aa.

.Noname

ハゼ特集

 俺がそれを観測したのは水曜日の夜である。

 俺はこれと云った趣味も特技ない人間だった。いや、観測した後も変わらず平々凡々な――それ以下かもしれないが――生活をしている。

 しかし、想い出が出来たのだ。思い出なんかとは違う。毎日のように友人と日が暮れるまで遊び、その言葉を覚えた小学二年生の某日から、昨日の鬼ごっこは思い出だった、一昨日のドッヂも思い出だった。そう嬉しそうに話した、あれらの比にはならない。「あの日起きた事はこれからの人生で、一刹那とも忘れる事はない」、と恥ずかしさなく語れるだろう。

 当夜の彼女にもそう言えるだろうか。言える、言えるからここに備忘録を残しておく。

 さて、最初から指示語だらけの語り口で退屈に感じたと思う。水曜日の夜、何が起こったのかゆっくり話そう。

 情報量と秘密が多いのでゆっくりと話すしかないのだ。だが、それらがこの記憶を想い出たらしめていると云う事が伝わればいいな、と思う。


 あの日、月は爆ぜた。 今考えれば随分と月とは無縁な生活だったな、と思う。月の満ち欠けで一ヶ月を計測した事なんてないので、三日月が夕暮れ時に見えるなんて知識はなかった。スマホばかり見ているので夜空ですら見ず、中秋の名月に団子を備えた事は一度もなかった。

 『ハゼサン、ジュウデンガカンリョウシマシタ』

 AI音声認識サービス。使い始めの感動はもうなく、充電完了の度にお礼をしていた頃が懐かしい。

 通知、SNSのインプレッション数、今月使用したSIMの確認は毎時間のルーティーンだ。120%まで充電できるよう改造して良かった、と思う。

 

 アルベロベッロを俗化したデザインの低層マンションの自宅は寒く、アノラックの内側を震え上がらせた。

 バルコニーから白浜を見下す。白い息は逆行する。隣の部屋も、そのまた隣の部屋も静かだ。

 息をふー、と一気に吐いてみる。水中のインクの様に幾重にも重なった線が失速し、解れていき、面白い。煙草なんか蒸さなくても冬の空は格好良い。


 そう回想を巡らせるが、波の音を聞きながら俺はスマホをいじるのである。

 麻のハイスツールも用意したが、今は要らない。目が少し疲れたら波がどこから生まれるのか観察すれば良いからだ。観察眼は浜辺から沖合まで追い掛け、いずれ水平線の先を凝視する。 SNSの呟きを更新させ続ける。それだけの事。指は黄金長方形の比率で前後上下に動く。

 そんな時だった。


 月が爆ぜた。


 月が爆ぜたのだ。黄金色の破片が一つずつ剥がれていく様に崩れる。

 悠然と光っていたはずの月は、活性を失い、銀河系の暗闇に消えていった。

 俺が頭上に掲げているのはスマホだった。白い円の中に四角い赤。気が付くと俺は、一心不乱に、その壮大な遠景をレンズに焼き付けていた。

 そして、SNSに投稿するまでがセットである。




 投稿してから十分は確実に経ったが、未だに何のリアクションもない。インプレッション数は自分のタイムラインに表示された数であろう"1"で、何度更新しても現実を突き付けてくるばかりである。

 午後九時、冬至を過ぎたのに、日はかなり沈んでいる。

 外へ出よう。外に出て、恥ずかし気もなく、「さっき、月が爆ぜましたよね?」、と聞き回ろう。

 俺は居ても立っても居られない心操を抑えきれなかった。

 空は太陽を丸呑みし、膨らんだ腹から破裂して出てきた月は囁き、さざ波はその声に寄る。

 だから「よる」、と云う。誰かが言っていた。

 話し手を失った揺蕩う聞き手は、完全に静かになっていた。俺は根っからの文系人間なので、月の引力と潮の干満の関係については詳しくない。

 しかしどうやら、月が爆ぜて消えると、海は波の立たない、大きな水溜りになるらしい。


 俺は近所に住む、一人の友人に電話を掛けた。同じ大学で物理学――力学と言っていたかもしれない――を専攻する看田と云う友人だ。科目は全く違うが、家が近所だと云う事で、サークルの新歓以来、仲良くやっている。

