第5話 コウモリ

 今回の事件において、防犯カメラの映像において、

「実際に犯人と思しき人物画、何となくではあるが映っている」

 という認識を鑑識は抱いていた。

 殺された男には、実際に殺されるだけの動機があるようだった。

 これも、証拠とするには、決め手には欠けるが、どうも、

「殺されても仕方がない」

 という意識があったようだ。

 というのも、殺害された男は、例の、

「外国人犯罪集団」

 と言われる人たちと、かかわりがあるかのように言われているようだった。

 ただ、曖昧なところがあり、間違いないというところまでは、一歩も二歩も、遠いところがあるということだった。

 しかし、

「それを決定づけるような証言をした人物がいる」

 ということが、実しやかに囁かれているということを聞いたことがあった。

 そんなことを考えながら、聞き込みを行っていると、

「どうも殺された間宮という男が、外人たちからは、徹底的に嫌われている」

 ということ、さらに、

「日本人からも嫌われている」

 というのであった。

 その度合いというのは、圧倒的に、外人からの方がきつい。

 それは、正直に見た感じではなく、

「日本人というものが、お花畑にいる、一種の平和ボケをしている人種だからだ」

 ということであった。

 つまり、日本人は、法律だけではなく平和主義であった。

 だから、騙されることを分からない。特に外人たちのような連中からは、育った環境や、考え方から、日本人は、ついつい信じてしまう。

 特に、政府から、

「外国人擁護:

 というような政策を取られることで、

「外国人は大切にしなければいけない」

 という考えになり、さらに、

「外国人のいうことを素直に聞かなければいけない」

 と、まるで、小学校の先生に言われているかのような感覚になるのだろう。

 本当は、聞いたうえで、そこで自分が判断をしないといけないはずだ。そうでないと、もし、後悔することになれば、その後悔の持っていき場所に困るからである。

 平和ボケをしていると、

「政府が擁護しているのだから、安心だ」

 と、人を信じることが、美徳だと思い込んでしまい、まるで、

「政府から、洗脳されてしまったかのようだ」

 ということになるのだった。

 そう考えると、

「外国人は大切にしなければいけない」

 と感じたり、

「仲間だと思って接しなければいけない」

 などと思うのだが、相手は、その何十倍も何百倍も、したたかなのだ。

 それを思うと、日本人というのは、騙す方からすれば、

「これほど騙しやすい人種はいない」

 ということであろう、

 心の中でだったり、自国内であれば、いくらでも、日本の悪口などを言えるのだろうが、ひとたび日本に来て、

「適当に煽てておけば、すべて、こっちの思うつぼ」

 というくらいに感じていることだろう。

 それを思うと、

「これほど、扱いやすい国はない」

 ということで、実は、彼らが眼をつけたのが、殺された間宮だった。

 その理由というのは、

「混血だ」

 ということであったのだ。

 賢明な読者の方は、

「卑怯なコウモリ」

 という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 これはイソップ寓話の中のお話であるが、

「昔、獣と鳥が戦争をしていた時のことであり、その時に、コウモリというのは、獣に向かっては、自分の身体には、体毛が生えているということで、自分は獣だといい、逆に、羽根が生えているということで、自分は、鳥だといってうまく立ち回り、逃げていた」

 というお話である。

 しかし、

「この後、時間が経つにつれ、戦争は次第に落ち着いてきて、最後には和解が成立し、戦争は終わった。その時、コウモリのことが問題になり、獣からも、鳥からも、やつは卑怯者だと言われ、鳥にも獣にも姿を見せることができなくなってしまたコウモリは、暗い洞窟の中で、人知れずに暮らさなければいけなくなった」

 というお話であった。

 つまりは、

「周りからハブられてしまい。コウモリは暗く、ジメジメした洞窟で、生息することしか許されず、結果、目が見えなくなってしまった」

 ということになるのだろう。

 ただ、このお話は、もちろんのこと、寓話ということなので、事実ではないだろう。

 フィクションというお話を考えるうえで、

「コウモリというのは、暗くジメジメした、寂しいところで暮らすことを余儀なくされてしまった」

 ということの、

「理由付け」

 を考えると、このような、

「卑怯なコウモリ」

 というお話ができあがったということになるのだろう。

 このお話は、いろいろな話として、使用される元ネタになっていることが多い。それだけに、現実のお話に、置き換えることもムリなことではなく、実際に、外人組織に、利用されることになったのだ。

 混血というのは、ある意味、肩身の狭い思いをしていることが多いかも知れない。

 戦後すぐであれば、その混乱から、混血児が多かった。

 もちろん、社会問題となっていて、混血児にとっては、

「溜まったものではない」

 という時代であったが、時代が落ち着いてくると、社会から受け入れられるようになってきたことだろう。

 だから、そんなに、当時は混血児が珍しいということはなかったが、今の時代では、なかなかそうもいかない。

 さらに、実質、

「人種差別」

 などというのは、基本的に、コンプライアンスなどの問題から、

「差別してはいけない」

 と言われるようになり、そこまで問題になることはなかった。

 しかし、混血となると、別であった。

 一部の人たちだけなのかも知れないが、

「混血というものを、恐れているというのか、気持ち悪がっている連中がいる」

 ということであった。

 それは、気持ち悪がる連中にも、それがなぜなのかということが分かっていなかったのだ。

 要するに、自分の発想の中で、

「説明はつかないが、ただ気持ち悪く思う」

 と、感じている本人にも、その理由が分かりかねていたが、その理由を解き明かす一つのキーワードとして、

「卑怯なコウモリ」

 という話が出てきたというのは、何ともいえない、皮肉なことだったのだ。

 そういう意味では、このお話は、

「昔からいわれていることで、今後もずっと言われ続けることになるに違いないのではないか?」

 ということであった。

 コウモリという動物は、目が見えないということであるが、そのために、超音波を出して、

「まわりの障害物に反応し、物体の存在を知る」

 ということであるが、それだけ、

「コウモリというのは、音に対して特化しているので、耳はいいということになるのだろう」

 ということになる。

 ただ、これは、ほとんどの動物にいえることではないだろうか?

