうとしました。

「でも、いまは大丈夫なんでしょう。ねえ、どこから電話しているの」

 隆一くんはさびしげな声で言いました。

「そう、気づいたら着の身着のままで町に放り出されていた。もちろん両足もあった。でもさすがに深夜だけあってだれにも会わないんだよなあ」

「すぐそこの電話ボックスだよ。なんとかね、きみの家のちかくまで歩いてきたんだ」

 そして、わたしはこう言うしかありませんでした。

「あなたが免許センターに行ったのはいつのことなの」

「昨日だよ」

「何日?」

「九月……」

 隆一がそう言うのを聞いたわたしの口唇はふるえていました。

「うそ。いまはもう十月じゃない。あなたどこにいるの。さっきから深夜って言っているけど」

 すると、途端に隆一くんの音質がよくなりました。そして、こう言ったんです。

「やっとわかった。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕だ。ぼくは✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕なんだよ。どうして気がつかなかったんだろうなあ。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕だよ。✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕。わかるでしょ。だって結局きみだって✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕なんだからさ。どうしようもないんだ」

 そう言うかれの声は妙に明るかったおぼえがあります。わたしはむりやり通話を切りました。

 そうです。それで終わりです。隆一くんはもうどこにもいません。

 え、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕についてコメントをしてほしい? いえ、コメントもなにも✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕は✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕でしかありませんよ。

 え、なんですって、あなたも✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕なんですかあ。なんだあ、そうだったんですね。はじめからそう言ってくださいよ。だったら早かったのに。それじゃあ、ここは✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕ですか。隆一くんもいるということですね。

 よかったあ。


(笑い声、暗転)

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口述書 千田美咲 @SendasendA

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