めるてぃほらいぞん!

よなが

第1話 春風とオシコーン、それから白狐

 麗らかな春の午後、少女がキリンを見下ろしている。


 哺乳綱偶蹄目キリン科に分類されるこの動物は、種によっては体長が5メートル以上に至り、長い首と全身にある網目状のまだら模様が特徴的である。アフリカのサバンナ地帯が代表的な生息地だ。


 とはいえ、少女――来週には中学2年生になる風見穂花かざみほのかが今いるのはサバンナではなく、動物園でもない。

 ほどほどの田舎町の中心部、明守あきもり市役所から徒歩五分にある中規模の自然公園の片隅だ。そして目前のキリンの体躯は、1メートルに満たない。

 穂花はその小さなキリンの首に手を伸ばすが、触れることはかなわず、空を切る。


 不意に吹きつける春風。穂花の黒髪、そのポニーテールが揺れ、履いている膝下丈のチェックスカートもはためいた。

 一方、ちっぽけなキリンはというと、風など微塵も感じていない様子だ。


(実際、感じていないんだよね。私のことだって見えていない)


 穂花はキリンの頭頂部を観察する。

 二本の角がにょきりと生えている。よく見れば前頭部にもそれらしい隆起が一つあり、さらには後頭部にも盛り上がっている箇所が二つある。

 キリンの角は5本。いつかそんなことをどこかで聞いたような、と穂花は思った。


「どうだい。こんなふうに、実物大だけじゃなくて数分の一のスケールでも表示できるんだよ。逆に、大きくだってできる」


 穂花の傍らに立つ男性が、手元のタブレット端末を操作しながらそう言った。

 穂花が見下ろしていたキリンは一瞬のうちに、ちょっとしたビルぐらいの大きさに変化する。前足部分だけでも穂花の背丈の倍に及ぶサイズだ。

 しばらくの間、巨大なキリンのなが〜い首を今度は仰ぎ見ていた穂花は、彼女自身の後ろ首を手で揉んでから、視線を隣の男性へと移した。


「ねぇ、修司叔父さん。これって触れられるようにはできないの?」


 穂花は装着している眼鏡型の情報端末の位置を、かちゃりと調整しながら尋ねた。


「そのスマートグラスをつけただけで、ってことなら無理難題だよ。現実と重ね合わせられるのは、あくまで視覚的要素のみだ」

「ふうん。他の動物を見ることは?」

「アジアゾウやニシローランドゴリラが表示できる。アミメキリンのデータ取得に協力してもらった動物園でいっしょに飼育されている子たちなんだ」

「ゾウとゴリラかぁ……。もっと可愛いのがいいな」


 穂花の言葉に、修司は苦笑いを浮かべて「たとえば?」と返した。穂花は「んー」と顎に指を当てて考える素ぶりをしてから、レッサーパンダやペンギン、リスといった動物を挙げた。

 かつて家族四人で訪れた動物園で目にし、記憶に残っている動物たちである。しかし修司は「残念だけど」と首を横に振った。


「そっか。それで叔父さんは、えーあーる? ってやつで、動物園を開くつもりなの?」

「いやいや、ちがうよ、穂花ちゃん。まずは体験してもらうのがいいかなって……でも、ちゃんと説明してからがよかったか」


 そう話す修司がタブレット端末を再び操作すると、穂花の目の前からキリンがぱっといなくなる。文字通り、跡形もなく消失する。


 穂花はスマートグラスをはずす。

 修司曰く試作機であるそれは、それなりに軽くてデザインも悪くない。けれど、視力矯正の必要がなく伊達眼鏡も普段かけていない穂花からすれば、十分に違和感を覚える代物だった。


