第2話 桜並木、クレープ、そして巫女

 スマートグラスをかけた穂花は、視界の隅に白い狐を発見した。数メートル先だからだろうか、その姿は精度の低いぼんやりしたものだ。なのに、互いの視線が交差した気がしたのだった。


「修司叔父さん、これってホッキョクギツネ? よく見えない、遠い位置に表示されているよ」

「えっ。まだ何も表示されないはずだよ」

「それって――――?」


 穂花はスマートグラスをはずす。

 もし裸眼でその狐の姿を捉えられたなら、実在することを意味する。が、いない。見えなかった。穂花はほらやっぱりと思った。

 自然公園はたしかに綺麗な場所だ。けれどああいった神秘的な白い狐がひょいと現れる場所ではないとわかっている。


(おとぎ話じゃあるまいし。ひょっとして修司叔父さんなりのサプライズ? でも、そんなことをするタイプではないよね)


 チラッと盗み見た修司の顔に、悪巧みしていそうな気配はない。穂花は、修司が端末で動作チェックを済ませている間に、もう一度スマートグラスをかけてみることにした。


 すると、離れた場所にいたはずの白い狐がすぐ近くまで移動しており、穂花はぎょっとした。一歩を踏み出せばその白い毛並みに触れられる距離。それに精度のみならず彩度までもがいくらか上がっている。くっきりとした白は何者も寄せ付けない雰囲気があった。


 その狐は目元から鼻先にかけてがシュッとしていて、凛とした眼差しは穂花を射抜いているふうだった。細身のシルエットに大きな立ち耳、それにふさふさとした尻尾、それらいずれもが気品を醸し出している。体長からして大人の狐であることは察した。


「わたくしが見えますの?」


 とはいえ、話しかけられるだなんて穂花はまったく予感していなかった。


「ええっ!?」

「どうしたんだい。表示に何か異常が?」


 素っ頓狂な声をあげた穂花に対し、修司の物言いは落ち着いたものだった。彼自身が設計に関わっているそのスマートグラスに危険性はないとよく知っているからだ。

 極端な話、いきなり爆発して穂花の両眼、ひいては顔に怪我を負わせる、そんな事態などあり得ない。


「あ、あのね、さっきの狐が今度はすぐそこにいて、それで、は、話しかけてきて!?」

「話しかけてきた?」


 今度は修司の声にも動揺の色が帯びる。穂花なりの悪ふざけかと一瞬思ったが、狼狽えている口ぶりは本物にしか見えない。しかしそうは言っても、修司は喋る白い狐なんて摩訶不思議な動物はプログラムした覚えはなかった。


「貴女、わたくしの姿が見えて、声も聞こえますのね? ああっ、なんて僥倖! 貴女こそ二人目の巫女に違いありませんわ」


 そう言って白い狐は穂花に近づいてくる。優雅な足取りは穂花の歩幅で一歩に満たないその道程を時間をかけて進んだ。穂花がスマートグラスを再びはずすことができる程度に。


「い、いない……」


 裸眼の世界に白い狐の姿がないのを確認した穂花は、安堵すると同時に、自分の選択が誤っていたかもしれないという感覚に襲われる。それでも、またかけようとは思わなかった。


(もしも私が物語の主人公だったなら。そうだったら、ああいった不思議な動物の話に耳を傾け、誰も知らない冒険の世界に踏み出していたのかな。)


