第3話
ニールが西大陸について知ったのは、そんな頃だった。
西大陸とはニールたちが住む中央大陸の西にある大陸のこだ。
西海岸では西大陸との交易を行っているが、遠く離れた東海岸にはその話はまったく届かない。ハーベスには西大陸についての本が一切なく、教師はその日の授業を全て口頭で行った。
『いらっしゃい、ニール』
その日もティアは笑顔で出迎えてくれた。
『今度は学校で何を教わったの?』
何も知らないティアは、古びた椅子に腰かけたニールに数日の出来事を訊ねてくる。ニールは少し躊躇いながら、いつも通り口を開いた。
「今日、西大陸について教わった」
ニールがそう告げた瞬間、ティアは表情を失った。
輝いていたはずの灰色の瞳は一瞬で陰る。顔色が真っ青になる。
ニールはティアの顔が見ていられず、視線を反らした。
「……西大陸は中央大陸と異なる生態系を持つ生き物がたくさんいる。ドラゴンや妖精、おとぎ話に出てくるような生き物が住んでるんだって」
むしろ、この大陸でおとぎ話と呼ばれる物語は西大陸の話なのだと教師は言った。西大陸からやって来た者が伝えたり、西大陸を訪れた冒険者が持ち帰ってきた話なのだという。
この大陸とは全く在り方の異なる異大陸。
中央大陸の常識は西大陸には通用しない。首都や西海岸では西大陸について研究が行われている。
そして、西大陸はこの町とまったくの無関係ではないと、彼は言った。
かつて、幽霊屋敷に住んでいた領主は世にも珍しい西大陸のものを収集していた。――彼が買った異国の奴隷は、西大陸に住む妖精種と呼ばれる珍しい種族の娘だった。
「ティアは西大陸の出身なんだな」
目の前の美しい女は困ったような笑みを浮かべていた。
◆
妖精種は殆んど人間と変わらない種族だ。
体の大きさも造りも寿命も全て人間と全く一緒。ただ、一つ違うのは妖精種は美しく、人間を魅了する力を持っていることだった。
百年以上前、西大陸では妖精種狩りが横行していた。
中央大陸の商人が西大陸に渡り、言葉巧みに妖精種を騙す。そして、そのまま、中央大陸に連れ帰り、希少性の高い奴隷として売るのだ。
美しく、誰もを魅了する妖精種は高額で売り買いされた。かつて、領主に買われたのもそうした妖精種の一人だったと云う。
『私たちの故郷は自然豊かなところなの。森があって、泉や川があって……色んな種族がいて、姿形が全然違うけど、みんな同じ命だって認めあって生きている。たまにいざこざは起きたけど、みんなうまく共存をしていたわ』
ティアが自身の事を語るのはその日がはじめてだった。
悲しい色に染まったティアの瞳を見つめながら、ニールは静かに話に耳を傾ける。
『たくさん仲間がいたわ。森の中で静かに暮らしていた。でも、ある日、森の近くに異大陸の行商人が来てると聞いたの。私、異大陸に興味があったから、話を聞きたくて森を出たの』
それが間違いだった、とティアは呟いた。
『あの人は私を捕まえて、中央大陸行きの船に押し込んだ。私以外にも沢山のヒトが捕まってた。何ヵ月もかけて中央大陸まで連れてこられて、――私は領主様に買われたの』
ティアはニールを見て、困ったように笑った。
『怒らなくていいのよ。もう、とても昔のことだから』
そう言われ、ニールは自分が怒りで震えていることに気づいた。
『私は運が良かったの。領主様に乱暴なことをされなかった。……当時、ひどい目に遭わされてしまう子は珍しくなかったから』
本当にティアは自分が幸運だったと思っている様子だった。
思わず、ニールは声を荒げた。
「――なら、何で身投げしたんだ!」
ティアは驚いたように、ニールを見つめる。
無理やり故郷から知らない場所に連れて来られて、仲間たちと引き離されて、幸運なわけがない。ニールはティアが自身をそう表現するのが耐えられなかった。
「辛かったんだろ、耐えられないくらい。なのに何で笑ってられるんだよ!」
ティアは困ったとき、いつも笑っている。怒ったことなんて一度もない。今だって怒ってもいいのに、悲しそうな顔をするだけだ。
ニールの目から滴が零れる。ニールは慌てて涙を袖で拭う。
ティアはその様子を少し悲しそうに見つめてから、穏やかな口調で言った。
『もう全部、過去のことだからよ』
ティアの言葉はまるで凪のようだ。怒りも哀しみもない。
『私を捕まえた商人も、領主様も、――友人も、みんなもう死んでしまったわ。もう誰も生きていない。だから、もういいの』
「……ソイツらを許すって言うのか」
