第3話 瞼の裏、ニチアサ、桜色

「想像って、いったい何を」


 穂花は目を閉じることなしにそう返した。いくら同じ中学校の生徒でも、というよりそれぐらいしか素性がわかっていないからこそ、いきなりの要求には従えなかった。


(目を閉じて、想像して? うーん……どうにも胡散臭いなぁ)


 適当な理由を作ってその場から離れるべきだ。そう思った穂花だったが、その手の上にはまだ少女の手が置かれたままだ。

 押さえ込むような手つきではなく、振り払ってしまうのを躊躇う優しい触れ方。今一度、間近でその少女の顔を見た穂花は、相手の整った目鼻や、どこか色気のある口許にどぎまぎとしてしまう。


「あの……」

「いいから。お願い」


 そんな囁き声と共に、少女が左手で穂花の両目を覆った。抵抗する間も与えられず、自然と瞼を閉じる穂花に、少女が穏やかな調子で続ける。


「見えないものを見るには、闇に一度慣れておいたほうがいいの。さぁ、思い出して。あなたがさっき見たはずの狐のこと。人の言葉を話す白い狐を」

「なんでそのことを」


 戸惑う穂花に構わず少女は囁き続ける。


「あなたの名前は?」

「……穂花。風見穂花、です」

「風見さん、あなたなら見える。きっと、見えるわ」


 そう言うあなたの名前は、と穂花が少女に尋ねる隙は与えられなかった。


 惑いの中、穂花はあの白い狐を思い描き始めた。それは少女の声によって思い返すことがなければ、晩には輪郭を失い、翌朝にはするりと抜け落ち、二度と取り戻せなかったに違いない。そんな霞めいた記憶を繋ぎ止め、手繰り寄せ、瞼の裏に再現する。


 すっと、少女が穂花の目を覆っていた手をよけた。同時に、膝の上の手に重ねられていた手も離れる。


「隣を見て、風見さん。目と耳、いいえ、心を研ぎ澄ますの」


 いささか大仰で怪しげな物言い。

 だというのに穂花は小さく頷き、目をゆっくりと開いて隣へと顔を向けた。

 

 果たしてそこにあの白い狐がいた。

 今度は叫び声を上げることなしに、その毛並みの白さに半ば見惚れる穂花。けれどいつまでもそうしているわけにはいかない。


「この子は……ううん、あなたたちは何者なの?」


 狐と少女を交互に見やって、穂花が問いかけた。


「やりましたわね、理乃りの。お手柄ですわ」

「私のためよ。風見さんには悪いけれど」


 穂花をよそに、一人と一匹は会話する。

 狐から理乃と呼ばれた少女がついさっき発していた独り言、それから空のベンチに注いでいた視線は、実はこの狐へのものだったと穂花はわかった。そこまでは理解したが、その先は全然だ。


「理乃もそこにおかけなさい。自己紹介が必要でしょう。むしろ最初にそれがあって、順を追って説明した上で……」

「お小言はなし。それに縁が切れる前に事を起こすべきと言ったのはシロよ。風見さん、隣に座っていい?」

「は、はい。どうぞ」


 ベンチの上、穂花はわずかに狐のほうへと身を移し、その隣に理乃が腰掛ける。挟まれた穂花はとりあえず、自分と同じ人間だと思しき理乃を見たが、当の彼女は「シロ、頼んだわ」と口にすると桜の木々を眺め始めるのだった。しかたなしに穂花は狐から事情をうかがうことにする。


「そう緊張しないでよくってよ。わたくしの声はちゃんと聞こえるかしら? そう、それならいいの。口下手な理乃に代わって、わたくしが事のいきさつを教えてあげますわ」

「よ、よろしくお願いします」

「まず、わたくしは白魔はくま霊狐れいこですわ」

「白魔の霊狐……?」

「ええ、高貴にして光輝なる白雪を司る霊獣ですわ。本来、そこにいる小娘風情がシロと気安く呼んでいい存在ではありませんの。貴女は霊狐様とでもお呼びになりなさいな」

「はぁ」


 レイコなら、隣のクラスの女の子でそういう名前の子がいたような。そんなことを穂花は思ったがわざわざ口には出さなかった。


「わたくしは訳あって、かれこれ三百年近く、この明守に縛られていますの。あら、勘違いしないでくださいまし。邪悪な物の怪ではありませんわ。その証拠に今はこの土地を守るために動いているのですから」

