第10話 黄金の御手 Ⅰ
「はあ……」
夜の静けさの中、アリスは眠れずに天井を見上げている。
一緒に寝ようとかほざいてきたエクスは屋根裏部屋に詰めたが、もう少し話し相手になってもらえばよかっただろうか。
(あいつ、普通にこの家で暮らすつもりなのかな……)
そのことも不安だったが、それよりももっと大きな不安がある。
(私、この先も
窓からは月の光が差し込んでいる。アリスは上体を起こし、全身に青白い光を浴びる。そのままベッドから出て、椅子に掛けてあった羽織を着る。
階段を降り、玄関の扉を開けて、庭に出る。
子どもの頃からアリスは、眠れない夜は自宅の庭で気持ちを落ち着ける習慣がある。本来ならば夜に子どもが家の外に出ることは許されないのだが、家の敷地内だし、何故か昔からアリスの家の周辺は
少しの背徳感と、一人の時間。庭に咲く白い花が微風に揺れて、森の中にいるような感覚に包まれる。二人掛けのベンチに座り、一呼吸置く。
空を仰ぎ、目を閉じた瞬間——
「こら」
低く、透き通った声が鼓膜を揺らす。
声を掛けられると思っていなかったアリスは、小さく悲鳴をあげる。
「夜中に出歩くのはよくないぞ」
闇の中から、人の姿が
黒炭のような黒髪に、
間違いない。婚約式のときに首飾りを拾ってくれた、王都騎士だ。
「あの時の……騎士様……」
「前にも言ったではないか。
「いや……ここうちの敷地内ですよね……? 騎士様、
「……ふふっ」
黒騎士は何がおかしいのか、笑い始める。
「たしかに……不法侵入だな……ふふっ」
(普通に怖い)
何故こんな時間に、アリスの自宅の庭にいるのか意味が解らず、恐怖を感じる。
「あの……先日は感謝していますが……何か御用でも?」
「ああ。人探しをしているんだ。リリーという名の少女を」
「リリー?」
アリスが聞き返すと、黒騎士はアリスの隣にどかりと座る。
個人空間に易々と入り込まれ、心臓が縮み上がる。
動揺する頭で考える。リリーというのは、誰だろうか。思い当たるのは、アリスの五年前に死んだ妹、リリスの愛称。
——この男とリリスは、何か関係があるのだろうか?
「あの……その、リリーさんとは、どのような関係なんですか」
「ん? 昔リリーと約束したんだ。来年、結婚するって」
「けっ、結婚⁉」
「何故、お前が驚く?」
「いえ、すみません……何でもないです」
「しかし見つからないんだよな、リリーが。王都にいると思われるんだが……」
「は、はあ……」
リリスに婚約者がいたなどとは聞いたことがない。何せリリスは十二歳で亡くなっている。縁談には少し早い年齢だ。
リリーとは、リリスのことではないのだろうか。そう思った矢先、黒騎士はとんでもないことを言い始める。
「仕方ないから、お前と結婚しようと思って」
「……はい?」
「結婚しよう」
端正な顔をアリスに真っすぐ向け、気安く言う。
「…………」
意味不明な求婚を受け、思考が停止する。心とは裏腹に、顔が熱くなっていく。
「何でそうなるんですか⁉」
「何でと言われてもな……えっと……名前……なんだっけ」
「名前も解らない相手に求婚しないでください!」
「些細なことだろう?」
「全然些細じゃないです! というか私、既に婚約してますし!」
「婚約だろ? 破棄しろ」
「婚約破棄する! って言うだけで破棄できるのなら婚約なんてものは最初からないですよ!」
「ううん……面倒くさいのだな、人間とは……」
人間とは、なんてエクスみたいな言い方をする。確かに浮世離れした人だと感じる。隣にいる黒騎士の顔を
「そんな簡単に諦めないでくださいよ……ちゃんと探してあげてください。というか、何故、見つからないからって私が……」
「見た目がお前によく似ていた」
「似てた……? えっと、その人とは何年前に婚約したんですか?」
「覚えてないな」
「そんないいかげんな感じに婚約したんですか⁉」
「まあ、口約束だしな」
「最近まで会ってたんですか?」
「いや、数年前……? に会ったのが最後だな」
「……それ、相手は本気じゃなかったのでは……」
「いや、本気だ」
聞く限り怪しすぎるのだが、何故だか騎士は自信満々に答える。その姿があまりにも堂々としていて、なんだかアリスは羨ましく感じる。
「で、結婚するか?」
「話を戻さないでください」
二人の間に微妙な空気が流れる。アリスはどうしていいか解らず、手をもじもじさせる。
「まあいいか。えっと……」
「……アリスです」
「また来るから、考えておいてくれ、アリー」
そう言うと黒騎士は立ち上がり、ひらりと
(……アリー? いきなり愛称で呼ばれた? 距離の詰め方エグくない?)
名前も聞けなかった。また来ると言ったが、本当なのだろうか。これ以上悩みの種を増やさないで欲しい。
空に輝く月を見上げ、アリスは静かに溜息を吐いた。
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