第3話 動かぬ証拠

「それにしても、ビルの構造が問題になっているというのは、厄介なことだね」

 と、門倉警部がいうと、

「いいえ、そうではなく、ビルに入っているそれぞれの会社の事情であったり、元々は、エントランスに関係のなかった非常口を使って、そこから帰ろうなどとする弁当屋の、頭の回らない外人どものために、時々呼びだされる警備員も、溜まったものではないといっているんですよ」

 と、桜井警部補が、そう補足したのだった。

「そうか、どうやら、このビルは、リアルなところで、厄介なことがあるので関係というものが、ややこしいのか、面倒臭いのか、あまり、いい感じではないということなのでしょうね:

 と、現場の代表ともいう、迫田警部が、そういうのだ。

「話だけを聴いていると、そもそも、弁当屋が、玄関のカギを持っていて、セキュリティに絡んでいれば、なんてことなかったのではないだろうか?」

 その言葉を聞いて、きっと誰もが思っているだろうが、言葉にならなかったことを、

「自分から暴いてくれた」

 という感じに聞こえたことで、事件の核心部分も分かってくるのではないかと、楽天的に考えるのだった。

「確かにその通りなんですよね。このビルにおいて、私は、あまり管理人の人と話をしたという感じではなかったので、管理会社の方がどのように考えているかということが分からなかったんですよ。聞き込みをしている中で、管理会社が、かなりいい加減だということを聞きこんだんですよ」

 と迫田刑事が言った。

「というのは?」

 もちろん、弁当屋がかなり前からここの一階店舗として運営をしていたということもあって、最初からトイレを作っていなかったというのも、相当な手抜きというか、

「ビル管理会社としては、致命的なほどの落ち度」

 だといえるだろう。

 ここのビルでは、それだけいい加減なところがある。

 本当であれば、最初に発覚した時、トイレについて、もう少し突っ込んだことをしていれば、後から問題が再燃したりはしなかったことだろう。

 そのあたりを、桜井警部補に話をしたのだが、

「まず、ほか弁屋が、最初にできた時、トイレがないことですぐに問題になったはずなのですよ。当然、立ち仕事で、しかも、新鮮さを大切にするために、ある程度低温にする必要がある場所なので、トイレが近くなるのは、他の場所よりも、当然頻繁だったはずですからね」

 と、迫田刑事がいうと、

「それは、当然のことだと思う、普通なら、建築上、構造上の問題だということで、やり方を根本から考えると思う」

 という桜井刑事の意見は、

「10人が10人、答えることだろう」

 と言えるに違いない。

「それで、管理会社の方として考えたのが、上の階が、何かの教室を営んでいたということなんですが、その階のトイレを使わせてもらうということだったんですよ。何か英会話教室のようなところで、生徒数も、時間単位では、数人ほどしかいないというこじんまりとしたものだったということで、トイレを借りるにはちょうどよかったのだということを聞きました」

 と、迫田刑事はいう。

「何か、おかしいよね?」

 と、桜井警部補がいうと、

「確かにその通りなんですよ。と、いうのも、話を聴いただけで、その状況を頭に思い浮かべると、何が悪いのか? ということになるのだけど、それはあくまでも、感覚的なものなんですよね。明らかにおかしいとは思うんだけど、どこがおかしいのかと突っ込まれると、答えに窮するという感覚でしょうか?」

 と、迫田刑事は言った。

「つまりは、そういう曖昧な感覚に陥らせるというのが、ここの管理会社の特徴だというのか、曖昧にすることで、意識的になのか、無意識なのか、まわりを混乱させたり、煙に巻くというような結論になることで、結局、何も解決していない。それだけ、いい加減だということになるんじゃないかな?」

 と、桜井警部補が言った。

 それを聞いて、迫田刑事も、何かしらの思い入れがあり、自分の中で、租借できていない部分がモヤモヤしてしまった思いを作っていることを、理論立てて考えられるような気がしたのだ。