 看田は直ぐに電話に出た。

 「よお看田。今、大丈夫か?飯と風呂の次に緊急で話したいんだ。早速で申し訳ないんだが、看田、今日の月に何か異変は起きてなかったか?」

 「月?そんな注意深く見てないけど…。なぞなぞとかじゃないよな?」

 電話の受け手の背後からはカチャカチャと物が触れ合う音が聞こえる。皿洗いだろうか?

 「いや、月が爆ぜたのを見たから。この現象について意見を聞きたくって仕様がないんだ。後で写真を送る。あと、一つ物理の質問をさせてくれ。月が無くなると、潮の満ち引きも無くなるのかい?…いや、馬鹿な質問をした。そんな訳がない。月が見えない昼間でも波は水平線から離れていく」

 「いや、そう云う理屈じゃないんだ」

 看田の訂正が入った。

 「月が見えなくなるのと、無くなるのは全く別だ。例えば月が君の裏側、真反対の地点の空に浮かんでいたとしたら、君の頭上に月がある時と同じ位海面に作用するんだ。丁度、付き合いの長い友を分類してみると、自分と似ている奴か、自分と真逆な個性の奴に二極化される様にね。で、月が無くなった場合。潮の満ち引きは太陽の引力の影響を受ける。働く力は月が存在していた時の半分以下になるけどね」

 「じゃあ、完全に波が無くなる事は無いって事か…」

 目の前の海は星々の光を純粋に反射するばかりだった。海の趣は失われていた。

「お前の家から海は見えるか?見えないなら直ぐに来てくれ、俺の家の前の海岸に。波は完全に止まったんだ」

 「分かった。手が空いたらダッシュでそっちに向かおう」

 「手が空いたら、っていつだ?」

 「がっつくなよ。今、窓からニシキアナゴが覗いているんだ。後で写真を送ろう」

 彼からの電話はそれっきりだった。

 誰もいない奥崎海岸。沿う国道にも車の気配がない。無人の世界を歩いて思った。

 看田もいないんじゃないか、と。

 SNSのインプレッション数が未だ0だった事が証拠だ。 十分ほど経ったが、看田は来ない。連絡も着かない。しかし、それに納得している自分がいた。

 確か、それ位のタイミングだったと思う。暇すぎて砂浜を歩き回っていた時だったから。

 視界に突然、見知らぬ女性が現れたのだ。読み込みの遅れたストリートビューの様に、目の前の風景の中に、突如として、白いワンピースの女性が現れたのだ。

 気温5℃の冬空の下、その姿はとても寒々しかった。幽霊の様な雰囲気を放っていた。

 更に近付くと、その女性は震えている事が分かった。見れば、スニーカーを履いたまま、足は海水に浸っていた。

 放って置く訳にはいかないので更に近付くいてみると、彼女は、肩を震わせてすすり泣いていた。

 「すいません。大丈夫…ですか?」

 耐えきれなくなり、声を掛けた。

 「ハゼを…殺してしまったんです…」

 俺は喉の真ん中で、声にならない悲鳴をあげた。幽霊は俺の方だったのか!

 しかし、そう云う事ではなかった。月が爆ぜてから、俺のいる世界は随分可怪しくなってしまったが、他人が自分の名を知っている程不条理ではなかった。

 彼女の足元には茶色く不格好な魚が横たわっていた。真鯊マハゼだった。

 「…初めて生き物を殺しました。一縷の希望を求めて海水を掛け続けていたにですが、ずっとこんな工合で…」

 「落ち着いて下さい。生物は皆、他の生物を殺さずしては生きられないと思います。俺だって鬱陶しいと思ったら蚊を叩くし、その真鯊だって海底でゴカイを食んでいたところを、浜まで流されたのかもしれない。初対面の奴が言うセリフじゃぁないけど、あなたが泣く必要は無いんです」

