第4話 深海の三日月、守りたいもの、変身
霊狐に導かれ、理乃と共に辿り着いた広場。そこで穂花は異様な光景に出くわし、ぞくりと悪寒に襲われた。
(なに、あれ……。黒くてもやもやとした……影?)
花見に興じている人々の周囲を、妖しい影が動き回っているのだ。形なき異形、白昼の陽光に照らされてなお常闇の靄。
穂花の視界にざっと十数体。今この場でそれらに気づいているのは穂花たちだけだ。
人々は明るく笑い合い、歓談を続けている。影たちはそうした人々と重なり合っては離れてを繰り返しているのだった。
「シロ、今ならまだ間に合う?」
「残念ながら手遅れですわね。あの桜の樹の下を見なさい」
溜息交じりの理乃に、霊狐が身振りで指し示したのは広場の中央にある桜の大樹だ。広場を囲むように植えられているどの桜よりも大ぶりで立派だった。樹齢が数百年に及ぶのではないかという見事な一本桜。
「いますわ、ひときわ濃い奴が。色がってことじゃないですわよ。邪気が、ですわ」
霊狐がそう言った直後、大樹の下にいる影へと広場中の影が吸い寄せられるようにして集まっていく。そうして集まって一つの大きな影をなした邪気は球状に膨張し、音も無くはじけた。無残にも散り散りになったかと思いきや、黒い粒子たちはその身を再構成し、不安定な靄のような姿から、大蛇となった。
それは実体だ。広場にいた人々がざわめき出す。長閑な時間、笑い声、活気は失せ、代わりに恐怖が漂い始めた。
「顕現しましたわね。しかも不味いことに、今回の依り代はあの桜みたいですわ」
大蛇が桜の大樹へ巻き付き、そしてその幹や枝葉に溶けるようにして沈み込む。
邪気に侵され、穢された大樹が一体の怪物と化す。
誰かの甲高い悲鳴を合図に、恐怖が瞬く間に広場を満たした。
我先にと逃げ始める人たち。
そんな中、穂花は夢見心地で理乃の隣に突っ立っていた。
「理乃、心してかかりなさいな。あれほどの大樹、かなりの霊力ですわよ」
「その霊力とやらで、影たちに抵抗してくれればいいのに。そういうふうにはできていないのね?」
「以前に話したとおりですわ。さて、穂花………穂花? 穂花っ!」
「は、はいっ」
「しっかりなさいな。貴女には素質がありますわ。ですが、今すぐに巫女として変身できるかは別ですの。今日のところは理乃の戦いぶりを見ておくといいですわ」
「わかりました。でも……月ヶ瀬さんは、怖くないの? あんなのと、戦うだなんて」
穂花の言葉に理乃は何も返さなかった。
そして、どこからともなくスマートフォンを取り出すと、それを胸の前に掲げた。
(よく見たらスマホじゃない……?)
目を凝らす穂花にかまわず、理乃は何か唱え始める。
「カクリヨデバイス起動、退魔プログラム実行。――ドレスアップ!」
きらりと光り輝く粒子が舞い散り、白い霧が理乃を包み込む。
(巫女なのにドレスアップなんだ。というか、意外とハイテクっぽい?)
内心、変身口上についツッコミを入れてしまう穂花だったが、理乃をほんの数秒隠していた白い霧が晴れ、そこに立つ彼女の姿を目にした時、思わず息を呑んだ。
髪色はアッシュブラウンからプラチナブロンドへと変わり、編み込みのある長めのサイドテールへと髪型も変化していた。その顔もいっそう美しくメイクアップされている。
紺のブレザーから一転、理乃が纏っているのは、空の色とも海の色とも呼べるような澄んだブルーを基調としたミディ丈のワンピースドレスだ。黄金色の三日月や星、それから紫の魚影の刺繍が上品にあしらわれている。
その両腕には前腕部分を覆う指穴つきの白いアームカバーをはめており、足はというと、タイツからロークルーソックスへと切り替わり、つま先が尖っているパンプスを履いているのだった。
「深き海の底へと光をもたらす、神秘の三日月――アビサル・クレセント」
クールに名乗りを上げる。
穂花は理乃がもはや自分の知っている巫女と遠くかけ離れた格好であるのを意識することはなかった。変身を遂げた少女にただただ目を奪われていた。
ゆえに、急接近してきた大樹の怪物に気づかなかった。
すると理乃、いや、クレセントが穂花を庇うようにして前に立ち、怪物の体当たりを彼女の二本の細腕で受け止める。そしてようやく、穂花は「わっ!?」と声を上げたのだった。
「くっ……! シロ、風見さんと安全なところにいなさいよ!」
「了解ですわ」
霊狐と穂花が怪物と再び距離をとったのを確認すると、クレセントは力を込めて、「はぁっ!」と怪物を押し返しその巨体の体勢を崩す。そして軽やかに跳躍すると怪物に向かって飛び蹴りを繰り出す。その一撃を受けて、怪物は吹っ飛ばされた。
(す、すごい! って、あれ?)
