第6話 香り、邪悪なる一家、詫びたこ焼き
(桜の香り……?)
目を覚ましたばかりの穂花、その模糊とした意識を満たしたのは優しく癒される香りだった。
桜の木々や花々のものではない。
穂花がもたれかかっている少女のものだった。それを穂花が認識できたのは、寝ぼけ眼のまま理乃の肩へと鼻を押し当て、くんくんと匂いを堪能した直後のことだ。
「っ!? ご、ごめんなさい、月ヶ瀬さん」
慌てて離れる穂花。危うくベンチから転げ落ちそうになる。
既に空の色は昼下がりの青から夕の色へと移り変わっていた。おおよそ3時間、穂花は自然公園内のベンチ、理乃の隣で眠り込んでいたのだった。
「謝らなくていいわ。子犬みたいで可愛かった」
「か、からかわないで。えっと、どうして私、月ヶ瀬さんの肩を借りて眠っていたの? もしかしてさっきのは全部、夢……じゃないんだね」
穂花は理乃の隣からひょこっと顔をのぞかせた霊狐と目が合って、先の怪物との戦いが現実であったのを認めざるを得なかった。
「そうね、たしかに様式美に沿うなら肩を貸すよりも膝枕かもとは思ったわ」
「え?」
「でもね、実際にやってみたらわりと重いし、寝がえりを打つたびにくすぐったいし、周りの目もあってすぐにやめたの」
淡々とそう話す理乃に、穂花は閉口した。
「理乃、何を言っていますの。穂花が聞きたいのは寝かせ方の話じゃありませんわよ」
「知っている」
「貴女ねぇ……! それより、穂花。調子はどうですの? どこか痛むところは?」
「あ、うん。大丈夫そうです。月ヶ瀬さんや霊狐さんのほうこそ、お怪我はないですか」
「幸い、怪我はないわ。ただ、全身筋肉痛コースよ」
「それで済んだのを喜ばしく思うべきですわよ。穂花がブレイド・リリーに覚醒していなければ今頃は……」
皆まで言うことのない霊狐だった。
もしあのとき、あのままアビサル・クレセント一人で戦い続けていたら。そう考えると穂花はぞっとした。守ることができて本当に良かったと心から思った。
「悔しいけど、シロの言うとおりね。風見さん、ありがとう。命の恩人だわ」
「そ、そんな大げさな」
「それとあの赤い宝石みたいな髪、綺麗だったわ。今の黒髪もだけどね」
理乃から真顔で褒められて照れる穂花だったが、霊狐がわざとらしい咳払いをして二人の注意を引く。
「穂花、聞きたいことがいくつもありますわよね? わたくしが答えて差し上げますわ」
「じゃあ、さっそく。二人とも、クレープは好き?」
「くれーぷ?」
テイクアウトしたクレープ。それが入った紙製の箱はまだ霊狐のそばに置かれたままだった。
「せっかくだから食べちゃおうかなって。変身して動いたせいか、すごくお腹空いちゃっているみたい。たしか持ち帰り用に3つ買ったから、みんなで食べようよ。巫女や影の話はそれからじゃダメかな」
「存外、落ち着いているのね、風見さん。その胆力は見習いたいわ」
月ヶ瀬さんのほうこそ十二分に落ち着いている、と穂花は喉元まで出かかった。
「けれど残念なお知らせがあるの」
「残念なお知らせ? あっ、戦っている途中でぐちゃぐちゃになったかな……?」
「いいえ、シロのおかげでほとんど崩れていなかったわ。それにどれも美味しかったわ」
「へっ?」
ひょいっと理乃が箱を取って、ぱかりと中を開いて穂花に見せる。
空っぽだ。
「1時間は我慢したの、本当よ。それから考え方を変えたの。いつまた影が襲ってくるかわからない以上、体力は回復しておくべきだって。だからまず一つ食べたの。おそらくミックスベリーカスタードね、あの甘酸っぱさは。少し時間が経って、風見さんはまだ起きなかった。それでね、衰弱している相手に口移しで薬を飲ませたり無理にでも栄養を補給したりするのを、映画か何かで見たのを思い出した」
「ええっ!? う、嘘だよね!!?」
穂花は咄嗟に口を覆って顔を赤らめる。
「安心して。思い出しただけよ」
「……わたくしが止めましたわ」
「そんなわけでいつの間にか2つ目、そして3つ目もぺろりと食べてしまっていたの」
「どんなわけですの!? いいかげん、謝りなさいな、理乃。貴女はあろうことか、穂花が眠っている間に無断でぱくぱくと全部たいらげてしまったのですわ!」
「証拠を隠滅しようとすればできたわ。でもそれは誠実さに欠けると思ってやめたのよ」
「誠実が意味するところは、この百年で変わりましたの……?」
「はは……。月ヶ瀬さんが満足してくれたならよかったかな、うん」
「穂花、怒っていいですのよ? この子はどうも浮世離れしていますの。悪い意味で。このなりですから許されているだけで、いつか罰を受けるに違いありませんわ」
「ええ。たとえば、命懸けの戦いに巻き込まれたり、ね」
つんとした調子で理乃が言い、立ち上がる。霊狐が「どこへ行きますの」と問うと「お花を摘みに」と言い残し、さっさと離れて行く理乃だった。
「気を取り直しまして。穂花、別の質問をしてくださいまし」
「わかりました。ええと……私はまた近いうちに、ああいった戦いをしないといけないんでしょうか」
