2.勇者の子孫
ミリセントは魔王城の寝台で目を開けた。
雨はすっかり上がっていて、朝陽が射し込んでいた。
家にいた頃少し強すぎると感じていた真夏の陽射しは不思議とこの城では弱々しく、どことなくセピア色に感じられる。
緊張していたわりに、ぐっすり眠れた気がする。
まだ得体の知れない魔王城にいたし、うっかり婚姻契約まで結ばれた。
それでも結果的にはちゃんと人間の姿に戻れたし、あの家を出ることもできた。一昨日より前の自分と比べたらずっとマシに思えてしまった。
思えば自分はずっと、あの家を出たかったのだ。
ミリセントはどこかなげやりな開放感で満ちていた。
寝床から出ると床に女性用の衣服が大量に積まれていた。見ると肌着や下着も、それから日常生活に必要なさそうな女性用の甲冑や、華美なドレスまである。中にはサイズが合わないものもあったけれど、それでもこれだけあれば着るものには困らない。
ミリセントはその中からメイドがエプロンの下に着るものに似た簡素なワンピースを選んで着た。
ベッドサイドにある小さなテーブルの上に、盆にのせられた焼き菓子もあった。魔王が置いてくれたのだろう。
昨日は空腹を覚えなかったが、可愛らしい焼き菓子を見ていたら急にお腹が減ってきて、それを摘む。
「おいしい……」
あたたかくて、優しい味だった。
こんなものをずいぶん長いこと食べていなかった。
屋敷の庭でお茶をする両親の近くではしゃぎまわっていた頃の自分が過る。もう二度と戻らない、儚くて温かい光景だ。
菓子をたいらげると、いよいよ元気が出てきた。
昨日までは死んだように生きていた。カエルにされた時も、婚姻契約を結ばれた時も、どこか他人ごとだった。
けれど暗闇のような家を抜け出せた今、ミリセントには不思議と生きたいと思う気持ちが湧いてきていた。思えば両親が生きていた頃、自分はもっと明るい子だった。その感覚を急に思い出した。
部屋を出る。黒に近い石造りの廊下に人けはなく静かだった。
婚姻契約を結んだといっても、ただの間違いなわけで、縁もゆかりもない相手だ。
それでも、他に行く場所がない。とりあえずもう少しの間だけでもここに置いてもらえるよう魔王に頼むつもりでいた。
がんばろう。まだ大丈夫。そう自分を鼓舞する。
昨晩細く空いていた部屋だろうと予想して、魔王の部屋の扉をトントンと叩く。
「魔王様……おはようございます」
声をかけると部屋の中からガタンと音が聞こえた。
しばらくすると地底から響いてきたような陰気な小声で小さく「おはよう」と返ってきた。
扉の向こうから溜息まじりの小さな声が聞こえる。
「はぁ……やっぱ昨日の……夢じゃなかったのか……」
「あ、あのう……お話が……」
いつまで経っても扉は開けられないので、ミリセントは思い切って扉を少し開けた。魔王は扉のすぐ前に立っていた。そこにいるなら開けてくれればいいのに。
「あ、そうか……もし帰るなら市街地の近くまで送る。家はどのあたり?」
「あの、そのことなんですが……」
「うわっ」
もう少し大きく扉を開けたミリセントは魔王の伸ばした手のひらに制止される。魔王はなぜかダラダラ汗をかいている。とても言える空気ではない。
勇気を出してなんとか一歩前に出て口を開く。
「あのっ」
「そ、それ以上近寄らないでくれ!」
「えっ」
「カエル! あの可愛くて愛くるしい姿に戻ってくれ!」
「え? えぇ?」
ミリセントが訳がわからないまま戸惑っていると、魔王がぱちんと指を弾く。またカエルの姿になってしまった。
「はー……助かった」
この魔王は人に慣れてなさすぎる。
「気軽にカエルにするのやめてください……」
「わ、悪い……あれ? しゃべれるようになった?」
「え? 聞こえました?」
ミリセントはまだカエルのままだったが、魔王に向かってしゃべりかけた言葉は伝わっているようだった。
魔王はミリセントを掌にのせた。
「もしかして君、貴族の血が流れていたりする?」
「……一応。でも魔力ゼロと言われてました」
「うーん、カエルの姿に適応してきてるから、魔力ゼロってことはないよ……何かが阻害しているだけで、うまくすればきちんと開花するんじゃないかな」
確かに、ミリセントも十三までは魔力開花の兆しがあったのだ。しかし、父が亡くなってその気配は消え失せ、今では気のせいだったと思っていた。
それにしてもカエルの姿になってから魔王の態度が少し軟化した気がする。会話も滑らかだ。
手のひらにのせたまま、目を細め、指で頭をちょいちょい撫でてくる。よほどこの容姿がお好みだったのだろうか。
いつまでも躊躇っていても仕方ない。この姿で頼んだほうがまだ勝算があると見て、ミリセントはもう素直に頼もうと口を開ける。
その時、ごーん、と鐘の音がした。