 それでも彼女は手で顔を覆って泣き続け、塞ぎ込んだ体勢のままだった。

 俺は傍に落ちていた、一等大きなタカラガイを、優美な真鯊の屍骸の胸鰭に抱かせた。そして彼――彼女かもしれないが、凛々しい瞳をしていたので、勝手に"彼"と云う事にさせてもらった――の鱗を傷付けないよう、丁寧に海へ沈めてやった。

 その場でゆっくりと沈んでいった。

 彼女はまだ泣いていた。 涙は見た事無い程大粒で、足元の海の水位は徐々に上がっていた。

 このままでは俺にとっても迷惑なので、偶々持っていたハンカチを手渡した。彼女は静かに受け取り、再び言葉を紡ぎ始めた。

 「山猫…、私の名前は山猫と云います。その、とても親切丁寧に、していただいて、ありがとう、ございます。えと、あなたの名前を、お伺いしても…?」

 「ええ、良いですよ。俺の名前は、えっと、看田って云います」

 咄嗟に偽名が口を突付いた。鯊を殺して罪悪感を覚えている人に向かって、同音異義の本名は名乗れなかった。

 「カンダさん…。あの、亡くなってしまった、魚は、どうされましたか?」

 「彼の家族と会えるよう、祈って海に還しました。すいません、一言掛けてからそうした方が良かったですね」

 山猫さんの瞳が水を湛えるまでは一瞬だった。彼女は哭いた。一体小さな体のどこからこれ程のエネルギーを発散しているのか、想像の付かない大声だった。俺は大きさに騙されて、ハンドベルを思い切り振ってしまった事を思い出した。

 「あの魚は、私が、唐揚げにして、食べようと、思っていました。殺してしまったからには、私が…!」

 山猫さんの涙はいつの間にか雪になっていた。それらが水中に溢れ落ち、海底に砂煙を起こす。そして雪の涙も雪解け水のように濁った轟流を生み出すので、浅瀬の色は全く変わってしまった。 水位は見る間に腰の高さまで到達したので、俺は山猫さんの手を引き、国道に出る三段の階段を登った。

 ズボンが吸った水はいつもより重かった。滴り続ける濁水を迷惑がる通行人はいなかった。

 「鯊も人間も自動車もないんだ」

 俺は理解した。同時に無くなった物をもう一つ思い出した。月、だ。

 幸い、スマホはアノラックの内ポケットに入っていたので無事だった。俺は画面を山猫さんに見せる。

 「見て下さい。不幸自慢と云う訳では無いんですが、俺はもっと沢山の生物を殺して、います」

 指を上下に動かし、更新する度に、フォロワー数やフォロー数、過去の投稿のインプレッション数が減っていく。

 指を横に動かし、タイムラインを開き、更新。こちらもやはり同様だった。

 「どうして、それを、私に…?」

 「諦めが付いたからです。覚悟とか眼差しとかじゃぁない。もう結果は出来ていて、俺はその結果までの経過を更新することで観察するしかできないって諦めが…!……これをあなたに見せたのは、泣き止んで欲しかったからです」

 水位の上昇は止まり、今まで見た事のない大きさの水溜りがあった。

 雪が降りそうで降らない寒さが、濡れたズボンを凍えさせた。 そう云う訳で、私は自室で着替え、あまりにも刺激的な一夜を回想していたのである。

 山猫さんがあの後、どこに帰ったのかは知らない。この世界が俺達二人だけだったら、また会えるかもしれないし、俺が本名を伝えられなかったが故に、二度と会えないかもしれない。

 孤独で、死んだまま生きている様な世界で、今俺が考えているのは、誰もいない八百屋から食糧を盗んだとして、罪に問われるか、と云う事だ。

 とはいえ、俺はすぐに消える様な気がする。山猫さんに会って感じた。少なくとも俺は彼女より先にこの世界に別れを告げるな、と。きっとこの世界の主人公は彼女だ。

 俺はいつ消えるのだろう?月の様に、急に爆ぜて消えたりして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

aa. .Noname @kankei714

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る