理乃がいなくなったことで、側から見ればベンチに一人だけの穂花は小声で霊狐に尋ねた。
「そうですわ。奴ら、ケガレーロ一家を今度こそ完全にこの明守の土地から消滅させるその日までは」
「ケガレーロ一家? それがあの影を操っている人たちの正体なんですか」
思いのほかファンシーで安直なネーミングをしている敵に肩透かしを食らう穂花だった。
「正確には、人ならざる者たちですわ。二百年前ほどに彼方より来訪して
明守市の北部にそびえる常影山の名は、生まれてからずっと明守市に暮らしている人間なら誰もが聞いたことがある。穂花もそうだ。しかし誰もその山には近づかないし、どんな山なのかよく知らない。
知るべきではない山。
生者が足を踏み入れてはならぬ常世の山にして、影が住み着く領域。
「やがて一家は人里に下りてきて悪さをするようになりましたわ。だから一家丸ごと封印されましたの。ですが、時と共に封印の力が弱まり、どうも一家の誰かが最近になって解放されてしまったみたいですの」
「封印って、誰にどうやって」
「もちろん、我が主様たる明守の土地神様ですわ。巫術を極めた人の手でも抑えられなかった、わたくしの白魔の力を封じ込めたのも主様ですの。……そっちはまたおいおい話すとして、ケガレーロ一家のことですわ」
妖しき影の使役。
今はまだその程度であるが、もし仮に次々に一家の封印が弱まっていき、全員が現世に復活すればこの明守の土地は存亡の危機を迎えるという。
「土地神様がその一家をもう一度封印することはできないんですか?」
「答えは肯定であり否定ですわ。込み入った事情がありますの。言えるのは、人の生気を奪う奴らに対抗できるのは貴女たち、討影の巫女しかいないということですわ。そのための術具も得ましたわよね?」
「カクリヨデバイス――」
穂花がそう呟くと、ほわっと淡い光とともに穂花の手に飾り気のないスマートフォン、いや、カクリヨデバイスが出現した。
「まだその術具は発展途上ですわ。秘められた機能がいくつもあるそうですの。それらを解放していくのが術者である貴女たちが、影との戦いを有利にする手立てですわね。くれぐれも他言無用ですわよ?」
「普通、信じないですよ。町を守る変身ヒーローになりました、なんて」
実感も湧いていない。穂花は彼女自身の手のひらを見る。
(この手に、光る剣を握り締めて、怪物と化した桜の大樹の邪気を斬り払った。そんなのまだ信じられない。修司叔父さんが見せてくれた拡張現実上のキリンよりもずっとずっと、幻みたいな話だ)
「ところで、あの広場にそのケガレーロ一家の人もいたんですか」
「結界を張る直前まではそれらしい気配がありましたわ。隠れて事の成り行きを見ていたのですわね。影を使って人間たちから生気を集めていき、一家の皆を封印から解き放とうとしているに違いないですわ」
「巫女が影を倒しちゃうのを直接止めに来ないのは……」
「返り討ちにあうのを恐れているのですわ。一家の中でも、良く言えば慎重、悪く言うなら臆病な性格の誰かですわね」
あたかもケガレーロ一家に関してよく知っている口ぶりの霊狐であったが、実は一家の誰かと対面したことは過去にも現代においても一度もない。
あくまで、主である土地神から共有されている情報に基づいて話しているのだった。
その後、穂花が霊狐から討影の巫女としての務めや今後の方針を聞いていると、理乃が帰ってきた。ベンチを去ってから30分近くも過ぎていた。
「遅かったですわね、どこまで行っていましたの。手にぶら下げているそれは?」
「たこ焼き。クレープを勝手に食べたお詫びにと思って。スタードーナツもイチゴメロンパンも売っていなかったわ。これでどうか手打ちにして」
理乃がたこ焼きの入ったビニール袋を穂花に渡す。
「あと、これも」
そう言った理乃がスカートのポケットから取り出したのはヘアゴムだった。
「それって私の……?」
「変身前後で髪型が変わっても、変身を解除したらもとどおりになる。それがお約束ってものだけれど、どうも今回はそうでなかったようね」
広場まで戻り、落ちていたのを見つけて拾ってきたのだという。
(なんてことない安物なのに、わざわざ探してきてくれたんだ)
理乃からヘアゴムを渡された穂花は慣れた手つきで髪をきゅっと束ねる。
「やっぱりよく似合っているわ。さて、と。いっしょに食べながらおしゃべりしたい気持ちもあるけれど、暗くなる前に帰ることにするわ。連絡先を交換してくれる?」
「う、うん。えっと、月ヶ瀬さんは来週からの新学期って――」
一年生の時と同様、テスト日以外は登校してこないのか。それとも二年生からは他の大多数と同じく通うのか。
理乃はなかなか返事をしない。
「風の向くまま気の向くままよ」
連絡先を交換し終えてから、理乃はそう言った。穂花がなんとも言えない気持ち、そして実際に何も言えずにいると、彼女は霊狐を連れて去っていくのだった。
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