第8話 剣の舞 Ⅰ
死んだように眠ってしまった。
一時限目の講義開始時刻が過ぎたころ、アリスは薄暗い子ども部屋のベッドで起き上がる。
隣には、誰もいない。妹も、天使も。
「エクス……?」
彼は何処へ行ったのだろうか、腕は大丈夫だったのだろうか、心配になる。
アリスは部屋から出て、一階のキッチンへと続く階段を降りていく。
昨日、一昨日のことが、まるで夢だったかのように感じる。
ぴたり、とアリスは立ち止まる。
下の階に、人の気配を感じる。
アリスは現実に引き戻される感じがした。眼を閉じて、ゆっくりと呼吸をする。アリスが戦っているのは、
一階のキッチンへと足を踏み入れる。
「……ああ、いたの」
アリスに不機嫌な声が投げかけられる。
「ヘロディアス……伯母様」
キッチンにいたのは、アリスの母方の伯母、ヘロディアス。
少し前に帰ってきていたのだろうか。テーブルの椅子に腰かけ、目の前には食べ終えた食器が置いてある。
アリスより少しくすんだ銀の髪に、アリスによく似た
「学校は?」
「今日は……午後からです」
嘘を吐いたが、明かされることはないと知っている。そんなことは伯母にとっては、どうでもいいことなのだから。
「王子様とは上手くいってるの?」
「はい……」
また、嘘を吐く。
「ああそう、それならいいのだけれど」
ヘロディアスは食器を片付けながら、口にする。
「早く結婚でも何でもして、ここを出て行ってくれないかしら。あんたのせいで私の人生が犠牲になっているの、解ってる?」
「…………」
アリスは何も言わずに、伯母を見る。
「何? 何か言いたいの? 私の方が邪魔者だって思ってるんでしょう?」
先程まで気だるげだったヘロディアスの態度は激変し、持っていた皿を流し台に叩きつける。
カシャン、と白い皿は砕け、そのままの勢いでアリスに迫る。
「この家に私を招いたのはお前の母親なんだから! そいつが死んだ今、私が所有して何がおかしいの? やりたいこともできず、あんたの面倒を見てるのよ! どっちが邪魔者だと思う?」
大声でアリスをまくし立てるヘロディアス。そんな伯母を見てアリスは無表情で言う。
「そうですね」
謝るのも否定するのも逆効果だと——アリスは既に知っている。
「……はあ、本っ当に可愛くない」
呆れたようにヘロディアスがつぶやくと、キッチンの向こう側にある居間から別の人物が現れる。
しまった——と、アリスは思う。伯母に気を取られて、もう一人の存在を認識していなかった。
「あっれ~? アリスちゃん、いるじゃん!」
陽気な声で、近づいてくる男。
「伯母様の……彼氏さん」
「あはは、もっと気軽におじさん! とか、ミダス! って呼んでくれて構わないのに。まあ年ごろだし? 恥ずかしいかなあ」
ミダスというらしい男は、笑いながらアリスに近づいてくる。
身長は高く、ガッシリとした体つき。アリスの腕一本ぐらいならば、簡単に折れそうな雰囲気だ。くせ毛の茶髪に、無精髭。そしてアリスを見る熱っぽい視線——何度会っても、苦手すぎる。
伯母しかいないと思って、寝間着のまま出てきてしまったことを後悔する。現にミダスは、頭のてっぺんから爪先まで舐めるようにアリスに視線を這わせる。
「アリスちゃん」
ミダスは距離を詰め、アリスの耳元で囁く。
「ごめんね……伯母さん、仕事で疲れてるんだ。おじさんは、アリスちゃんの味方だから……ね」
そういってアリスの髪の毛先に触れる。その感覚に、全身が凍り付く。
「ミダス、こっちに来てくれない?」
伯母の声が遠くから聞こえる。
「はいよー」
ミダスはそう言うと、アリスに優しく笑いかけ、その場を去っていく。
アリスは震える唇を閉じ、気持ちを抑え込んだ。
* * *
一時限目を休んでしまったし、今日はとてもじゃないが学校に行く気分ではない。 アリスはそんな時に、必ず行く場所がある。
家を出て、広い大通りを進んでいくと、広場が現れる。その広場を抜け、小さな街道に入る。両脇には古びた家屋や小さな商店が立ち並び、時折、通り過ぎる人々が目に入る。突き当りにはひときわ目立つ白亜の塔があり、その向こうに見える、小さな教会。
アリスは教会の中へと歩みを進める。
薄暗く、静かな空間が広がっていて、人の気配は全く感じられない。聖堂の壁には美しい絵画が描かれており、その色彩が幽かに輝いている。
この小さな教会の、穏やかな雰囲気がアリスは好きだった。
入口から中央に向かって一列に並んだ木製の椅子に腰かけ、アリスは持参した神学の書物を開く。
(天の国とは、愛と美、平和、慰め、喜び、互いへの思いやりがあり、
本を置き、絵画を見つめる。
「リリスの魂は……苦しんでいるのかな」
アリスは昨日のことを思い出す。
だが、アリスは何の役にも立たない存在だと思い知らされた。
アリスはその場で息を吸い、歌おうと試みる。
口を開けたが、声が出ない。喉にまるで何かが詰まったかのように、ただ空気を吐き出すばかりだ。
