第5話 黒い波

 大きな黒い波が足元にぶつかってきた。

 「キャー」

 私は飛び上がって、その波を避けた。私のパンプスが岩で滑った。岩が濡れているのだ。私の身体が傾いた。

 「危ない。花楓」

 安祐美が両手で私を抱きかかえてくれた。安祐美に抱かれたままで、私は周囲を見まわした。


 私たちは再び、あの海岸に立っていた。


 小雨が降り続いていた。海の向こうは空のはずだが・・・その境界は灰色にかすんでいた。その境界線があると思われる手前から、無数の波頭が白っぽい灰色の三角形を描いて、こちらに押し寄せてきていた。


 後ろから強い風が吹いてきて、私の髪が大きく前方に広がった。そうだ。私のシュシュは、さっき、風で飛ばされてしまったのだ。すると、次の瞬間、風向きが変わって、私の髪が今度は顔にまとわりついた。


 私たちの少し横に、早乙女さんと山田さんが立っていた。山田さんは、しっかりと海を見つめていた。風の中に山田さんの声が聞こえた。

 「これが、僕の前に立ちふさがる海なんですね」

 早乙女さんが答えた。早乙女さんの顔を細かい雨が打ち付けている。

 「そうです。世の中の荒波です。これは・・・」


 私には早乙女さんと山田さんの会話をそれ以上聞き取ることができなかった。大きな黒い波が私と安祐美にかぶさってきて、私は一瞬にしてその波にのまれてしまった。


 顔を上げると、私は岸から10mほど離れた海の中にいた。岸辺で安祐美と早乙女さんがあわてているのが見えた。その横で山田さんが突っ立ったまま、茫然と海の中の私を見つめている。

 私は岸に向かって泳ごうとした。こんな華奢な身体をしていても、私は水泳が得意だった。しかし、私は荒れ狂う海の中では無力だった。泳ごうとして手足を伸ばそうとしたが、逆に波の力で海の中に深く引っ張り込まれてしまった。


 海の中で私は何度も回転した。海水をたらふく飲んだ。息が苦しかった。ようやく、海面に顔が出た。荒れる海面で、肺の中に空気を吸い込むことと、肺の中の海水を吐き出すことを同時に行った。続いて、はげしく咳き込んだ。咳がやむと、ようやく一息空気を吸い込むことができた。次の瞬間、息と海水を一緒に吐き出した。ヒューという声が私の口から洩れた。頭の中がガンガンと痛かった。そして、私は波に揺れる頭で周りを見まわした。


 私は岸から30mほど離れたところに浮いていた。さっきより、岸から離れている・・・


 私の頭は恐怖で真っ白になった。私の身体から血の気が引いていった。身体が鉛のように重くなった。

 もう、いや。こんなの、いやよ。私は、私は、ここで死んじゃうの?

 意識が遠くなった。山田さんが海に飛び込むのが見えた。


 ・・・


 私の身体を誰かが支えてくれていた。私は波の中で誰かに抱かれていた。頭が空を見ていた。灰色の空が見えた。私は口を開けて空気を激しく吸った。その口の中に小雨が降りこんできた。舌に雨粒が当たった。私のすぐ横で声がした。

 「しっかりして。そうすぐ岸だよ」

 山田さんだった。山田さんが私を抱いて泳いでくれていた。私は答える元気もなく、かすかにうなずいた。


 波が来て、山田さんの顔が海の中に没した。次の瞬間、また山田さんの顔が海面に現れた。山田さんはブルブルと頭を振って、顔の海水を払った。顔に赤みがさしていた。キッと前を鋭く見た眼が光っている。私は美しいと思った。そこには、以前の波打ち際で震えていた山田さんの姿はなかった。


 やがて、私の背中が海中の岩にこすれた。岩場だった。助かったと思った。波の中を走る音がして、安祐美と早乙女さんの手が私を抱え上げてくれた。


 私は岸に上がった。大きな岩に四つん這いに倒れて、激しく水を吐いた。しばらく水を吐くと、お腹の方から何か苦いものが上がってきた。私は苦いものを何度も吐き出した。私はあえいだ。

 ようやく息をついて、私は立ち上がった。私の顔は、雨と涙でぐしゃぐしゃだった。安祐美がハンカチを差し出してくれた。ハンカチはびっしょりと濡れていた。私は、かすれた声で「ありがとう」と言って、濡れたハンカチで顔をふいた。顔からハンカチをとると、山田さんが立っているのが見えた。私は山田さんに頭を下げた。


 「山田さん。ありがとうございました。おかげで、助かりました」

 山田さんが私の手を握った。

 「よかったです。助かって、ホントに良かったです。僕は、僕は・・・世の中の荒波に飛び込むことができました」

 山田さんは泣いていた。

 後ろから早乙女さんの優しい声がした。

 「では、戻りましょう」

 早乙女さんがまた青のタブレットを操作した。周囲が薄くなった。

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