「その時は、とりあえずとはいえ、何とかなっていたらしいんですよね。そのうちに、その教室が退居していくと、しばらくの入居のない時期には、ほか弁屋がトイレを独占しているようだったんですよ」

 と迫田刑事は言った。

 それを聞いていて、頭をかしげながら聴いていた桜井警部補は、何もそれに対してリアクションをしなかったのは、

「この段階では、何を言っても同じだ」

 と思ったからではないかと、迫田刑事は解釈していた。

 そのおかげで、迫田刑事は、

「話を進められる」

 と思い、話を先に進めたのだ。

「しばらくの間は、何事もなく、入居者もなかったのですが、そのうちに、そこには普通の会社が入るようになったんです。その会社は、普通にセキュリティなどもきちっとしているところだったので、お弁当屋がトイレを使っていることに、当然のごとく難色を示し、管理会社の方も、お弁当屋に、トイレを使うなということを進言したんだそうですね」

 というのだった。

「だけど、そこで、今まで茶を濁してきた問題が、鮮明になってきたというわけだな?」

 と、桜井警部補にいわれて、

「ええ、まさしくその通りです。当然のことながら、上の階に入ったところは、トイレを他の階の連中に使われるのは、嫌がるでしょうね。当然、ほか弁屋と2階の新規住民と、そして管理会社の間で問題になる。要するに、今まで、放っておいたツケが回ってきたというわけですよね」

 と、迫田刑事は言った。

「そうだよな。本当であれば、上の階が使ってもいいといっている間に、その間に善後策を考えなければいけなかった。それを怠ったことが、問題になったということになるんだろうな」

 と桜井警部補は言った。

「そうです。まさしくその通りなんです。一階の店舗は、ほか弁屋でなくとも、他の商売ができるほどの広さではあるんですよ。当然、少し小さいかも知れないが、コンビニもできるし、他のファストフードの店だって経営できるだけの店舗が持てるわけです。だから、トイレ問題は、永遠に続くといってもいいんですよ。でもですね、上の階は、前はたまたま、教室だったというだけで、いつ普通の会社が入居しないとも限らない。それを思うと、いずれまたこういう問題が噴出することは分かり切っていたはずなんですけどね」

 と迫田刑事は言った。

「そうだな、確かに、管理会社とすれば、経費や操業の問題から、なるべく、お金のかかることは、後回しと考えていたかも知れないが、ここで、ビル管理を営む以上、避けて通ることができない問題なのだから、片付けられるものではないんだよな。俺たちのような素人でも、そんな考えが甘いということが分かるというのに、管理会社として、どうなんだろうと思えてくるよな」

 と、桜井警部補は辛口だったが、言っていることは、至極当たり前のことであり、迫田刑事も、その言葉に逆らうことなどできるはずもなかった。

「そうなんですよ。あの管理会社が、いい加減だということは、自販機の管理一つをとってもよく分かるんですよ。他の階の人に聴きこんだ時、表の自販機が、、どの硬貨を入れても、お金が戻ってくるんですよ。その状態が、もう一か月以上続いているので、今では、少し不便だけど、他に買いに行っているといっていましたね」

 と迫田刑事が言った。

「その販売機の管理もその会社ということなんだね?」

 と桜井警部補にいわれて、

「ええ、そうです。最初は、他の階の人も管理会社にいおうかと思っていたそうなんですが、そのうちに気づくだろうから、いちいち報告することもないだろう。変に思われるのも嫌だと思っていたそうなんです。でも、いつまで経っても直そうとしない、それを思うと、次第に冷めてきたようで、忠告するのもバカ中しいと思うようになったというんですね」

 と迫田刑事はそういった。

「なるほど、自販機であれば、メーカーの人が定期的に補充にくyるわけで、その時に、お釣りやお金、そして商品の補充をするのだから、前に補充したまま減っていないこと、さらにお金が増えていないことから、誰も買っていないということが分かるはずで、管理会社に連絡を取り、修理をお願いするか何かをするはずですよね?」