「この前の電話では、どこまで話した?」

「大きな会社をやめてから数年、国内外を転々と放浪していた叔父さんがついに真っ当な仕事を見つけた、みたいな」

「なぁ、それは姉貴……君のお母さんが話したことだろう? というか、放浪じゃない。僕なりに見聞を広めつつ、人脈とかコネとかを……って、そこはいいんだよ」


 怒りではなく羞恥から顔をほんのり赤らめた修司が、わざとらしく咳払いをした。穂花はくすくすと笑う。

 穂花の母親の実弟である修司は実年齢40代には見えない若々しい容貌をしている。身につけているビジネスカジュアルな服装もよく似合っていた。


「たしか、市役所勤めの友達からお仕事を頼まれたって話だったよね」


 穂花は改めて先週の電話でのやりとりを思い出し、確認した。そう長い通話ではなかった。時間に余裕があれば手伝ってほしいことがある、というのが要点だった。


「なんだっけ、修司叔父さんの今のお仕事。フリーチャンスのあいてぃーえんじにあ?」

「フリーランスのITエンジニアだよ。まぁ、チャンスを自分で掴まないといけないから、あながち間違いじゃない。さて、穂花ちゃん。ITが何の略称かは知っているかい?」

「インフォメーション・テクノロジーだっけ。ようは情報技術」

「そうそう。それでね、一口にITエンジニアといっても、扱う分野は多岐に渡るんだ。めちゃくちゃね。僕の場合、昔は一介の社内SEだったのが、今ではいわゆるAR開発技術者兼クリエイター。広い括りをするなら、どっちもIT関連の仕事なわけだ。ARは何かわかるかい」

「うーん……VRとは違うんだよね?」


 春休み前、ゲーム好きのクラスメイトが教室で誕生日プレゼントにVRデバイスを買ってもらい、新作VR対応ゲームを楽しんでいると自慢していたのを穂花は思い返した。

 ちなみにデバイスの値段を聞いたら、穂花のお年玉4年分相当で仰天したのだった。


「ああ。VRは現実とは別の仮想空間を構築して、もう一つの現実を体験できるような技術だよ。それに対してARは、今ここに感じている現実が主体で、そこに様々な情報を付加していく。現実世界を拡張していく技術ってことだ」

「その技術と市役所がどう関係するの?」


 穂花の問いかけに、修司はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの表情をして、ジャケットのポケットからストラップ付きのカードケースを取り出し、穂花に見せる。

 そこに収まっているカードには顔写真と名前に加え、担当所属先が記載されている。


「シティプロモーション課?」

「イエス。これは職員証というより市役所含めて諸々の施設の入館許可証みたいなものだけどね。シティプロモーション、つまりはこの明守市の魅力を地域内外に伝える部署なんだ。CP課って呼ばれている」


 役所内の地域振興部に設置されていた文化・スポーツ振興課と観光課が、一昨年に部分的な統合をして、名称を変更したものだ。修司は穂花にそう教えてくれるが、穂花からしたら、市役所に一人で足を運んだのも今日が初めてだった。入ってすぐのところで修司が待ってくれていて、そのまま歩きでこの公園までやってきたのである。


「CP課に限らず、今年度からデジタル技術アドバイザーっていう肩書きで、僕を含めた私人数名が明守市と契約を結んだんだ」

「へぇ、具体的に何をするの?」

「公営の動物園や美術館や博物館……そういった文化施設で、さっき体験してもらったようなARを正式に導入する、その足がかりを作ることだよ」


 ニッと笑ってみせる修司だったが、穂花は眉根を寄せた。


「私が手伝えることなんてなさそう」

「大丈夫、穂花ちゃんが工学博士でも凄腕プログラマーでもないのは知っているよ」


 修司は笑顔を崩さずにそう続けた。


「僕からのお願いはそう難しくない」

「つまり?」

「今後、開催していくAR体験イベントに友達と一緒に参加してフィードバックを、つまり感想や意見を聞かせてほしいってことなんだ。大人たちだけではダメだからね。むしろ、さっき挙げたような施設にAR技術を積極的に導入していくなら、子供たちが楽しめる要素は必須だと思っているんだ」


 真剣な眼差しに、真面目なトーンでそう言われて、穂花は断る選択肢をなくした。

 どうやらさっそく二週間後、四月中旬の日曜日にイベントがあるのだとか。


(そうだ、二年生になってクラス替えしたら、新しい友達ができるはずだよね。その子たちと仲良くなれるきっかけにできるといいかも)


 そう前向きに捉え直す穂花だった。もとより、協力する気があったから、今日この場にいるのも事実だ。


「わかった、なるべく参加するよ」

「ありがとう、穂花ちゃんならそう言ってくれると信じていたんだ。まぁ、あれだ。剣道の息抜きぐらいに思ってくれればいいんだよ。そっちの調子は最近どう?」

「……ぼちぼち、かな」


 半年前だったら、中学生になっても一所懸命頑張っているよと胸を張って言えたのに、今の穂花は歯切れよく答えられなかった。


 剣道。

 それは穂花にとってかけがえのないものの一つだ。それは竹刀を初めて握ったあの日から変わっていない。そのはず。

 

 ただ、近頃は……。


 穂花は修司に翳った顔色を察せられまいと、スマートグラスを再び装着した。ゾウでもゴリラでもなんでも見て、気を紛らわそうとも思ったのだ。


「ん? あれって――――白い、きつね?」

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