4.陰鬱な夜の城
城の掃除を存分にしたその晩。
身体が疲れているだろうから眠れるだろうとふんだミリセントは、少し早い時間に寝台にいた。
しかし、予想外にまったく眠くならない。かといってすることは何もなかった。
日中は前向きになれたミリセントだったが、夜の闇と共に不安が押し寄せる。
ごうごうと風の音が聞こえてくる中、義母や義妹の顔が脳裏にちらつき、陰鬱な気持ちになる。
義母はいつもわかりやすい罵倒はしてこなかったが、常に当たり前に周囲よりも低い者として扱うことでミリセントを攻撃した。
──うちには社交に出せる娘はこの子しかおりませんから。
義妹と共にすぐそこにいるのに言われた言葉を思い出す。ミリセントは社交に出してもらえたことはない。きっと、少なからず期待の気持ちがあったのだろう。その時は悲しくなった。
嫌な記憶から逃げるように思考を逸らそうとするが、追い立てられるように繰り返してしまう。
もうずっとここで働かせてもらえれば……そう思ったのだが、魔王のあの性格を見る限り、やはり難しいだろうという弱気が芽生えてくる。
城の掃除は彼にとっての意義はさほど感じられなかった。
婚姻契約は明日にも解かれてしまうかもしれない。
契約が解けたら、さすがに無関係な魔王の居城においてもらう理由はなくなる。そのことに怯えていた。
街に出て新たな住処を見つけるべきだが、なんらかの理由で家に連絡がいったり、帰されることになるのだけは避けたかった。あそこには、絶対帰りたくない。
一向に眠れないまま、また悪い記憶が襲ってくる。
ガタガタと風で窓が揺れる音がして、わけもなく怖くなってくる。それでなくとも夜の闇は恐怖感を呼び起こすのに、魔王城の夜の空気はひときわ陰鬱だった。
夜が怖い。
暗闇はどこまでも深く、ミリセントを追い詰めてくる。
こんな感覚は本当に幼かった頃以来かもしれない。
ミリセントは気分を変えるため、思い切って起き上がった。そうして彼女にできる唯一の暇つぶしをするために手持ちのランプを持って部屋を出た。
動いていると気がまぎれるし、疲れれば眠くなるだろう。少しだけ。すぐ近くだけ。そう思って一階に降りて掃除用具を取り出し、モップを動かし始める。
昼間はざっくりだったので、まだまだ汚れはとれる。おまけに新しいヘドロが点々と落ちている。あの、泥まみれの犬みたいな魔物が出てきて撒き散らしているのだろう。
うっすら怒りを感じて、点々と続く跡を追いかけるように拭き取りながら進んでいく。
階段の前まで来た時、つまづいてバケツを蹴飛ばしてしまう。
バケツから溢れた水は地下へと続く階段へと流れていく。
ミリセントはこぼれた分だけ拭き取ろうと、モップを持ってそこに足を踏み入れた。
一段ずつ、拭きながら降りていく。そうして階段を降りて一歩だけ前に出た。
冷たくて暗い廊下の奥には濃い闇が続いていて、湿っぽくてカビ臭い風が吹いている。
ふいに、闇の中何かが動いた気がした。
目を凝らして見るが、特に何もない。見間違いだろう。それでも心がざわりとして、急に心細くなった。早く部屋に戻ったほうがいい。
嫌な予感がして振り向くと、来たはずの階段が消えていた。
ミリセントは真っ暗な通路の真ん中にいた。
暗闇で見えにくくはあるが、さっきまでそこにあった階段がわからなくなるほどではない。まるで、ミリセントの周りの通路のほうが突然変化してしまったかのようだった。
とにかく階段を探して上階に戻らなければ。その思いで通路を歩き出す。
遠くにはごおおおお、と風の鳴る音が聞こえてきて、不安が増していく。手持ちランプを前に出してそろそろと進む。
──ここ、魔王城だから。
そんな魔王の声が思い出される。
「……どうしよう」
心臓がドキドキと波打つ。
通路は酸素が薄く、閉塞感が強い。やたらと長く、どこまでも終わりなく続いているように見える。
ランプで照らした壁はどこか赤黒い印象だった。
魔王やミリセントの部屋がある階層は少しくすんでみすぼらしい感じはあったが、それでもこんな禍々しくはなかった。ここはまるで違う空間に思える。
キィキィ、と蝙蝠の声がして、バサバサと羽音が響いたその直後、ふっ、と突然ランプの灯りが消えた。完全な暗闇に包まれる。
周りは暗闇で、黒しか見えないのに肌を震わすようなざわめきの気配がする。ミリセントは身をすくませた。
周りからヒソヒソと声が聞こえてくる。最初小さかったそれはだんだん大きくなっていく。最初はざわめきの塊でしかなかったものの欠片が聞こえてくる。
『娘』『分ける』
部分的な単語だ。意味はよくわからないが、その声たちは、そのものが心をざわつかせる忌まわしさがあった。
ミリセントはひゅっと息を呑んで暗闇の中、勇気を出して一歩だけ前に進んだ。自分の体をきちんと動かせることを確認するような気持ちだった。
大丈夫、足は動く。早く、ここから逃げなくては。
と、急にざわめきの中から言葉をはっきり拾ってしまう。
──魔王様の花嫁だ。食っちゃなんねぇ。
心臓がびくんと跳ねる。