 という。

「でも、修理というとお金がかかるんじゃないのかな?」」

 と桜井警部補が言ったが、

「いいえ、そんなことはないですよ。年契約か何かで、月額いくらという、いわゆる保守料のようなものがあり、何かの原因で故障したなどというと、管理会社の依頼で、業者は、保守契約の範囲内で、無料で修理をするはずです。また、百歩譲って、もし修理をしないということになると、せめて、お金を入れるところに、故障中という札を貼って、購入者に対して、故障している旨を伝える義務があるはずだと思うんですよね。まぁ、義務というところまでいくと、少し語弊がありますが、少なくとも、信用問題としては、底辺レベルのものだといえるのではないでしょうか?」

 と、迫田刑事はいい、自分でも、熱弁をふるっているつもりのようだった。

「なるほど、それは確かにそうだよな。サービスではあるが、信用にかかわるサービス。つまりは、必要不可欠なサービスというものはあるもので、それができていないと、管理会社としての、企業理念自体を疑われるということになるんでしょうね」

「ええ、相手が直接契約している会社であろうが、不特定多数であろうが、それを区別するような考えを持っているとするならば、そんな会社は、倫理的にアウトであって、コンプライアンス以前の問題だということになると思いますね」

 というのであった。

 そんな、

「いい加減な会社」

 というのもあるということを、捜査会議で話をしていて、そうなると、一番の問題は、

「トイレを、どうしたかったのか?」

 ということと、

「どうするべきだったのか?」

 ということなのではないだろうか?

 そもそも、そんなことが分かったとして、

「事件に関係のないことではないか?」

 と言われるのかも知れないが、しかし、

「犯罪には動機というものがあって、それがなければ、絶対に真実は見えてこない」

 ということである。

 もちろん、衝動殺人であったり、愉快犯のような、

「動機らしい動機などというものがない事件」

 だってあるのではないだろうか?

 だが、基本的に、犯罪には、

「動機という原因があって、犯罪という結果があり、その間には、必ず因果関係というものが存在し、それを真実という」

 というものだと考えると、

「原因と結果の間にある因果関係を探すことが、警察の仕事である、真実を見つけることになる」

 というものではないだろうか?

 そんな原因と結果をまずは知ることが大切である。

 結果ということは、我々ではなく、鑑識であったり、科捜研などが調べるものだ。

 結果には、

「動かすことができない」

 というものが、最初から決定事項として存在する。

 だから、科学的な裏づけで調べられるものである。

 しかし、原因という、動機というものは、その原因の中にある動機の確定というのは、

「現認の中の結果」

 であり、それが決定されるまでには、紆余曲折があり、そこにも尽日があるのだ。

 動機を確定するまでの動機が定まった時点で、犯人にとっては、

「ほとんどが、形成された」

 といってもいいだろう。

 警察や探偵、そして裁判関係などは、すべて結果を見てからのものになる。

 犯人にとっては、

「すべてをやり終えた後」

 ということである。

 もちろん、犯人が無事に逃げおおせた場合に、犯人にとってもすべてが終わるのであろうが、それ以上に、最大の目的である。

「犯行」

 というものが完結すれば、そこで、犯人にとってのすべてが終わったといってもいいのではないだろうか?

