ある平日の上野にて

こやま智

本文

 転職を宣言したものの、それで気分がすっきりと晴れたわけではなかった。


 心身ともに限界を迎えつつあった案件も何とか峠を越え、仕事のペースは落ち着きつつある。だが、修羅場の間に落ちた体力と、社内での孤軍奮闘を余儀なくされたときの経営陣への不満は、相変わらず自分の心をささくれ立てていた。

 仕事をお願いする予定の同僚が帰省で休みを取るというので、便乗して自分も休みを取ることにした。月曜と火曜の二日、週末から数えると四連休である。


 平日に理由もなく休みを取るなどしばらくなかったので、前日の夜は少し浮かれていた。特にコロナ禍が終わってからというもの、休日のたびに周辺道路も施設も人であふれていて、週末や祝日に外出しても、少しも自由な気持ちがしなかった。少しは人気の飲食店にも行きたいし、美術館などでのんびりするというのも、久々にやってみたかった。


 だがいざ起きてみると、外はあいにくの雨だった。低気圧の影響もあるのか、気が沈み、思わず起き抜けにPCの電源を入れてしまう。だが、気を取り直して、何とか出かける準備を整えた。PCに向かっていたら、平日の在宅ワークと同じだ。せいぜい合間にホットケーキを焼いてSNSにアップするくらいで日が暮れてしまう。


 すこしだけ身なりを整えて、傘をさして駅に向かう。昨日思い描いていたような春の陽気は微塵もなく、まるで実家のある茨城の平均的な天気のごとく、うすどんよりとした曇り空だ。雨足が強くないのはよかった。

 JRに乗り換え、イヤホンでポッドキャストを聞きながら窓の外を眺める。平日なので、仕事で移動中の人と老人が多い。電車がスピードを上げるとポッドキャストの音声も聞き取りにくくなり、思考はいつの間にか仕事のことに戻る。


 何が良くなかったのだろうか。

 何か互いに改善することで元に戻れるとして、自分にその気持ちがすでにないことを、どう伝えれば理解してもらえるだろうか。

 もっと恋愛でもしていれば、説明のしようがあったのだろうか。

 もしくは、説明などいらないと思えるようになっていただろうか。

 思考が堂々巡りしている。やはり疲れているのだ。


 上野に着くと、このあいにくの天気でも、公園口にはそれなりの人通りがあった。

 傘をさす手がまだ少し冷たく感じられる。早足で美術館に向かおうと思ったが、ふと、動物園のほうはどうだろう、と考えてしまった。

 上野動物園で一人で休日を過ごすのは、実はけっこう慣れている。トラが目の前を通りかかるのを待ったり、猿山のサルを眺めたりするのは結構好きだ。

 カメラを持ってきているときは、彼らの目にフォーカスを当てながら、心の中で話しかけたりもする。目をしっかりと見ることで、何がしかの答えを受け取ったような気持ちになることもある。だが休日は混んでいるので、彼らもあまり自分のような独身男性と長い時間目を合わせてはくれない。混んでいなくても合わせてくれないかもしれないが。

 それよりも気になっているのが、パンダだ。

 休日はあまりにも混み過ぎているので、ほとんど見ることがない。今日のような日なら、もしかするとじっくり見られるのでないだろうか。

 念のため美術館の展示内容も確認する。何度か見たことのある有名画家の特別展示だ。絵に癒されることもあるが、今日の疲労度では楽しめない気がする。そう考えてしまったら、もう動物園にしか興味が向かなくなっていた。


 チケットを買って、すぐ右隣り。そこにパンダの展示がある。

 もう春休みなのだろうか、子供連れも結構いる。それでも、休日の状況と比べたら、はるかに列は短い。あっという間にパンダ舎の中に案内された。

 よくわからない電柱のような柱に寄りかかって、パンダが座っている。

 ひとしきりスマホで写真に収めていると、手持ちの笹をしゃぶりつくしたパンダと不意に目が合った。


「笹くれ」

 そう言ってるように見えた。

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