第7話 血塗の天使 Ⅲ
太陽が地平の下に沈む。普段ならば、家に籠る時間だ。
近づく夜の気配に、心がざわつく。気を抜くと、恐怖に支配されてしまいそうである。
アリスは半歩後ろから、エクスの後をついていく。剣術の授業で使う、訓練用の剣を申し訳程度に握り締めながら——
「ねえ……
士官学校に通っているので、アリスはひと通り剣の扱いは習ってはいるが、決して強くない。両親が騎士だった為、
エクスは無言で、何かを探すように淡々と歩く。何処に向かっているかは解らないが、だんだん人通りがなくなっていき、不安が増していく。
「エクス……くんは、
「本物の
「本物?
「人間は違いがわかってないか。
言いかけて、エクスがぴたりと立ち止まる。アリスは止まれず、エクスの背中に顔面をぶつける。
場所は、
前方には——黒い人影がある。
「お出ましのようだな」
黒い人影は、よく見ると、全身が黒い触手で覆われた異形の存在だった。
口だけが大きく、所々骨が剥き出しになっていて——昨夜見た
ただ、昨夜見たものよりも随分小さく、手足に爪のようなものもない。大きさは、アリスと変わらないぐらいだろうか。低い呻き声を上げて、その場に突っ立っている。
「そんなに、大きくないね……?」
恐怖を感じないわけではなかったが、幾分マシである。
「ほっとくと人間を喰ってすぐ大きくなるからな。今のうちにサクッと狩るぞ」
「わっ、私も戦うの?」
とりあえず、訓練用の剣を構えてみる。腰が引けている情けない姿を見てか、エクスが眉を
「
「えっ⁉ じゃあ私、何すればいいの⁉」
「歌え」
「……は?」
「知らねえの? 天使は
たしかに、エディリアにはそんな
百五十年前、史上最強と
まさか。自分がそれと同じことをするなんて——想定していない。そして、それをするにあたり、アリスには重大な欠陥があるのだ。
「——えない」
「ん?」
「私、歌えないの」
「……? 音痴とか気にしなくていいぞ?」
「そういうのじゃなくて……」
言い掛けた瞬間——
背中側が盛り上がり、ブチブチと音を立て、
「——アリス! 来る!」
一瞬のことで、アリスには何が起きたのか分からなかった。ただ、目を開けると、エクスに抱きかかえられるようにして、
「歌えないってどういうことだ?」
「えっと……子どもの頃は歌えたの……双子の妹が、私の歌を聞くのが好きで——妹が死んでから……歌おうとすると、息が詰まって、呼吸ができなくなって……」
声帯や発声に異常はない。医者には心的外傷によるものだと言われている。
「歌えないの」
「……そういうのはもうちょっとはやく教えて欲しいんだが⁉」
再び
「困ったな……祈りがないと天使は本来の力を発揮できない」
「昨日はあんなに強かったじゃない?」
「あれはアリスの前の
「俺達は?」
「クソザコ二人だ」
「ええっ⁉」
翼を打ち、
アリスは悲鳴をあげ、顔を伏せる。エクスは舌打ちし、
バキィ——と、骨が砕けるような音がする。
アリスは恐る恐る顔を上げると、そこには左腕を
ひうっ、と声を上げ、固まるアリス。
「腕……エクス……腕が!」
「……この程度じゃ天使は死なない」
エクスの千切られた左腕から出血はない。ただ、痛みはあるらしく、エクスは歪むような苦しげな表情をしている。
「どう……どうしよう……!」
アリス達から数メートル離れたところで、
「そうだな……とりあえず、奴が俺の腕に気を取られている間に……」
エクスは右腕で脇にアリスを抱えて——
「逃げるぞ」
そう言って、二人は夜の広場を後にした。
* * *
「…………」
命からがら自室に戻ってきた二人は向き合い、地べたに座りながら沈黙する。
驚くことに、エクスの左腕はしばらくすると生えてきた。だが、完全回復はしていないようで、だらりと下がったままである。
「……ごめんなさい」
アリスが声に出す。
「なんで謝んの?」
「私が歌えてたら、こんなことには……」
「んん……俺も先に確認しなかったしなあ」
再び沈黙する。しばらくして、ふう、とエクスは息を吐き、立ち上がる。
「まあ、
「……一人で戦えるの?」
「さあ? 無理だったら俺が死ぬだけだし?」
まるで死ぬことを何とも思っていない、そんな口ぶり。
「おやすみ、アリス」
そう言って、エクスは部屋を出ていく。
アリスは
◇ ◆ ◇
一人は二十代後半ぐらいの男で、王都騎士団の紋章のついた黒い
残りの二人は齢十ぐらいの、首に赤いリボンを巻き、黒猫のような艶やかな髪をした、よく似た男女の子ども。
夜更に、明かりも持たず、子どもを連れ歩くなど、この地ではありえない。
そんなあり得ない状況で——三人は悠々と、歩いている。
「いつまで探すでありますか? 夜の散歩はもう飽きてきたであります!」
女児の方が、退屈そうにしながら文句を言う。
「っていうか夜に女の子を探すっておかしくないですか? 普通の女の子なら夜は外にいないですよ」
男児の方も疲れた顔をし、大きな
「…………」
男は無言で辺りを見回す。ふと目に入ってきたのは、何かの骨にしゃぶりつく
「逃げることないだろう」
甘く
叫び声をあげ、蒸発していく
「なんでありますか、この雑魚野郎は」
「最近多いですよね~
男児は男を見上げて言うが、男の興味はもうそこにはない様子だ。
夜風が吹く。どこからかやってきた、白い花びらが闇を舞う。その花びらを愛おしげに見ながら、男は呟いた。
「どこにいるんだろうな、リリー」
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