『いいえ、違うわ。もう、終わってしまったことだから。考えるのをやめただけ』
ティアはニールに手を伸ばす。
『私はこの先、長い間変わらずにここにいる。いずれ来る終わりの時をずっと待ってる』
ティアはただ、待っているのだ。
この屋敷で、自分がいつか消える日を。ただ、消えるためにここにいる。
『それまでの間、悲しかったことや苦しかったことを考えて過ごすのはやめたの』
彼女は泡のように消えてなくなりたいと言った。
ティアには本当に心残りも、未練も、怨みもないのだ。彼女が望んでここにいるわけじゃない。ただ、いつか終わるのを待つだけの日々を過ごしているのだ。
ティアの手が頬に触れる。その筈なのに、ティアの手の温度も、感触も、何も感じない。
『ニールは優しい子ね。私の代わりに泣いてくれて、ありがとう』
目の前にいるのに、ニールにはティアの存在が遠く感じる。
ティアに何かをしてやりたい。彼女の支えになってやりたい。だが、どれだけ想おうとニールは彼女を救えない。
ニールもいずれ、領主たちと同じく死んでいく。
(俺は無力だ)
その事も悲しくて、ニールは暫く泣き止むことが出来なかった。
◆
『ニール、ちょっと立ってみて』
ある日、ティアにそう言われ、ニールは読んでいた本を置いて立ち上がった。
ティアはニールの目の前に立ち、自身とニールの背を比べる。目線は全く一緒か、ニールの方が少し高い。
ティアは嬉しそうに微笑んだ。
『ニールもすっかり大きくなったわね。昔はこんなに小さかったのに』
「当たり前だろ。ずっと小さいままでいられるか」
『そうよね。ニールは今年でいくつ?』
「……十四歳」
『もう、そんなに経つのね。二年ってあっという間ね』
そう呟くティアは少し悲しげだ。
ニールがこの町に来て八年。ティアと出会って二年が経った。
その歳月はニールにとっては短くない時間だったが、百年以上この屋敷にいるティアにとってはきっと短いに違いない。
ニールの背は伸びた。体つきもより筋肉質になった。声もどんどん低くなっている。昔より感情的になることも減った。大人に近づいているのだと日々感じることが多い。
しかし、ティアの姿は二年前に会ったときから全く変わらない。十代後半の、出会った頃と変わらない姿をしている。――変わっていくのはニールだけだ。
『もうすぐ、学校も卒業ね。ニールは進学するのでしょう?』
触れられたくない話題に触れられ、ニールは顔をしかめた。
椅子に腰掛け、本の続きを読み始める。ティアは目を瞬かせると、ニールの横にしゃがみこむ。
『違うの? 州立学校を受けるんだって言っていたじゃない』
「……そんなこと言ったか?」
『言ってたわ。覚えてるもの。ニールは頭が良いからいい選択だと思うの』
「これくらい普通だろ」
『そうかしら』
ニールが目を通している本は教師に無理を言って借りた物理学の本だ。その内容は大学レベルであることをティアに教えるつもりはない。
「……今日はもう帰る」
それ以上、進路の話をされたくなくて、ニールは本を鞄にしまい、立ち上がった。
『見送るわ』と言って、ティアも後に続く。いつも通り、屋敷の塀のところまで見送ってくれた。
ティアがこの塀をくぐって外に出ることは一度もない。
昔、そこから外には行けないとティアは言った。屋敷の外には行けないのだと。その言葉に違和感を感じたが、ニールはそれ以上追及はしなかった。
ティアには悲しい顔をしてほしくない。だから、触れられたくない話題は口にしない。
あれ以来、ニールはティアの故郷や過去の話を二度としていない。ティアもあれ以降、その話題を自分で口にしたことはない。
歩き慣れた道を進み、ニールは家に向かう。
その途中、遠くにバイロン達の姿を見かけた。
相変わらずニールは町で孤立しているが、バイロン達に虐められることはなくなった。遠巻きに観察されることの方が多い。陰口を叩かれているのも知っている。しかし、直接的な被害はなくなった。これも変化といえば、変化だろう。
町の姿形は昔と変わらない。しかし、この八年で人々は少しずつ変わっている。
子供達が大人になった。町で恋人を見つけ、結婚した。夫婦の間に子供が生まれた。大人達も少しずつ歳を取り、この八年で亡くなった老人も少なくない。
(この町もアイツを置いていく)
どんどん時間は流れていく。人は変わっていく。ニールも大人になっていく。――いずれ、ティアを置いていく。
あと、何回彼女と会えるだろう。あと、何回彼女の声を聞けるだろう。許されるのであれば、ずっと、ティアと一緒にいたい。そのためにこの町にいたい。
