第7話


 目の前にそびえる幽霊屋敷も十年前と何も変わらなかった。


 ニールは門の南京錠に目をやる。十年前、ダグラスが壊した南京錠は新しいものに変わっていた。


 町長に借りた鍵で南京錠を開錠し、屋敷の門を押す。ギィと古びた音とともに、門が開く。


「おい、何をしている。早く行くぞ」


 屋敷を見上げていたまま動かないヤロに声をかけ、ニールは敷地内に足を踏み入れる。慌てたように追いかけてきたヤロは信じられないものを見たかのような顔をして、口を開いた。


「この屋敷は何なんですか」 

「だから、昔の領主の屋敷だよ」

「何で、東海岸にある昔の領主の屋敷が、西大陸の霊樹で作られているんですか!」


 ニールは面倒くさそうに答える。


「正確には知らん。ただ、これを建てた領主は城一つ作れるほど高価だった妖精種を買えるほど財力があった。西大陸の珍しい物が好きな領主が、西大陸の珍しい材木で屋敷を建ててもおかしくないだろう」

「し、神聖な霊樹を何で、こんなことに……っ! 切り倒すだけでとんでもないことなのに、罰当たりにも程がある!」

「領主はろくな死に方をしなかったらしいぞ。因果応報というやつだな」


 ニールは建物の周りをぐるりと一周した。敷地内は昔と変わらず、草が生い茂っている。


 一通り、周囲を見終えたニールは正面玄関に戻り、扉に手をかける。


 扉を開け、ニールは酷く懐かしさを感じていた。正面玄関の向こうは十年前と何一つ変わっていなかった。


 幾つも並ぶ扉。長い廊下。二階に続く階段。最後に訪れた日のまま、変わらずにそこにある。ニールは玄関を進み、ホールに入る。


 ホールにはかつてニールの定位置だった椅子が変わらず置いてあった。


「……変な気分です。室内にいるのに、まるで西大陸の霊樹の森にいるみたいな匂いがする」

「ヤロ」


 ニールは一声かけ、ヤロのハンティング帽を奪い取った。


 ヤロは短く悲鳴を上げる。


 帽子の下から現れたのは髪と同じ毛並みの耳だ。まるで狐のような耳がヤロの頭から生えている。


「ちょっと、何するんですか!」


 ヤロは人獣種と呼ばれる西大陸の異種族の一人だ。血が濃いともっと獣に近い外見になるが、ヤロは耳以外は人間と変わらない。だが、その嗅覚は人より獣に近く、とても鋭い。


 首都ではたまに見かける種族だが、東海岸にはいない。ハーベスの人間がヤロの耳を見たら、驚いて悲鳴を上げるだろう。


「何でわざわざお前をここまで連れてきたと思ってる。餌にするために決まってるだろう。俺一人じゃ姿を現さない可能性がある。大人しく役割を果たせ」


 ニールはそう言うと、扉の横の壁にもたれかかり、目を閉じる。


 ヤロは困惑したように耳を揺らす。


「俺、何をすればいいんですか」

「いつも通り、喧しくしてればいい。そうすれば勝手に現れる」

「ええええええ」


 主人は黙り込んでしまったため、ヤロは一人途方に暮れた。「喧しくしろって」とブツブツ呟いていたかと思うと、諦めたように歌を歌いだした。


 前にヤロの姉が家事をしながら歌っているのを聞いたことがある。彼らの故郷の歌だ。


 クラシックともオペラとも違う、耳慣れない旋律とリズム。歌詞は西大陸の言葉だ。ニールにはヤロが何か歌っているのかは分からないが、以前ヤロの姉は故郷を懐かしむ歌なのだと言った。


