1.憂鬱な雨の日
魔王・フーミュルはその日、朝から憂鬱だった。
雨は嫌いだ。ものすごく嫌いだ。朝起きて雨なだけで気持ちがすごく落ち込む。
そもそも晴れの日にだって外になんてこれっぽっちも出たくないのに、今日は雨の中、城の外に出なければならなかった。
フーミュルは世界中の絶望を一身に背負ったような陰気な顔で歩いていた。
さっさと用事を済ませて帰ろう。
湿った風が吹いている街中は薄暗くて、ただでさえ陰鬱な気持ちを加速させる。髪は濡れて顔に張り付いて不快だし、靴の中に泥水が染みてとても嫌な気持ちになる。そこそこ気に入っていた服にも泥が跳ねてシミになった。何もいいことがない。ろくなことがない。
しかし、ろくなことがないのは百年以上前から変わっておらず、天気が良くてもフーミュルの気持ちがさほど晴れるわけではない。彼は生来から後ろ向きで落ち込みやすく、人が嫌いで根暗な奴なのだ。
しかし、その日は帰宅途中に珍しく彼の心を少しだけ晴れさせるものが外にあった。これは、百年ぶりくらいのことかもしれない。
フーミュルの気を引いたのは市街地を少し離れた場所にある廃屋の窓枠にいたカエルだった。
それは彼の足を止めさせてしまうほどに美しく輝いていた。つやつやの身体は綺麗な黄緑色で、変わった模様がついている。空色の瞳も可愛らしい。一瞬で心が浮き足立つ。こんなことは数年に一度あるかないかだ。
フーミュルはカエルを見た瞬間に一目惚れして手を伸ばしていた。カエルはびっくりして逃げようとしていたが、腐っても魔王であるフーミュルの手のひらに載せると、委縮したように動かなくなった。
なんだこれは。最高だ。
真面目に生きているとたまにはいいことがあるものだ。
すっかりご機嫌になったフーミュルはカエルを懐に収め、自分の城を目指して飛んだ。
普段は人前で飛ぶと目立つので街からかなり離れてからコソコソ飛んでいるというのに、そんなことも忘れて軽やかに飛んだ。移動中、空で音痴な鼻歌まで歌った。
***
険しく岩が切り立った山脈に囲まれた魔王城はおいそれと普通の人間が来れない。フーミュルのひとりの住処として最適だった。
彼はここで最低限可能な限り誰とも関わらずにすむ静かで穏やかな暮らしを手に入れていた。
フーミュルはエントランスに入ると、すぐに走って階段を上がった。運動は大嫌いだからこんなに本気で急いで走ったのも数年ぶりのことだった。
入った部屋には床一面に魔法陣が描かれている。
逃げられたり弱って死んだりする前に、今捕まえたカエルを使い魔にする契約を行うためだ。
ここ数年、こんなにも心が躍ることなんてなかった。
それもそのはずで、フーミュルは生来、欲が薄い男だった。欲しいものがさほどないから、欲しいものが手に入る喜びを得ることもなく、さりとて現状に特別満足しているわけでもないので常に覇気のない日々を送っていた。
けれど、フーミュルは今、このカエルを使い魔にしたあと肩に載せたり、一緒に遊んだり、意味もなく呼び出したりする楽しい日々の妄想に囚われていた。
こんなに気に入ったものを見つけたのはいつ以来だろう。
フーミュルの脳裏に美しい装飾が施された銀の槍がよぎった。
美しく、魅力的なものというのはときに自分がそれをその用途で使う予定がなくとも惹かれてしまう。
あの槍を手に入れたときは最高に心が躍った。その時の高揚感が甦ってくるかのようだった。
もっともその槍は「お前はどうせ使わないだろ」と言われ、すぐに兄に奪われた。
ほどなくして外から帰ってきた兄に、フーミュルの美しい槍で猪の生首を串刺しにしたところをニヤニヤしながら見せられた時には、恋愛をしたこともないのに寝取られたような気持ちになったものだ。
深く落胆したフーミュルはあの時、無用な執着心は捨てると決めたのだ。