見えないけれど、周囲に魔物がいるのだ。どれくらいの数いるのかもわからない。もしかしたらずららりと囲まれているのかもしれない。前にいるのか、後ろにいるのかもわからない。
ふいに、低くしわがれた声が天井から響く。
──腕一本くらいなら……わかんねぇんじゃねえかな。
その声を皮切りに、四方八方からうじゃうじゃとした闇がミリセントに近づいてくるような圧迫感を感じる。
ミリセントは血液がさあっと降下するのを感じて、その場に倒れこんだ。
何かに抱き止められるふわりとした浮遊感に、かたく瞑っていた目を開ける。
そこは、二階の部屋の前の通路だった。ミリセントは魔王の腕に抱えられている。
「何度も言うようだけど、ここは魔王城だから。なんらかの大きな呪いが城全体にかかっている。特に夜間の地下にだけは絶対立ち寄らないようにしたほうがいい」
「は、はい、ごめんなさい……」
魔王の腕からそっと下ろされると、腰を抜かしてしまって立てなかった。鳥肌の立った自分の腕を抱きしめる。
今思い出しても恐ろしい。ミリセントの顔はまだ青白く、息も荒かった。
「もう大丈夫だよ」
どこか困ったような声、だけど優しい声だった。
「う……うう……怖かった」
ミリセントの瞳から涙がぽろりとこぼれた。
「……な、泣かないで」
ミリセントは決して泣き虫じゃない。家でどんな酷い扱いをされても泣いたことはなかった。ミリセントの涙は張り詰めていたり、心を閉ざした状態では出てこない。
ただ、こんなときに優しくされたことがなかったので、あっけなく涙腺は崩壊した。悲しみより、安堵で鍵を開けられてしまった。小さく嗚咽して、涙は止まらない。
ぐすぐすと泣き続けるミリセントから少し離れた場所に魔王はしゃがみこんだ。
「ごめん……」
「な、なんで魔王様が謝ってるんですか……」
「不気味な城で……申し訳ない」
「わたしが、勝手に入っちゃいけないとこに入ったんです」
「いや、俺の説明が足りていなかった」
「そんなことないです……助けてもらえて……本当に安心したんです……もしかしたら……」
そこまで言って続きを口の中に押し込めた。口にしたくなかった。
もしかしたら、殺されていたかもしれない。
そうでなくても、腕を喰われたりしたかもしれない。
「もう今日は寝たほうがいい」
そう言って、魔王はミリセントの部屋の扉を開けた。
身体の震えはまだ治まらないが、なんとか部屋の中に移動した。
「それじゃあ。おやすみ」
「えっ? あっ」
ミリセントはとっさに、立ち去ろうとした魔王の袖を掴む。振り向いた魔王が首を傾げる。
「魔王様、今日だけ……」
「え?」
「こっ、今晩だけ一緒にいてもらえませんか?」
魔王が目を見開いて、愕然とした顔で、口も大きく開けた。
「え、えぇ……? それは……どういう……」
「まだ、何かが出るような気がしてしまって……」
「…………」
「ご、ごめんなさい。無理、ですよね。大丈夫です。おやすみなさい」
こんな性格の人に頼むことじゃなかった。それに自分で勝手に怖い目に遭っておいて、さすがに甘えすぎだ。
少しして顔を上げると、魔王が何とも言えない顔をしていた。
「き、君が寝るまでなら……」
「え?」
「あと、特に会話もしなくていいなら、この辺にいる」
珍妙な条件をつけられたが、ミリセントはこくこくと頷いた。
魔王は寝台からはかなり離れた扉の近くに座りこんだ。それから小さな手持ちランプを床に置いて、本を読み始める。
番人みたいな立ち位置だ。いや、これ以上贅沢は言うまい。この人嫌いの魔王が同じ部屋にいてくれるだけでも奇跡的なのだ。
ミリセントは寝台に身を横たえた。
暗闇の中、相変わらず風がごうごうと鳴っている。あまりに気配がないので、ふと、不安になった。
「魔王様……そこにいますか?」
「いるよ」
ちゃんと、そちらから声が返ってきた。
昼間は慌てていることが多い声だが、暗闇の中でミリセントの顔が見えないからか、その声はだいぶ落ち着いている。
そこにいてくれるだけで、安心感がぜんぜん違う。瞳を閉じるとすぐにウトウトしてきた。きっと、なんだかんだ今日も疲れていたんだろう。
しばらくして、ミリセントは夜のはざまに突然目が覚めてがばりと起き上がった。
瞬きをしただけにも思えるし、何時間か眠っていたのか、時間の感覚がよくわからない。あたりは暗く、まだ夜のままだった。どんな夢を見ていたのかは覚えていないけれど、全身にぐっしょりと脂汗をかいていた。小さな声で闇に問いかける。
「ま、魔王様……」
「ここにいるよ」
ちゃんと声が返ってきた。そのことに安堵して涙が込み上げ、洟をすすりあげる。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
その声は小さかったけれど、穏やかで、嫌悪も苛立ちも感じられない。思いやりに満ちていて、ミリセントの心を癒してくれた。
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