魔王が、「ちょっとごめん」と言って立ち上がる。
ミリセントを肩に載せたままエントランスの二階にある姿見の前に行った。
そこには八歳くらいの男児と甲冑を着込んだ騎士が二人写し出されていた。
「なんですか、これ……」
「この鏡には来訪者が写し出されるようになってる」
「じゃあ、この方たちは今、城門にいらっしゃるんですか」
「ああ。あれは勇者の子孫だよ。もうそんな時期か……」
魔王がそう言ってぱちんと指を弾くと重そうな城門が開き、鏡の中の三人連れが動き出す。
「ゆうしゃの、しそん?」
「実は、父が勇者に倒された数年後、俺がここにいることを知った彼らがここに来て……悪いことをしない約束で一年に一度お金を受け取っているんだ。俺はその不労所得で暮らしている」
魔王、買収されてた。
ミリセントは目をぱちぱちさせる。
「これから大広間にさっきのお客が来るけど……説明が面倒だから君はどこかに隠れていてくれ」
「わたしも見てみたいです。いてもいいですか」
そう言って魔王の肩から手にぴょこんと飛び乗った。
魔王は相好を崩し「その姿でしゃべらないならいいよ」と承諾してくれた。やはりヒトよりカエルに甘い。
大広間に入ると、来訪者たちはすでにそこにいた。
勇者の子孫は強い意志を持ってそうな瞳にキリッとした眉の男児だった。
「クロード様、遅れてすみません」
「いえいえ、お久しぶりでございます。魔王様におかれましても、ご健勝であられましたかな?」
「ああ、はい。なんとか……」
敬語だ。その小さな子に対して魔王は敬語だった。敬うというより、小さな子への対応がわからないのだろう。しかし、ものすごくしっかりした老生した感のある男児だったので、特に違和感はない。
「そうですか。お陰様でヒトの世も変わりなく……平和に騒がしいものですよ……今後もひとつよしなに。こちらいつもの山吹色の菓子にございます」
甲冑の騎士がサッと差し出す箱を、魔王はぺこりとお辞儀して受け取る。
「フォッフォッフォ、お主も悪よのう……」
勇者は扇子で口元を隠しながら笑う。五十過ぎの壮年にしか出せないような貫禄ある笑みであった。
「そ、そうですかね。いつもすみません」
魔王が曖昧な返答をして、勇者の子孫はしずしずと帰っていった。
「はぁ……」
魔王は勇者の子孫の背中を見送ると、大きな息を吐いた。
「今日は人と会った……もう何もできない」
「えっ?」
面会時間十分かそこらだった気がするけど。
魔王は背中を丸めて部屋へと引き返そうとしている。
「あ、待ってください」
「ああ……そうだった。君の姿を戻さないと。あと家にも……」
ミリセントは部屋に戻り、姿を戻してもらって服を着た。
部屋を出ると魔王がいくぶんか反省した面持ちで待っていた。
「あ、そういえば、置いていただいてた服、ありがとうございます。これ、どうしたんです? あったんですか?」
「昨晩、行商人を呼んだ。サイズがわからなかったから……適当に……」
魔王の答えに昨夜の光景が思い起こされる。ミリセントの思う行商人とはだいぶ違ったが、深くは追及しないことにした。
「もう帰る?」
「それなんですが実は、事情があって、行くところがなくて……しばらくここに置いてもらえませんか? わたしを捜す人もおりませんし、面倒ごとにはなりませんので……」
「…………え? そ、そうなの?」
魔王があからさまにたじろいだ。だいぶ嫌そうな顔が隠しきれていない。
「婚姻契約……まだ解けないんですよね?」
そう言うと、魔王はぐっと唸った。
「も、もちろん……俺が間違えたんだし、婚姻契約はなんとかする」
「じゃあ、せめて契約解除するまでは置いてください」
「……わかった」
苦み走った顔と苦渋に満ちた声だった。
本当は嫌だけれど、責任を感じているので断れなかったのだろう。
責任があるのは紛れもない事実だが、そこにつけこむのは少し気が引けた。
「しばらくいるのはいいんだけど……ここは魔王城だから少し問題があって……とりあえず生活に必要な場所だけ案内するから、それ以外には立ち入らないでもらえるかな」
「……わかりました」
ミリセントは魔王に必要な場所の案内を受けた。
一階に貯蔵庫、洗面室、洗濯室、浴室。
魔王の居室とミリセントの部屋がある二階には書庫があった。
案内が終わると魔王は自室の扉を開けた。
そうしてミリセントのほうを向いて言う。
「食料は好きに食べていい。面倒なら菓子もある。厨房も浴室も好きに使っていいし書庫にたくさん本があるからもし退屈だったら読んでくれ! じゃあ! 俺は婚姻契約の解除について調べるから!」
魔王は早口で言って扉を閉めてしまった。
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