しかし、今はもうその下品な兄もいないわけで、こうなると悪くない。悪くないぞ執着心。お気に入りのものはないよりあったほうがいい。生活が華やぐ。
魔法陣の中央に載せたカエルはみじろぎひとつしなかった。困っているようにも見えるし何も考えていないようにも見える、どうにでも見える両生類特有の顔をしている。とてもいい。
爬虫類や両生類はまったく懐かない代わりにこちらのことをちっとも見ていないところが素晴らしい。彼らはフーミュルの自意識を刺激しない。たとえどんな間抜けな行動をしたとしても、珍奇な失敗を見られたとしても、彼等は自分をなんとも思っていない。
フーミュルは心を落ち着けて契約の
やがて、空中に紅い印が幾つか浮かび上がり、カエルへと還元されていく。誰に邪魔をされることもなく、無事に契約が結ばれた。
そのはずだった。
しかし、契約が完了したその途端、カエルは爆発したような白煙を上げた。
フーミュルはびっくりして思わず「えっ?」と声を上げた。日頃人と会わず、声を発しない日が一週間以上あったりするのに、今日は数年に一度の動きを幾つもしている。
「……俺のカエルは……?!」
狼狽してあたふたしていると、白煙の霧が晴れていく。
そこには、人間の女がいた。
「うわーーーーーっ!」
フーミュルは三百年ぶりに大音量で悲鳴を上げた。
薄い金色の長い髪に、大きな空色の瞳を持つ、華奢で美しい女だった。しかも裸。フーミュルは焦って自分の黒いマントをぶん投げ、裸体を隠した。
「これは……何ごとなんだ?」
女は被されたフーミュルのマントをたぐりよせ、目から上だけ覗かせて、困った顔で言う。
「ありがとうございます。ちょっと……呪われてたんです」
フーミュルは数秒固まったあとに、事態を正しく把握して頭を抱えた。
「ヒトだったのか……なんてことだ。俺としたことがよく見ればわかったことだったのに……あまりの可愛さに……我を失っていた。こっわ……」
いつもならしない失敗だった。雨だ。雨がみんな悪いんだ。出る時滑って転びそうになったのも、寝癖が酷かったのも、この間傷みかけのお菓子を食べてお腹が痛くなったのも、全部雨のせい。
しかし、雨が犯人だと断定しても、この状況が何か変わるわけではない。この状況はどうしたものだろう。
どこかきょとんとしてる娘に向き直って言う。
「落ち着いて聞いてくれ……俺は今、動物や魔物を使い魔にするための契約を君にした……その契約は動物が俺に命を預け、生涯を共にする盟約だ」
「え? じゃあ今わたしはあなたの使い魔なんですか?」
「いや……ヒトは使い魔にできない。その契約は……ヒト相手にすると……魔族における婚姻契約になる」
「婚姻……契約」
娘は小首を傾げた。
「あの、あなたは魔族……なんですよね」
「そうだよ。俺は……現魔王。名前はフーミュル」
いや、呑気に自己紹介してる場合じゃない。困ったことになった。
フーミュルはしばらく俯いていたが、バッと顔を上げて言う。
「お、俺はこの歳まで友達すらいたことがないんだ。カエルならまだしも、人間と結婚なんて絶対無理だ!!」
脂汗がダラダラと流れていく。ちらりと横目で娘を確認する。
「あ、わたしはミリセント・ベルです」
いや、呑気に自己紹介を返してる場合だろうか。
この娘はこんな事態だというのに、どこかおっとりしているというか、なかなか豪胆だ。
「魔王様、婚姻契約って、どんなことが起こるんです?」
「ヒトと魔族の契約は魔族同士のモノとも違う。一番の問題はまず……俺が死ぬまで君は死なない」
「まぁ……」
「死ねない、とも言う。それから、俺が死ぬ時に君も死ぬ」
ヒトと魔族では圧倒的に寿命が違う。婚姻契約はヒトの側の寿命を引き伸ばす。
「あとは強制力が働いて婚姻相手以外の者と肉体関係を持てない」