 正直、ヤロは歌が上手くなかった。普段であればすぐに「やめろ」と止めるレベルだ。しかし、ニールは餌に獲物がかかるのを黙って待つ。


 それはヤロが歌い始めて、暫くのことだった。


 カツカツ、と階段を下りる音。衣擦れの音が廊下から響く。誰かがホールに近づいてくる。


 開けっ放しの扉を、ニールの横を、人影が通り過ぎる。


「…………嘘」


 透き通った声が響いた。ニールは目を開ける。


 ニールの目の前には薄緑の長い髪の女が立っていた。


 女はヤロの方を向き、ニールには背を向けている。だから、ニールには女の顔は見えない。それでも、後ろ姿だけで分かる。ニールにはその女が誰なのか間違えようがなかった。


「どうして」


 女はヤロに手を伸ばす。


 ヤロの方は女の姿も見えなければ、声も聞こえない様子だ。しかし、ヒクヒクと鼻を動かすと、突然歌うのを止めた。女も驚いたように手を引っ込める。


 ヤロは女の方を凝視し――しかし、何も見えないのを理解すると、ニールに視線を向けた。


「……あの、もしかして、何かいます?」

「ああ、いるな」


 ニールが答えると、初めてニールの存在に気付いたのか、女は弾かれた様に振り返った。


 若い娘だった。年の頃は十代後半。大人しい印象を与える可愛らしい顔立ち。白い肌。灰色の瞳。


 十年前最後に会ったときから変わらない。ずっと思い描いていた姿だ。


 視線がかち合い、女は灰色の瞳を見開く。女は小さく何かの言葉を口にした。


 ニールは壁から離れ、女の前に立つ。十年前、同じくらいだった背丈は今やニールの方が頭一つ分高くなっている。


「おい、ヤロ。車の荷物を取ってこい」


 女が動けずにいるのを確認すると、ニールはヤロに指示を飛ばす。


「えっ、アレいるんですか。それなら先に言ってくださいよ。一緒に持ってきたのに!」

「いいから、取ってこい」


 ハンティング帽を投げ返すと、ヤロは嫌々ながらホールを出て行った。


 車は屋敷の前まで乗ってこれなかった。少し離れた場所に停めてある。そのため、ヤロが戻ってくるまで十分は時間が必要だろう。


 ヤロが屋敷を出て行ったのを確認すると、漸くニールは口を開いた。


「久しぶりだな、ティア」


 ティアは黙り込んでいる。


 当然だろう。十年前、彼女は今生の別れのつもりでさよならを告げたはずだ。もう一度、ニールに会えるとは思っていなかっただろうし、会う気もなかったはずだ。


 ニールは仕方なく、言葉を続ける。


「なんだ。ずっと覚えてると言っただろう。あれは嘘か」

「……………嘘じゃないわ」


 ティアはやっと口を開いた。その表情は暗く、声も固い。


「大きくなったわね、ニール」

「まあ、あれから十年だからな」

「……そう、もうそんなに経ったのね」

「お前は相変わらず、変わらないな」

「それはニールもよく知っているでしょう」


 ティアと過ごした二年間、彼女の見た目は全く変わらなかった。十年以上経っても、彼女は年を取ることがない。ニールがどんなに変わっても、町がどんなに変わっても、彼女は変わらない。


 ティアの表情が歪む。


「何で、帰ってきたの」


 ティアの質問にニールは辟易とした気分になる。


 その質問は町長に続いて二人目だ。


「……何故、どいつもこいつも俺に帰ってきた理由を聞くんだ」

「ちゃんと、お別れしたのに」

「お前が一方的にな。俺はさよならをしたつもりはない」


 事実、ニールはあの日お別れをするつもりはなかった。


 一方的にティアがニールに別れを告げ、ニールはティアに何も伝えられないままだった。


 ティアと話がしたくて、あの日から毎日屋敷を訪れた。しかし、ティアとは一度も会えなかった。ティアが会うことを拒んだのだ。だから、ニールはティアに何も言えないままだった。


「他に方法はなかったじゃない……っ」


 気づけば、ティアは泣いていた。あの日と同じように。


 灰色の瞳から滴が零れる。


「ニールをここに縛り付けておくなんて間違ってる。今だって考えは変わらないわ。ニールは優しいから、きっと私のためにずっとここに居てくれる。だから、私からお別れをするしかないじゃない」


 ティアが泣いているのが悲しかった。泣かせてしまったことに罪悪感がこみ上げる。


 ニールは思わず手を伸ばしかけ、それをぐっと堪えた。


「……確かにあの日のお前の選択は正しかったよ。お前が別れを告げてくれなければ、俺はこの町を離れられなかった」


 ティアが無理やり別れを決めなければ、ニールはきっとあのままハーベスに残っただろう。ティアの傍に残り、生きていくことを選んだ。


 彼女の傍にいて、彼女のとっては短い数十年の時を一緒に過ごす事が彼女の救いと信じ、――本当のことは何も知らないまま、この田舎町で一生を終えただろう。


「ティアが正しかった。ダグラス教授が正しかった。首都で色んな事を知ったよ。色んな事を学んだ」


 首都に行き、学校で色んなことを学んだ。


 どれもハーベスにいては分からなかったことだ。子供の頃の自分の世界がいかに狭いものかを知った。この町が、この屋敷が、どれほど狭かったのかをよく思い知ったのだ。


「俺は色んなことをお前に教えたけど……だけど、本当は俺も何にも分かってなかったんだ。お前のことばっかり考えて、本当のことは何も見えていなかったんだ」


 ニールの金色の瞳を皆『真実の目』と称賛する。相手の嘘や贋作を見抜き、真実を見通すと褒め称える。


 しかし、ニールの得た目利きの力は後天的なものだ。首都で学んだからこそ、身に着けたものだ。母から譲り受けた西大陸のおける『真実の目』は名ばかりなのだ。


 ――けれど、この瞳は確かに真実を見通す目だった。


 ニールは目を閉じる。大きく深呼吸をすると、「ティア」と名前を呼んだ。


「でも、お前の言ったことは間違ってる。今日、俺はそれを証明するために俺は戻ってきたんだ」

「……証明?」


 ティアは目を瞬かせる。ニールは微笑む。


「首都にいても、ずっと俺はお前のことを考えてたよ。ティアが俺のことを想ってるって言ってくれたのと同じように。ハーベスにいるティアのことをずっと想ってた。ティアは勘違いだって言ったけど、俺の幸せはやっぱりティアの側にいることだ」