 修司に渡すよう言われ、穂花はほとんど反射的にスマートグラスを渡した。修司は穂花の浮かない顔に何か言おうとして、だがその前にと思い直してグラスを装着した。


 スマートグラスに特に異常はない。

 それが結論だった。小首を傾げる修司が、穂花の目にしたものにきちんとした説明をつけるより先に、穂花のほうから「ちょっと疲れていただけなんだと思う」と口にする。


「ええと、ARってのがもっと発展していけば、『目』には映っても触れられない、そんな幽霊や妖怪みたいな存在がありふれたものになるの?」

「日常に浸透していけば、それを異質と思わなくなる」

「というと?」

「たとえば、暗い夜道でこの世の者ではない怪しい影とすれ違っても、スマートグラスの誤作動とでも思って気にしない日が来るのも近いかもしれない」

「ふうん。そもそも叔父さんは幽霊や妖怪って信じているの?」

「それは――」


 電話が鳴る。修司のスマホへの着信だ。

 着信音も、スマホ本体も、通話の仕方も穂花がよく知るもの。ハンズフリーですらない。


「すまない、穂花ちゃん。今日はここでお開きみたいだ。打ち合わせする相手が予定よりかなり早く来たみたいで」


 短いやりとりを終えると修司はばつの悪い顔をして言った。


「気にしないで。叔父さんとしては、私にお願いしたいことはできたわけでしょ」

「まあね。でも、この後に行こうって言っていたクレープ屋さんには行けない」

「大丈夫。もう小さい子供じゃないんだから一人で行けるよ。ただ……」

「皆まで言わなくていい。はい、これ。姉貴たちの分もお土産に買うといい」

「わかった。ありがとう」


 修司の背中が視界から消えるまで見送ると、穂花は歩き出す。件のクレープ屋というのは自然公園内に週に数度来ているフードトラックだ。

 お花見シーズンは書き入れ時ということでほぼ毎日開店しているらしい。春休みに入る前、クラスの一部の女子の間でも話題になっていた。


 人気のないひっそりとした区画から歩くこと数分、穂花は桜並木へとやってきた。

 満開を迎えている桜が並ぶ傍らの芝生広場には大勢の人がいる。レジャーシートを広げて花見に興じている人たちでいっぱいだ。賑やかで華やかな景色。


 穂花は件のクレープ屋を見つけたが、そこには長蛇の列ができていた。何十分、下手をすれば一時間以上並ぶことを考えると、一転して暗い気持ちになる。けれど結局は並ぶことにした。この綺麗な桜に免じて、と穂花は思った。


 並ぶこと三十分、無事に家族分を含めて買うことができた。立ち疲れていた穂花は、カーブになっている並木道の途中、ちょうどよくカップルが立ち上がってどこかへ行ったベンチに一人で座ることにした。

 そしてあっという間に自分の分のクレープを食べ終えてしまう。歯ごたえのもっちりとした生地に、ストロベリーキャラメルホイップの甘さが口内を幸せで満たした。


 ふぅ、と息をついた穂花は正面にある桜の木を仰ぐ。そして両手の指でフレームを作って、桜を収めてみた。咲き誇る桜と澄み切った春の空との境界線。


(未来には、こんなに綺麗な桜の花をいつだって見て感じ取れることができるのかな)


 それは写真や動画の中に記録された桜を眺めて当時に思いを馳せるのと、どう違う体験なのだろうか。

 穂花にはまだ修司が生業としているAR開発であったり運用や導入であったりがよくわかっていない。協力するとは言ったが、果たしてどう役立てるかは不明だ。


 フレームの高さを下げていった穂花は、一人の少女を見出した。顔の作りが不明瞭にしか見えない距離。他にもフレームインしている見知らぬ人たちはごまんといるのに、しかし穂花は確かにその少女にピントが合ったと感じた。


 パッとフレームを崩した穂花だったが、目は逸らせなかった。少女もまた穂花を見やっている。そしてなぜか、穂花のもとへとまっすぐに近づいてきた。


 少女が着ているのは、穂花と同じ中学校の制服だ。ブレザーと無地のスカートは両方とも紺色。手結びのリボンタイは深みのある赤色で、白いスクールブラウスによく映える。


 春休み前ならともかく、今日はブレザーを着込んで公園内を散策すると汗ばみそうな気温で、しかもタイツというのは蒸れそうだ――そんなことを考える余裕が、少女がそばに来るとなくなってしまう穂花だった。


 ひらりと舞い散った一枚の桜の花弁のような儚げな佇まい。可憐でしかも端正な顔立ちをした少女。穂花より10センチほど高い背丈で、ロングボブの髪色は透明感を併せたアッシュブラウン。


 巫女。

 穂花の頭にその単語が浮かぶ。それはあの白い狐が穂花へと向けてきた言葉でもあったが、今この瞬間は目の前の少女の印象を端的に表している。いわゆる大和撫子とも異なる、どこか神聖な空気をその身にぴりっと張り付かせている少女。


(誰だろう、この人。こんな先輩いたかな。学校ですれ違った覚えもない。一度でもそうしていたら覚えていそうな人なのに)


 穂花と面識がないはずのその少女は無表情で口を開く。が、視線は穂花にではなくその隣、誰も座っていないベンチに向けられていた。


「この子で本当に合っているの? ……そう。シロからは説明できないのね? どうしても? ……わかったわ、試してみる」


 そこまで言って、少女の瞳はぽかんとしている穂花にやっと向けられた。それから少女は前屈みになり、穂花の膝の上におかれた手にそっと触れる。


「あの……?」

「目を閉じて」

「はい?」

「目を閉じて、想像してほしいの」

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