だが、元々ニールが望んでいた州立学校への進学の道は、ニールのティアと一緒にいたいという望みと相反する。
馬車で三日かかる州都の全寮制学校は長期休暇でもなければ、ハーベスに戻ることが難しい。今は数日に一度の頻度で会っているティアと、年に三度しか会えなくなる。
ティアが普通の人間だったら手紙のやり取りをするという手段もある。しかし、幽霊であるティアにはそれも難しい。そして、ニールがいなくなれば、ティアはまた独りぼっちの日々を過ごすことになる。そうしたら、きっと彼女は寂しい思いをするに決まっている。
――そんなのは嫌だ。
これ以上彼女を悲しませたくない。ただの一時の慰めだとしても、一緒にいてやりたい。
半月前、学校の教師に進路の話をされた。州立学校に進学するなら試験がある。隣町にある公立学校なら、ニールの成績なら推薦状だけで入れると言われた。
隣町の公立学校のレベルは低い。正直、今のニールでは学ぶことはないだろう。それでも、隣町ならここから歩いて通える。
ハーベスを離れる必要はない。
この町に来てからずっと、州立学校への進学が目標だった。そのためにずっと勉強してきた筈なのに、ニールは二つの願望の間で揺れ動いている。
考え事をしながらゆっくり歩いていると、空が徐々に暗くなってきた。ニールは日が落ちる前にと、足早になる。
見慣れた赤い屋根が見えてくる。リビングの窓からは灯りが見える。きっと養母が夕食の準備をし、養父がソファでゆっくりとくつろいでいるはずだ。
家の目の前まで来て、ようやくニールは家の前に見慣れない物が停まっていることに気づいた。
(……車?)
実物を見るのは何年振りだろう。家の前にはこの辺りでは珍しい自動車が停まっていた。
車体は黒。座席は二人分。折り畳んであるが、革製の天井もついている。
(珍しい)
養父達の客人の物だろうか。
しかし、車を所有しているなんてよっぽどの金持ちだ。ハーベスに来てから車なんて二、三度しか見たことがない。
しかも、その車は以前見た蒸気式のものではない。煙を吐く煙突がついていないのだ。一体、動力は何なのだろうか。
「興味があるか?」
つい珍しくて、構造を観察していると後ろから声をかけられた。
ニールは振り返り、車から離れる。
車は高級品だ。壊れただの壊されただのいちゃもんをつけられてはたまったものではない。
「ああ、別に好きに見てもらって構わないよ」
快活な笑いを浮かべていたのは背の高い男だった。
短い茶髪に榛色の瞳。歳は三十前後に見える。少しくたびれているが上等な茶色のジャケットを着ていた。
「はじめまして。ニール・トレヴァーと言います。ここの家で厄介になってる者です」
初対面の相手だ。先に名を名乗るべきだろう。
ニールが一礼すると、男は握手を求めてきた。
「俺はダグラス・モーズレイだ」
ニールはダグラスの手を握り返す。
他人と握手をするなんて初めてかもしれない。
ダグラスは好意的な態度だ。この町の人間でなければ当然のことだが、ティア以外に友好的な態度を向けられるのは本当に久しぶりだ。
ダグラスは目線で車を指す。
「車は好きかい?」
「ええ、まあ。実物をほとんど見たことがないので、とても興味があります」
「どういう部分に興味があるんだ?」
「そうですね。例えば構造でしょうか。これは何で動いているんですか? 蒸気ではありませんよね」
「ガソリンだよ」
確かそれは近年新しく開発された動力源だったはずだ。
蒸気式よりコンパクトで軽量ですみ、距離も蒸気式より遠く速く移動できる。本や新聞で読んだくらいで、実物を見るのははじめてだ。
ニールは目を輝かせる。ダグラスの許可があったこともあり、手を触れてじっくりと観察を始める。
「ガソリン式の自動車はどれくらい走れるんですか?」
「州都からここまでだな。うっかり燃料切れになっちまった」
「では、モーズレイさんは州都からいらっしゃったんですか」
「いや、首都からだよ。途中何度か主要都市で給油しながら来たんだ。鉄道で来ても良かったんだが、一度車で旅ってのをしてみたかったんだよ」
――首都。
思わぬ単語にニールは目を瞠った。
ダグラスを見上げると、彼はニヤリと笑みを浮かべる。
「俺は首都の国立大学で准教授をやってるんだ。アンタの父親――カーティス・トレヴァー先生に頼まれてやって来たんだよ」
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