町医者、亮介の幸福

マキシ

ささくれの患者

 この町には、評判の町医者がいる。名を亮介という。30代の働き盛り。

 彼は小児科医なのだが、なぜかこの町の人々は、大人でも子供でも、足のケガでも腹痛でも、時には、夜眠れないというときにまで、彼の診療所を訪ねる。

 彼は、それを誇りに思っている。町の人々の健康と幸福を守るという信念が、彼を支えている。

 診療所は、いつも混んでいた。そんな忙しい彼を助けるのは、若くて優秀な看護士、久美子。どんな忙しい時でも笑顔を絶やさない、タフでやさしい看護士だった。


 そんな亮介の診療所に、最近、妙な患者が増えてきていた。

「先生、見てくださいよ」

 そう言って亮介に両手を突き出すのは、この診療所の常連、薪次まきじ。不動産営業をしているサラリーマンである。

「んん? ささくれですね。しかも、随分ひどい。痛みますか?」

「痛むなんてもんじゃないんですよ、先生。どうにかなりませんか」

 疲れた顔をして、薪次が言う。亮介は、薪次の両手の指先にできたささくれを見て、首をひねる。

「特に乾燥するような季節でもないのに……。何かお心あたりは?」

 そう尋ねられた薪次も、亮介と同じように首をひねって言う。

「心あたりなんぞないですよ。ここ二、三日で急にこんなになったんです」


 亮介は、不思議に思っていた。ここ一週間ほど、「ささくれが痛む」と言って診療所に来る患者が増えているのだ。

「最近、何か変わったことは? 随分、お疲れのご様子ではいらっしゃるが」

 手掛かりになるような情報が欲しくて、薪次にそう尋ねた。深いため息をついてから、薪次が答える。

「はあ、最近ですか……。強いて言えば、仕事がうまくいっていませんね……。このままだと、女房に逃げられてしまうかも……」


 今のところ、ささくれの患者に共通して見えるのは、どの患者も、深刻な悩みを抱えていると言う点だ。心がささくれ立っている人の手には、ささくれができるとでもいうのだろうか……、悪い冗談だ。

「ささくれには、軟膏を出しておきましょう。それに薪次さん、お仕事はご心配でしょうが、ゆっくりお休みになる方がよろしい。元気な顔をしたあなたになら、きっとお客さんがたくさん来るようになりますよ」

 薪次は、ぺこりと頭を下げて診察室から出て行った。


 その日も遅くまで診察をして、カルテの整理などを片付けてから、家に帰ってきたのは、とっぷりと日が暮れてからだった。

「ただいま」

「おかえりなさい。今日も遅かったですね、お疲れ様」

 彼を迎えるのは、結婚十年目になる、妻の亜沙子。子供はいない。亮介は、ほとんど家にいないので、家のことは亜沙子にまかせっきりである。

「亮介さん……。お忙しいのはわかりますけれど、もう少しお早く……。いえ、なんでも……」

 亜沙子が、言葉を飲み込む。亮介は、亜沙子の言いたいことがわかっているつもりである。何しろ自分は、診療所の定休日である日曜日の他、ほとんど家にいないのだ。


「お風呂に入ってくるよ。食事は自分でやるから、君はもう休んだら……」

 亜沙子を気遣ったつもりで言ったのだが、彼女からは、こんな言葉が返ってきた。

「一日中、久美子さんとご一緒だったのに、私とは、一緒にいたくないとでも仰るんですか……」

 亮介が、驚いて聞き返す。

「なんだって?」

 看護士である久美子と、医師である亮介が、診療所で一緒にいるはあたりまえのことと思っていたが、妻は、それをあまりよく思っていなかったらしい。そういえば、久美子さんは結構美人だな、と思い当たって亮介が言った。

