第2話
この廃墟に子供たちが肝試しの場として潜り込んでくることはよくあることだ、と彼女は言った。
『でも、今日来た子達は少し様子が違ったから。様子を見ていたらこの鞄を置いていったの』
帰り際に彼らの話を聞いて、すぐ誰かの鞄を隠しに来たのだと分かった。だから、鞄の主が取りに来ないか待っていたのだと彼女は言う。
『この屋敷には百年以上居るけど、私が見えるって人は貴方がはじめてよ』
少し時間を置いたことで、女は落ち着きを取り戻したらしい。ゆっくりとした柔らかな口調で経緯を教えてくれた。
女のあまりに穏やかな物腰に、ニールは相手が幽霊であることを忘れそうになる。というよりは、本当はいまだに相手が幽霊だとは信じたくない。
しかし、明らかに女は人間ではなかった。
姿こそはっきりとニールの目に映っている。意思疎通もしっかり取れる。しかし、まるで気配がない。
すぐ傍にいるのに、ニールは目を閉じたり、女に背を向けると途端に相手の気配を感じられなくなる。身動きしたときに出るはずの僅かな衣擦れの音でさえしない。声もどこか遠くから聞こえるように残響して聞こえる。
先程試しに触れてみようとしたが、伸ばした手は空を切り、女を捉えることが出来なかった。実体がないのだ。
ここまで来れば、認めたくなくても認めざるを得ない。この表現が合っているのかは分からないが、女は明らかに『幽霊』であった。
『鞄、見つかって良かったね』
女はニールと視線を合わせるように屈み、笑みを浮かべた。
背丈はニールより女の方が頭一つ分高い。
ニールは返答が思い浮かばない。女から目を背け、ただ黙り込んでいた。女は苦笑してから、ふと廊下の方に視線を向けた。
『ここは危ないし、もうすぐ日も暮れる。早く帰った方がいいわ』
女に言われるまでもない。元々、鞄が見つかったらすぐ帰るつもりだったのだ。しかし、今のニールは何となく帰り難い気分でいた。
ニールは視線を女に向ける。女は不思議そうに首を傾げた。
――ここまで友好的な態度の相手と話すのはいつぶりだろう。
「――お前、変だ」
『そうかしら』
「幽霊ってのは怖いもんだろ。お前、全然怖くない」
『……普通の人は私を見かけただけで怖がるのよ』
「俺が変だって言いたいのか」
『そういうわけではないけれど』
困った様子の女は、普通の人間にしか見えない。少なくとも、町の人間が恐れるような存在には思えなかった。
女はじっとニールを見つめてくる。
観察されてるかのようだ。しかし、不快感は感じない。
ふと、女は何かに気づいたかのようにニールの顔を覗き込んできた。かなりの至近距離だ。ニールは驚いて一歩後ろに下がる。
『貴女、珍しい瞳をしているのね』
女の言葉に、身体が芯から冷えていくのがわかった。
ニールが町の人間に受け入れられない理由は首都からやって来た余所者というだけでない。ニールの瞳は珍しい金色の光彩をしている。
茶色や緑、青、灰色といった色の目はよく見る。しかし、自身と同じ金色の瞳の人間をニールは見たことがない。それは町の人間も同じようで、見たこともない金色の光彩を気味悪そうに見てくる。
黒い髪はごく平凡なものだ。しかし、その組み合わせが理由で不吉な黒猫みたいだと言われることもあった。
女も同じ反応をするのかと身構えていると、女は微笑んだ。
『素敵な眼ね』
女の言葉には一切の悪意を感じなかった。純粋にニールの瞳を褒めてくれたように聞こえた。
ニールは何も言えなかった。
その後、『さあ、帰らないとお母さんたちが心配するわ』と女に言われ、ニールは屋敷を後にすることになった。女は勝手口までニールを見送ってくれた。
時刻は夕刻。早く帰らないと養父母に顔を顰められるだろう。
帰り道、遠ざかった屋敷を振り返る。夕焼けに染まる廃墟は行きに見たときより寂しげに見える。
――おかしな体験をした。