「そうなんですか……」
この娘は妙に達観しているというか、どこかがズレている。そうなんですか。じゃないだろう。しかし、騒がれたらこちらまで余計に慌ててしまっていただろう。
婚姻契約なんて一生するつもりがなかったから、離婚方法については全く知らなかった。そんなものがあるのかさえも不明。
だが、フーミュルはもう長く、他者と関わりを持たずに生きていた。何か不都合があるだろうかと考える。
いや、この娘は契約を解除しない限り歳を取らない。それに、自分はよくとも彼女がこの先結婚しようとした時にできないのは明らかに問題だろう。このまま帰ってもらってなかったことにするのはやはりまずいだろう。
だんだん現実を認めるのが面倒になってきた。
「ちょっと……ごめん」
そう言ってフーミュルがぱちんと指を弾くと、娘はまたカエルの姿に戻った。しみじみ眺める。
うーん、やっぱり可愛い。
いっそこの姿で使い魔として……いやダメだよなあ、ヒトだもんな……。フーミュルは煩悶した。
カエルが抗議の声をゲコゲコこちらに向けている。フーミュルは短い葛藤のあと、首を横に振ってからまた指を弾いた。
「何するんですか! せっかく戻れたと思ったのに」
ヒトの姿に戻った娘がマントに篭りながら抗議してくる。
「……一応聞くけど、君、この先カエルとして生きる気は?」
「ありません!」
即答された。
***
ミリセントは魔王フーミュルの漆黒のマントを身に纏い、彼と共に薄暗い城の廊下を歩いていた。
「とりあえず、もう遅いから今日はこの部屋で寝て」
魔王が扉を開け先に入り、指を弾き屋内のランプに火を灯していく。
覗き込んだ部屋は簡素な客室だったが、小さな寝台があった。もっとも寝具は備わっていなかったようで、魔王がせっせと寝床を作っている。ミリセントは中に入り、あたりを見まわした。
魔王は部屋の外に出た。扉に手をかけたまま神妙な顔で言う。
「ああ……えっと……この城は魔王城だから」
「はい」
「夜間はむやみに出歩かないほうがいい。もし変なものが出たら」
「え? はい? どうすれば?」
「……見なかったことに」
「えぇ? あの、変なものって……なんですか?」
「大丈夫。幸か不幸か君は俺と婚姻契約をしているから、命を狙われることはない」
魔王はそれ以上の説明が面倒になったのか、そのまま静かに扉が閉められた。
窓の外は相変わらず雨がシトシトと降り続いている。
雨風を凌げる場所を与えられただけでも幸運かもしれない。
ともあれ疲れ切ってはいた。寝台に横になるとすぐ、うつらうつらしてくる。
──急に窓の外が光った気がして、びっくりして跳ね起きる。
今日は色々なことがありすぎた。精神が昂っていて、ちょっとしたことで目が覚めてしまう状態なのだろう。心臓がばくばくと速い鼓動を刻んでいた。
どこかから、話し声がする気がする。
手持ちのランプを持って、そっと扉を開けて外に出る。雨音は強さを増していた。通路は暗く、蒸し暑い。
ミリセントは夢の途中なのか現実なのかもあやふやなまま、そちらに向かう。
声のした扉は細く開いていて、灯りが漏れていた。そこからそっと覗き込む。
魔王ではない男の声がしていた。
「だーからぁ、食料はともかく、人間の雌が着る服なんて何に使うのか教えてよぉ」
「お前にそんなこと教える義務はないよ」
「なーんだよぉ! つれなぁい! フーミュル、なんでいつもそんなつれないんだよぉ! オレ今日はちょーっとほかにも急ぎの客がいるから行くけど、絶ッ対また来るからねぇ!」
魔王の話し相手の顔はよく見えなかったが、それからぱたりと物音は止んだ。
ミリセントはドキドキしながら扉を閉じて、部屋に戻った。
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