「さ、三百年……!?」


 霊狐は穂花の反応に満足げに胸を張る素振りをしてから「ここからが本題ですわ」とその銀色の瞳の奥をきらりと輝かせた。


「単刀直入に依頼しますわ。穂花、どうかそこにいる月ヶ瀬つきがせ理乃に続き、第二の討影の巫女となって、この明守の地を守ってくださいまし」

「月ヶ瀬さん? あなたがあの……」


 得体の知れない巫女どうこうよりも、学校で噂されている名前が穂花は気になった。


 月ヶ瀬理乃――――隣のクラスの不登校生で、入学直後から授業参加は専らオンライン。ペーパーテストの時のみ颯爽と現れては在校生の一人二人を一目惚れさせているという儚げな美少女。

 穂花が他の野次馬同様に、テストの日に隣のクラスを覗くことがあったなら出会っていたかもしれない。でも、そうはしなかったし、廊下ですれ違いもしなかった。


 穂花たちの通う明守西中学校が、オンライン教育推進モデル校に指定された背景は、月ヶ瀬理乃その人に深く関係しているだなんて噂すらあるのだった。ようは権力者のご令嬢という噂。


(先輩じゃなくて同学年……来週には同じ二年生なんだ。)


 桜を眺める理乃の横顔を見つめる穂花。

 穂花の顔つきにある大人びた部分も、理乃が持っている年齢不相応な空気、言ってしまえば早熟な様相と比べてしまうと子供のそれでしかない。変に背伸びした化粧をしているでもなければ、いわゆる老け顔でもなく、ただただ美人なのだ。


「そんなに見つめても何も出ないわ」


 横顔のまま理乃が呟く。


「ご、ごめんっ……なさい」

「理乃、怖がらせないでどうしますの。いいこと? これから貴女たちは背中を預けて共闘する仲になりますのよ」

「待って、シロ。風見さんはまだ承諾していない」

「わかっていますわ。穂花、討影の巫女について話してもいいかしら?」


 穂花が曖昧に相槌を打った直後、理乃がやはり桜を見たまま、ぼそりと一言呟いた。「え?」と穂花が聞き返すとまた理乃が呟く。聞き取れた言葉は、とあるテレビ放送局の系列で、日曜朝八時台後半にて二十年以上放映され続けている女児向けアニメ番組のシリーズタイトルだった。


「聞いたことある?」

「それはまぁ、うん。見たことは全然ないけれど」


 剣道を始めてから日曜のその時間帯は家での稽古に当てている。剣道を始める前はどうだったか記憶が不確かだが、テレビの前にいた覚えはない。


「そう、残念だわ。でもね、イメージとしてはあんな感じなの。変身して悪と戦う」

「……月ヶ瀬さん、変身するの?」


 例のアニメ番組シリーズに詳しくない穂花が思い浮かべたのは、これでもかと可愛いを詰め込んだ、ひらひらとした衣装姿の理乃だった。それでいて無表情。


「変身云々より、戦うってほうを真面目に考えたほうがいいわ。風見さん、あなたって格闘術や武術を習った経験はある?」

「えっと、剣道だったら小三の頃からずっとしているよ、いちおう。ちなみに月ヶ瀬さんはどうなの?」

「何もないわ」


 きっぱりだった。清々しい即答にかえって面食らう穂花。


「ねぇ、それで悪っていったい――」

「理乃! 奴らがおいでなすったわ。準備をなさい! すぐそこの広場よ!」


 霊狐がその白い毛をぶるっと逆立て叫ぶ。


「最高のタイミングね、反吐が出るわ。おちおち花見もしていられないとはね」


 そう言って、すっくと立ち上がった理乃に穂花は唖然とした。

 相変わらずの無表情ではあるが、その口調ときたら儚げなんてそれこそ他人ひとの夢でしかなく、立ち居姿は堂々としている。


「穂花、百聞は一見に如かずですわ。わたくしたちと共に来なさい。よろしくて?」

「えっ、あ、その……」


 穂花の覚悟は決まっていない。

「奴ら」というのが「悪」であり、敵であり危険な存在であるのは察している。それに立ち向かう勇気、揺るぎない正義感は穂花にはなかった。少なくとも今はまだ。


 そんな穂花に理乃は微笑む。微かに、でも確かに。


「風見さん。あなたにはここで私たちと出会ったのを忘れ、日常に戻る選択肢もある。戦いに身を投じることを無理強いはしない」

「理乃? 貴女どうしてそんな……」

「ただ、一つ言うことがあるとすれば」

「あ、あるとすれば?」


 穂花、そして霊狐が次の台詞を待つ。


「あなたのその綺麗な黒髪が、討影の巫女になったらどんな色に染まるか知りたいわ」


 そよぐ春風とともに理乃が告げたその言葉は、穂花の頬をわずかに桜色に染めた。

 内容よりもそこに込められた自分への興味、そしてお世辞ではないと直感できる声色を感じ取った。


「……行くよ、いっしょに。私はもうそっちに踏み込んでいる」


 忘れられる気がしない。

 穂花は思った。そうだ、踏み込んだのなら、そのまま打ってみるしかない。そう信じたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る