まさか領主屋敷に本当に幽霊がいるなんて思わなかった。いまだに幽霊の実在は信じがたい。
しかし、そんなのはニールには関係ない話だ。
明日、ニールが何事もなく登校するのを見れば、バイロン達はまた領主屋敷に鞄を隠すなんて考えないだろう。領主屋敷に物を隠すのはバイロン達にとっても手間だ。労力に見合わないと思われる可能性が高い。
だから、ニールが再び領主屋敷を訪れる可能性は限りなく低い。用がなければ領主屋敷にニールは近づきもしない。だから、あの幽霊ともう会うこともない。
『この屋敷には百年以上居るけど、私が見えるって人は貴方がはじめて』
あの女はそう言った。
――ならば、あの幽霊は人と話すことも百年以上なかったのではないだろうか。
ニールに話しかける女はどこか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。ニールが屋敷を出る際、見送ってくれた女はどこか寂しそうに笑っていなかったか。
ニールは奥歯を噛む。
だが、全て、もう関係ない話だ。あの屋敷に行く必要は何一つないのだから。
それから一度も振り返ることなく、ニールは家路に着いた。
◆
それから五日後。
幽霊は、ニールを見て鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべていた。
『どうしたの? また、何か隠されたの? 今日は屋敷には誰も来てないわよ』
女は屈み、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
今日は学校も休みの日曜だ。時間は昼過ぎ。普段であれば、家で勉強をしている頃だ。
それにも関わらず、ニールは人目を避けながらわざわざ幽霊屋敷に足を運んだ。足を運んでしまった。
ニールは俯いて、女と視線を合わせない。
自分自身でも、行動が理解できない。論理的でない。意味が分からない。なのに、ニールは屋敷に出向いてしまった。この五日間、女の事を忘れられなかった。
ニールはグッと拳を握り、顔を上げた。
「か、借りが出来た」
『借り?』
「だから、借りを返しに来た」
女はきょとんとしていた。
数秒置いてから、女はくすくすと笑い出した。ニールは頬が熱くなるのを感じた。
「――っ、笑うなよ」
『そうね。ごめんなさい』
詫びの言葉を口にしながら、女は堪えきれないのか笑い続ける。
『随分と難しい言葉を知ってるのね。すごいわ』
「馬鹿にしてるのか」
『まさか。私が貴方くらいのとき、そんな難しいこと考えたことなかったもの』
女はどこか懐かしそうにこちらを見つめる。そして、困ったように眉尻を下げた。
『気持ちはとても嬉しいわ。……でも、私は大したことしていないもの。気にしなくていいのよ』
嘘をついていたり、誤魔化す様子はない。本気で女はそう思っている様子だった。
「お前が気にしなくても俺が気にするんだ」
ニールがそう言い返すと、女は目を伏せ、黙り込んでしまった。
しばらく沈黙が流れる。その間にニールは苛立ちを覚える。
「お前は何でこんなところにいるんだ」
沈黙を破るため、ニールは先日から抱いていた疑問を口にした。
女は不思議そうに眼を瞬かせる。
「何か心残りでもあるのか」
『心残り?』
「魂が彷徨うのは未練や怨みがあるからっていうだろ。……違うのか?」
ニールは幽霊を信じていなかった。だが、一般的に幽霊が現れるのは生前の未練や遺恨が残っているからと言われてる。
しかし、女は不可解そうな表情を浮かべていた。『未練、怨み』とニールの言葉を復唱する。そして、ポツリと呟いた。
『何で、私はここにいるのかしらね』
女は笑みを浮かべている。
『出来るのなら泡のように消えてしまいたいのに』
だが、瞳は酷く悲しげに揺れていた。
何となく、ニールには女の気持ちが分かるような気がした。
故郷を離れ、見知らぬ場所で独りぼっち。話す相手もいない。