豪快な格闘術に感心した穂花だったが、理乃が着地に失敗して尻餅をつき、その綺麗な顔に苦悶が一瞬浮かんだのを目にした。
「クレセントはまだ、巫女の力に慣れていないのですわ」
穂花の隣で、霊狐がしれっと言う。
「なにせ、先月に討影の巫女になったばかりですもの。しかたありませんわね」
「そんな最近のことなの!?」
「ええ。でも本人曰く、これまでに変身ひろいんなる者たちの物語を数多く視聴し、その精神と振る舞いを学んだそうですの」
「そ、そうなんだ」
穂花は先ほどに理乃が引き合いに出した、日曜朝のアニメ番組を思い出した。察するに彼女はそうしたものに詳しいのだろう。
広場から他の人たちがいなくなり、霊狐たちが見守る中、クレセントは大樹の怪物と戦い続ける。
黒く染まった桜の花弁がクレセントめがけて刃物のように飛んでくる。太い枝が伸びてクレセントを捕えようとする。その巨体が何度もクレセントを押しつぶそうと迫る。
(怖くて見ていられないよ……!)
クレセントは劣勢だった。
彼女の繰り出した攻撃が怪物に当たり、一時倒れても敵はまた平気で立ち上がってくる。耐久力の高い、タフな相手だ。
一方でクレセントは、間一髪で直撃を避け続けているが、このままでは急所にあたるのも時間の問題だった。
「助けを呼べないの? 他の巫女とか」
「おりませんわ。それに非力で無力な人間もこの場に入ってこないようにしましたわ」
「えっ? それってどういう……」
「結界をはりましたの。厳密にはもっと複雑な術式ですが、主様からわたくしに与えられている能力ですわ。つまり、逃げた人たちが助けを呼んで、ここへと帰ってくることはありませんの」
「ぬしさま? ううん、そんなことより、それじゃ月ヶ瀬さんは……!」
一人で戦い抜かないといけない。
もし負けてしまったら? それは剣道の試合で敗北するのとはわけが違うのだと穂花は理解し、戦慄した。
「今はクレセントですわ。あの子が言うには、変身中に真名を口にするのはご法度らしいですわよ。……しかし、まいりましたわね。表情に余裕がなくなっていますし」
「霊狐さんは助けてあげられないの?」
「そんな顔をしないでくださいまし。わたくしだって白魔の力を取り戻せば、あんなの容易く凍てつかせられますわ。ですが、今はせいぜいが囮になるぐらいですわね」
「そうだ、武器は? パンチもキックもあまり効いていないみたいだし、なにか武器があれば……」
「もっともな意見ですわ。けれども、まだその機能は解放されていないのですわ。それに、あの子が言うには武器に頼るのは美学に反するだとか」
何についての、何のための美学かはちっともわからないが、どうにかして突破口を開かねばならない。そんな不安とやきもきに駆られる穂花は、必死でクレセントの動きを目で追っていた。並の人間の身体能力を遥かに超えた動きを追いかけるのは簡単ではない。
とうとうクレセントに大樹の怪物の鞭状に振られた枝がクリーンヒットする。勢いよく吹き飛ばされたクレセントが、腹部を手で押さえながら呻き、なんとか立ち上がろうとしたそのとき、地中から妖しい根が這い出てきて、彼女に絡みつき、動きを封じた。
そうやって動きを止められた時になって、穂花は戦いに身を投じたクレセントの顔をしっかりと見ることができた。そしてクレセントの身体、そのドレスが負っているダメージがわかった。
「穂花、どこかに隠れていなさい! わたくしが怪物の気を引いて、クレセントが脱出する時間を――」
「嫌だよ……」
「なんですって?」
クレセントのもとへと駆け出そうと霊狐の足が止まる。
「嫌だよ…………月ヶ瀬さんが、あんなに綺麗な人が、桜が、公園が、みんなが穢されていくなんて、嫌だ」
これでもかと握り締めている両の拳。わなわなと震えた声で、俯き気味に穂花は言う。だが、言い終えた時、彼女は再び顔を上げ、絶体絶命のピンチにあるクレセントを直視し、そしてそこへ這い寄る怪物を見据えた。
その瞳に非日常を映し出し、信じることを選んだ。
「怖いよ、逃げ出したいよ。でも……私にできることがあるなら! 守れるんだったら! 守りたいっ! 私が守るんだぁあああ!」
穂花が駆け出す。
一人の少女が、守りたいものを守るために無謀にも動いた。
その勇気に明守の土地は応えてくれる。
少女に力を授けた。
穂花の右手が眩く光った。そうして手中に収められたのは例のスマートフォンらしき物体。使い方は知っている。理乃がクレセントに変身するのを見聞きしたからではない、たった今、巫女に選ばれ、力を手にして瞬時に悟ったのだ。
立ち止まりはしない。
走りながら、穂花は唱える。クレセントを救うため、穢れた影を討つため、すべてを守るため。
「カクリヨデバイス起動、退魔プログラム実行。――ドレスアップっ!」
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