「亜沙子? 久美子さんは、そんな人ではないよ?」

「ごめんなさい、私ったら……。お食事は、できておりますから……。おやすみなさい……」


 亜沙子が悪いのではない、と思いつつ、複雑な思いの亮介。入浴を済ませて、すっかり冷めてしまっている食事に手をつける。料理を温めなおす気力はなかった。

「浮気なんぞ、する暇もないっていうのに……」

 独りごちながら、テレビをつけると、ローカルニュースがやっていた。女子アナウンサーが、大きな病院の前で話している。

「こちら、カクヨム総合病院の前よりお送りしています。病院では、ささくれが痛むと言う患者が急増しているとのことですが、この度、ついに死者がでました」

 そのニュースを聞いて、亮介が飛び上がる。

「なんだって!」


 女子アナウンサーが、続けて話している。

「ささくれは、両手の指いっぱいに広がることを契機に、ささくれから大量の血が噴き出し、そのまま死に至るそうです。ささくれの原因は、現在までのところ、わかっておりません。病院では、かなり混乱しているようです」

「なんということだ……、こうしてはいられん」

 亮介は、食事も半ばに、急いで診療所に戻ってきた。ささくれ患者たちのカルテをかき集める。

「一番症状の重いのは……、薪次さんか。彼は、今日診察したばかりだったが……」


 ダンダンダン!

 突然、診療所の扉を勢いよく叩く音が響いた。どきりとしてそちらの方を向く亮介。何事かと出て行くと、薪次が両手を血で真っ赤にして立っていた。

「先生……、女房が……、女房が出て行っちまったんですよ……。先生……」

 薪次が、両手のささくれから血を吹き出しながら、こちらに迫ってきていた。

「薪次さん、落ち着くんだ! 心を、ささくれ立たせてはいけない!」

 亮介が必死に薪次に呼びかけるが、もう薪次には、何も聞こえないようだった。

「先生……、女房が……」

 薪次のささくれから吹き出る血が、一層激しくなる。周囲が赤く染まった。

「うわぁああああ!!」

 叫ぶ亮介。と、いきなり後ろから肩を掴まれる。

「ヒッ!」


 振り返ると、亜沙子が亮介に掴みかかっていた。

「亮介さん……、こんな時間に、何をやっていらっしゃるんですか……」

 亜沙子の顔からは、血の気が引いていた。亮介の肩を掴む手には、ささくれが……。

「亜沙子、その手……」

「やっぱり、あの人と……、久美子さんと……」

 亜沙子の手のささくれが、みるみる広がっていく。


 その様子を見て、亮介は、自分のこれまでの生活を後悔しだしていた。大事な亜沙子にこんな思いをさせてまで、自分は何をしていたのだろうかと……。

 亮介は、亜沙子をぎゅうっと抱きしめて言った。

「亜沙子、許してくれ……。病院は、しばらくお休みにするよ。二人でゆっくり過ごす様にしよう」

「本当に……?」

 亜沙子は、そのまま倒れてしまった。ささくれは、それ以上広がることはなくなった。


 あれから数日が過ぎた。

 あの日、倒れた亜沙子を自宅まで運んでベッドへ寝かせた後、警察に通報して、救急車も呼んだが、結局薪次は助からなかった。警察からは色々聞かれたが、すぐに容疑は晴れた。テレビのニュースでは、今日も謎のささくれについて報じている。


 リビングでテレビのニュースを見ていた亮介に、亜沙子が声をかけた。

「お茶が入りましたよ」

 満ち足りたような笑顔を見せて、亜沙子が亮介の前に紅茶を置いた。亜沙子が入れてくれた紅茶を啜りながら、亮介は幸福を感じていた。いい香りだ……。


 亮介は、これまでの自分の生活を振り返って考えていた。自分は、自分や家族の幸福より、町の人々の幸福を優先して働いてきたが、それは誤りだったのではないか。きっと、他人を幸福にするためには、まず自分が幸福でなければいけないのだ。少なくとも、自分はそうなのだ、と。

 診療所を再開するときには、もう自分や家族を犠牲にするようなことはすまいと、固く心に誓う亮介だった。


Fin

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町医者、亮介の幸福 マキシ @Tokyo_Rose

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