ニールがハーベスに来て、六年。まだ、たった六年だ。女の過ごした百年に比べれた短い歳月だ。女の過ごした時間はどれだけ寂しいものだっただろうか。
ニールにはまるで女が泣いているように見えた。
「俺はニールだよ」
ニールが名乗ると、女は不思議そうに目を瞬かせる。
「あんたの名前は? それくらい、教えてくれたっていいだろ」
女はしばらく目を瞬かせていたが、『ティア』と短く答えた。
◆
それから、数日に一度、幽霊屋敷を訪れるのがニールの日課になった。
ティアは困ったような表情を浮かべながらも、ニールを追い返したりしない。いつも、律儀に屋敷のホールでニールを出迎えた。
最初の頃、ティアはほとんど自分のことを語りたがらなかった。そのため、ニールが話題を提供する羽目になったが、ニールも面白い話の種なんて持っていない。そのため、必然的に話題は勉強で学んだことばかりになる。
『テツドウ?』
「そう。黒い車体の、大陸を横断する乗り物。線路っていう道があって、その上を蒸気の力で走るんだ」
『蒸気って、あの蒸気? それで乗り物を動かせるの?』
ティアの知識は百年以上前で止まっており、鉄道は勿論、車も飛行機も知らなかった。
絵を描きながら説明すると、彼女は目を輝かせた。
『昔はこんなものなかった』
「今もこの辺りじゃ走ってないけどな。車も、首都とか州都の方まで行けばたくさん走ってるけど、ハーベスじゃ持ってるやつなんていない」
『見てみたかったのに、それは残念ね』
ティアはどんな話も嬉しそうに聞いてくれる。ティアが笑うとニールも嬉しくなる。
――もっと、笑って欲しい。喜んで欲しい。
普段生活してても、勉強をしていても、ティアが喜ぶ話はないかなんてことばかりを最近のニールは考えている。
『まるでマギアみたいね』
ニールの描いた鉄道の絵にティアは指を這わす。ティアの呟いた聞き慣れない単語にニールは眉を潜める。
「マギア?」
『えっと、こちらだと魔法と言うのかしら。車も鉄道も、全部
ニールはティアの言葉に眉をひそめる。
「お前、その歳で魔法なんて信じてるのか?」
小さい頃、読んだ絵本に魔法の存在はよく描かれていた。科学とも違う不思議な力。しかし、この歳になればそんなものは存在しないことを理解している。
すると、ティアは傷ついたような表情を浮かべた。
おかしなことを言っているのはティアなのに、そんな顔をされるとまるでニールが間違っているような気になってしまう。何より、ティアにそんな顔をさせるつもりはなかった。
『ニールは絵も上手ね。ねえ、今度は別の物を描いてくれない? 動物とか、植物とか、何でもいいから』
話題を変えてくれたのはティアだった。
ニールは謝罪も感謝も口に出せず、「分かった」とだけ答え、要望通り猫の絵を描き始めた。
そんな風に二人で過ごすのが当たり前になると、ティアはニールが屋敷にやって来ても困った顔をしなくなった。むしろ、来訪を喜び、来なかった間に何があったのか、向こうから聞いてくるようになった。
ティアはニールの知る誰よりも優しい人だった。
怪我をしたときは自分のことのように悲しがってくれた。テストで満点を取ると喜んでくれた。ティアが悲しがるとニールも悲しかったし、喜ぶと嬉しかった。
数ヵ月も経たないうちに、ニールはティアが幽霊ということはどうでもよくなっていた。ティアに話をしに行くのがすっかり当たり前になり、日常の一部となった。
ろくに話し相手のいないニールにとって、ティアは唯一の友人であった。ティアのおかげで町での生活も楽しいものに思えるようになった。
勉強も好きだが、ここまで感情が動くのは彼女と一緒にいるときだけ。
ニールにとって領主屋敷でティアと過ごす時間はかけがえのないものとなっていった。
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