 首都では沢山の人間に出会った。友人も出来た。知人は数えきれないほどいる。ニールに好意を持ち、近寄って来た女性も大勢いた。


 学生時代にはそんな女性の中の何人かとは気まぐれに付き合いもしたが、結局ティア以上に心惹かれる存在は現れなかった。あっという間に破局することを繰り返し、大学を卒業する頃には女性との付き合いを倦厭するようになった。ヤロも言っていたように現在はひたすら仕事に打ち込む日々で、周囲からは仕事の鬼だの悪魔だのと恐れられることもある。


 確かに幼いあの頃、ニールにとって世界の全てに等しかった。けれど、彼女の優しさや穏やかさがなければ、きっとニールはティアに惹かれなかった。


 ティアは目を見開いてから、首を横に振る。


「私は、ニールと一緒にいれないわ」

「何故だ」

「だって、私は――」

「『同じ世界では生きられない』からか?」


 ティアは俯く。


「……ええ、私はここから離れられないもの」


 今度はニールが首を振る番だった。


「違う。それは嘘だ」


 ニールはそう言って懐から万年筆を取り出す。それをティアの目の前にかざす。彫られている文字がよく読めるように。


「お前なら、この文字が読めるだろ」

「――嘘」


 ティアは信じられないという顔をしていた。ニールは言葉を続ける。


「これは西大陸から来た“魔女”から借りたものだ。本当なら中央大陸では何の変哲もない万年筆だが――これを持つ者は魔法(マギア)の影響を逃れられる」


 ニールが何をしようとしているのか、ティアは漸く察したようだ。慌てたように後ろに逃げようとする。しかし、ニールの動きの方が早かった。


 ――先程からずっと分かっていたことだ。


 ティアの姿は十年前とまるで変わらない。でも変わらないのは外見的特徴だけだ。今日、彼女が着ている服は見慣れた象牙色のドレスではなく、夜の海のような藍色のドレスだ。


 二階からティアが階段を下りる音がした。ドレスの衣擦れの音がした。目を閉じていても気配を感じたし、かつて遠くから残響したように聞こえた声も今は鮮明に響く。


「最初に会った日、「幽霊か」と聞いた俺にお前は笑っただけだ。肯定も否定もしなかった」


 ティアはよく困ったような笑顔を浮かべていた。よくする表情だったため、深くは考えなかったが、ティアは答えに困った時もあの笑顔を浮かべていた。


「お前には気配がなかった。触ることが出来なかった。だから、俺はお前が幽霊だと、……死んでしまった存在だと思ってた。だが、本当は違ったんだな」


 考えてみれば、最初からおかしいことばかりだったのだ。


 ティアはニールに鞄の在処を知らせるために音を立てた。だが、実体がないのにどうやって音を立てられる。そもそも鞄自体もバイロン達がどこかに隠していたはずだ。それを分かりやすいホールの中央に移動させたのは誰か。


 町には屋敷の外で幽霊の目撃した話が流れていた。薄緑色の髪をした女の幽霊だ。ティアの外見と一致し、中央大陸ではまず有り得ない特徴だ。そんな目撃情報を口にする以上、誰かは必ず屋敷の外でティアを目撃していることになる。なのに、彼女は屋敷の外に行けないと言っていた。


 また、ハーベスでは昔から盗難が多発していた。盗まれていたのは主に食べ物だ。そして、盗人は結局見つからず、大部分が迷宮入りをしている。小さい頃、何故幽霊は物を食べないのに食べ物を盗むのかと思っていた。だが、本当にあれは大人たちの言うように『幽霊の仕業』だったのだ。


 この屋敷には多く雑草が生えているが、その中には食べられる山菜も混じっていた。人の手が加えられていると分からないように雑草と一緒に育てられたのだろう。ハーベスの周辺には自然も多い。周囲を散策すれば食べられる物も手に入っただろう。だが、それでは足りない時に、彼女は夜遅くに町まで出向いて、食べ物をこっそり盗んでいたのだ。


 ニールは自嘲する。ニールはずっと、そんなことにも気づいていなかった。


「本当はこの屋敷に幽霊なんて存在しなかったんだな」


 今、ニールはティアの手を掴んでいる。


 彼女には体温がある。実体がある。彼女は死んでなんかいない。


 ――ニールと同じ、生きた生身のヒトだ。

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