 あくまでも、

「人間と比較して」

 ということになるのだが、どの動物も、何かに特化しているという風に見えてくるのではないだろうか?

 例えば、犬であれば、

「嗅覚が、人間の数百、いや数千倍発達している」

 と言われてみたり、ネコであれば、

「暗闇で見える目であったり、高いところに飛び移るだけの飛翔力であったり」

 と、とても、人間にはまねのできないものを持っているのではないだろうか?

「卑怯なコウモリ」

 というものも、確かに、寓話の中では、

「卑怯なもの」

 ということで描かれてはいるが、鳥や獣などのような動物たちに比べて、特化したものを持っていなければ、みすみす殺されるのを待つだけになるではないか。

 何とか生き残ることを考えれば、

「何か、自分たちが他の動物に特化したもの」

 ということで考えたのが、あの方法だったのではないだろうか?

 それを考えると、あのような、

「卑怯なコウモリ」

 のような、方法であったとすれば、

「秘境だ」

 といって、断罪するっことが果たしてできるであろうか?

 そんなことを考えると、コウモリだけではなく、人間も、他の動物に特化したものはない。そういう意味では、

「頭を使って、勝ち残るしかない」

 と考えると、この時のコウモリのように、

「いかに危機から逃れるか?」

 ということになるのであろう。

 昔からいわれるように、

「神は二物を与えず」

 という言葉があるが、なかなか、武勇も、頭脳も兼ね備えているというのは、難しいものである。

 少なくとも、努力をしないと叶えられないもので、その努力というものも、少なくとも、柔軟な発想ができなければ難しいだろう。

 ということになると、頭脳を使えないと、どちらもできないということになり、そのかわり、人間のように、五感が突出していることがないため、その方法を創意工夫により手に入れるしかないということになる。

 だが、これは、

「逆も真なり」

 ということでもあり、

「人間は、何も特化したものがない」

 と思い込んでいるのは、それを補うものが備わっているからであり、

「意外とその特化したものを見逃しているのかも知れない」

 と言えるのではないだろうか。

 というのは、

「策を弄する人間は、意外と同じことをされるということに、気付かないものだ」

 と言われている。

 実際に命中することなく、紙一重のところに命中している場合に、気付かないということも往々にいてあるもので、そこに、なかなか気づかずに、

「灯台下暗し」

 ということになるのだろう。

 今回の犯人に対して、このようなコウモリを発想したのは、

「被害者が、混血だ」

 ということだった。

 迫田刑事は、事件の途中から、違和感のようなものを感じていたが、その違和感がどこからくるものなにか、正直分からなかった、

 何しろ、このビルの構造と、さらにそれをややこしくする、管理者のずさんな計画が、話をややこしくしているように感じたのだった。

「そもそもの何が悪いというのか?」

 まずは、

「最初から一階を店舗にするという計画をしているのであれば、店舗内部、あるいは、その近辺にトイレを作っておかなかったのか?」

 という、ある意味、

「基本中の基本」

 ともいうべきことではないだろうか?

 さらに、もう一つは、

「トイレがない」

 という問題が発生した時、その時点で、

「トイレを作るなどという、抜本的な計画を打ち出せばよかった」

 ということである。

 二階にある教室が、

「トイレを貸してくれる」

 ということでの、安直な道を選んだため、教室が退居した後のことまで考えていなかったという、

「あまりにも策のなさ」

 ということが、さらに、話をややこしくさせた。

 そこへもってきて、

「やっとトイレを作らなければいけない」

 ということになった時、他のテナントとの差を、エントランスで取っていたため、

「エントランスにトイレを作らなければいけない」

 となった時、大いなる問題となって、戻ってきたのだ。

 いわゆる、

「ブーメラン」

 とでもいえばいいのか、

「因果応報」

 ということである。

 トイレを作ったはいいが、それがエントランスであるがゆえ、他の会社が警備を掛けたとしても、他の会社は、ほとんどのところが、夕方6時までの営業で、たまに残業するところがあるくらいで、それ以外とすれば、地下の歯医者であるが、ここも、週の半分だけ、夜の9時までやっているわけで、一曜日などは、午前だけで、昼からは警備が掛かった状態ということになる、

 それを考えれば、

「新しくトイレを作ったことで、どれほど歪な警備体制になったか?」

 ということである。

「非常口から、トイレまでは警備を掛けられず、それ以外のところは、警備が掛かっている」

 ということ。さらには、

「警備が掛かっていても、弁当屋は、23時まで営業しているので、非常口は閉められない」

 ということが問題になる。

 つまり、

「非常口側には、まったく警備も掛かっておらず、しかも、扉も開けっ放しということである」

 それを考えると、一番の解決方法として、

「すべての扉は施錠し、エントランスの玄関の警備まで、弁当屋にやらせる」

 という、

「一階の店舗だから」

 という差別的な発想を最初から撤廃していれば、問題は起こらなかったわけだし、

「ひょっとすると、殺人事件だって起きなかったかも知れない」

 と言えるのではないだろうか?

 後からでは何とでもいえることだが、管理会社としては、それくらいのことを分かっていて当たり前だと思うのは、厳しいのだろうか?


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