「うぇっ……げほっげほっ」
——本当に何もできない。
(……人生に役に立つ特技が、一つでもあれば違ったのかな)
特技、というほどでもないが——
アリスは教会内の広い空間まで移動する。
そして、身体を動かし、頭の中で流れる音楽に合わせて踊る。
その踊りは、空気を切り裂くように激しくなったり、時には静かになったりと、自由自在に変化する。
窓から差し込む光がアリスの身体を照らし出し、アリスの踊りがより一層美しく見える。
この瞬間だけは、完全な自由を感じることができる。
(好きなことですら、全然一番になれないのにな……)
ガタッ——と、教会の扉が鳴る。
アリスは驚いて動きを止める。扉の傍には、二十代前半ぐらいの、眼鏡をかけた温和そうな青年がいる。
黒い祭服を着用しており、そこから見える清潔感あふれる白い襟元が印象的だ。胸には十字架が掲げられている。この教会の神父なのだろう。身長は平均的な男性より少し高めで、痩せ型。耳にかかる長さで切り揃えた赤い髪が陽光に照らされ、燃えるように輝いている。
「あ……ごめんなさい、盗み見るつもりはなかったのですが。あまりにも綺麗で、見とれてしまいました」
「こ、こちらこそすみません! こんなところで踊って……しかも士官学校の生徒が踊りなんて……恥ずかしい」
制服を着て出てきたので、士官学校の生徒であることは一目瞭然である。アリスは頬を赤らめて慌てふためく。
「いえいえ、全然そんなことはないですよ。興奮しました」
(興奮……?)
少し変わった人なのだろうかと思ったが、神父の穏やかな笑顔を見て安心感を覚える。
「……学校には行かないのですか?」
「……なんだか今日は、行く気がおきなくて……」
「そうですか。無理をする必要はありません、休むことも大切ですから。ここでよければ好きなだけゆっくりしていってください。王都にはもっと立派な教会が沢山あるでしょうけどね」
アリスは壁に描かれた美しい絵画を指し示す。
「……好きなんです。ここの教会の、絵が」
光を放つ黄金色の背景、その中心には金髪に空色の瞳をした、美しい人物が描かれている。
「無垢なる原罪、イヴの絵ですね」
「はい……ここの教会のが、今の
アリスはまるで恋するかのような顔で、まじまじと絵画を見つめる。
「猊下と面識があるのですか?」
「えっ? あっ……あ……一年前の、天使降臨祭で見ただけ……ですが」
神父はアリスの顔を不思議そうにのぞき込んだ後、にこりと笑って解説する。
「王家は子どもが生まれると、十日後に天使から名前が贈られます。その中でも、数十年に一度ほど、イヴと名付けられるものが生まれます。イヴは特別な力を与えられ、天使と意思疎通ができるといいますね。その力を持って民に助言をし、王と共にエディリアの平和をお守りになる。天使の寵愛を受ける、エディリアの民の象徴です。こちらは百五十年前の『イヴ』を元に描いたと言われています」
「そうなんですか……」
神父はイヴの上空に描かれている人物を指し示す。
「で、こちらが主の御使いである、天使ですね」
白髪の、美しい姿である。アリスはどことなく、エクスに似ていると思った。
「神父さま~?」
扉から子ども達が顔を出している。教会のすぐ隣にある、孤児院の子たちだ。
「おや、ごめんなさい、今行きますよ。では、ごゆっくり」
そう言って神父は子どもたちの元へと小走りで向かう。
再び一人になったアリスは——椅子に置いていた神学の書を鞄にしまう。
すると、鞄の中に昨日エクスに手渡された『願望目録』を見つける。
(エクスも……何考えてるかわからないけど、私のせいで困ってるんだろうな)
なんとなく手に取り、最後の
——
(鉄槌? 大形のかなづち? 何のことだろう)
何であろうと、アリスには関係のないことである。小型の
すると、背中をとんとん、と誰かに叩かれる。
振り返ると、そこには八歳ぐらいの女の子がいた。先ほど、扉からこちらを見ていた、孤児院の子どもである。
「おねえちゃん、一緒に遊ぼう」
「え?」
そう言うと少女はアリスの腕をぐいぐいとひっぱり、外へ連れ出した。教会の裏で、子どもたちと先ほどの神父が遊んでいる。
「おねえちゃん、一緒に遊んでくれるって」
「おや、いいのですか?」
神父はにこやかな笑顔でアリスを受け入れる。
「え、じゃあ、日が暮れるまで……」
アリスは頼まれたことを断れない。駄目なところなのかもしれないが、必要とされるのは、嬉しい。
「やったー! おねえちゃん、何して遊ぶ?」
「かくれんぼして遊ぼう」
「追いかけっこがいい」
「お尻さわっていい?」
子どもたちが矢継ぎ早に話す。
「お、お尻はやめてほしいな……順番に……」
「ふふふ、大人気ですね」
くちゃくちゃにされるアリスを見て、神父は優しい笑顔を浮かべた。
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