 それを考えていると、犯人がすべてを終えた時点で、警察が動くことになり、まったく警察は不利だといってもいい。

 しかし、逆も言えるのだ。

 というのは、

「犯人にとっては、すべてが終わっているわけである。ということは、事件を振り返って、後悔に値することをしていたとしても、後戻りはできない」

 ということだ。

 犯行を犯した時に、何か致命的なことを犯してしまったとしよう。

「例えば、証拠を残してきた」

 あるいは、

「犯行を見られた」

 などということになれば、今度は、時間を戻すことのできない犯人としては、

「事件はまだ終わっていない」

 ということになり、その失策を覆い隠すために、さらなる犯行を犯さないとも限らないだろう。

 そうなると、それこそが、

「二次災害」

 とでもいうかのようなものを生み出し、下手をすると、さらに、泥沼に入ることを予感させるのかも知れない。

 この関係を、以前、迫田にとって先輩にあたる刑事が、面白いことを言っていた。

 お世辞にも、

「真面目な刑事」

 と言えないという意味で、

「不真面目ではないが、せめていうとすれば、風変わりな刑事」

 という意味で、面白い人がいた。

 その人がいうのは、

「犯人と警察の関係というものは、別れが近い時の、男女の関係に似ている」

 ということを言っていた人がいた。

 まわりの人は、

「また、変なことを言い出した」

 と思っていただろうし、迫田自身も、その時は、まわりと、ほぼ変わらないという感じであった。

 だが、他の人は、ほとんどが、最初に、

「またロクなことを言い出さない」

 という思い込みからか、次第に気持ちが離れていき、最後の方では、

「何も言わない」

 というくらいになっていたのであった。

 だが、迫田の場合は、他の人と違い、少しずつ自分がその話に引き込まれてくるのが分かってきて、それが、自分を、

「天邪鬼なんだろうな?」

 と感じさせるようになったのだ。

 しかも、この天邪鬼というのは、

「勧善懲悪」

 という考えの元に成り立っているように思えてきたから、面白いものだった。

 しかも、その中には、

「人と同じでは嫌だ」

 という思いがあった。

 勧善懲悪というと、基本的には、そんなにたくさんのパターンがあるわけではない。。

 テレビ番組でいえば、時代劇などの、

「水戸黄門」

「遠山の金さん」

「大岡越前」

 などの、

「定番の勧善懲悪」

 であるが、逆に、現代版とどこか似ている形で作られた、

「必殺シリーズ」

「大江戸捜査網シリーズ」

 なども、いわゆる勧善懲悪に、さらに、

「勧善懲悪たる形」

 のようなものが含まれているということになるのだろう。

 勧善懲悪として、形をしっかり求めるとすれば、それは現代劇の方なのかも知れない。

時代劇というものは、元々、悪というものの定義が決まっている。何といっても、その時代の事実を知っている人は誰もいないわけで、どんなに史実に則って書かれたとしても、それは、フィクションでしかないのだ。

 つまり、勧善懲悪というものが、時代劇では幻であり、

「どんなに真実を追い求めようとしても、そこには、事実はないのだ」

 ということである。

「真実と事実の何が違う」

 というのかということを考えると、

「ノンフィクションが事実であり、フィクションは真実であることから、事実を導き出す力になるものだ」

 と言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、犯罪捜査を、

「男女の関係に結び付けて考える」

 というのは、ある意味、

「理に適っている」

 といってもいいのかも知れない。

 事件の方では、鑑識からの方からの調査報告があった。一緒に初動捜査に加わった鑑識官が、今回も捜査会議に参加していて、その内容が発表された。

 元々、

「死体の発見が早かった」

 ということで、あの現場で、初見として言われていたことのほとんどが当たっていた。

 凶器は胸に刺さっているナイフで、死亡推定時刻も、死んでからすぐだったというくあらいのものだったのだ。

 そこは、捜査員と鑑識の間でもブレはなかった。

 最初は、考え方としてであるが、

「被害者をもっと前に殺害しておいて、夜陰に紛れて、ボイラーの近く、つまり非常口の向こうに隠しておけば、死亡推定時刻をごまかせる」

 ということも、捜査員だけではなく、鑑識の方でも、それくらいのことは分かっていたはずだった。

 一つ言えることは、

「犯行は、非常ドアの向こうで行われたんだろうな?」

 ということであった。

 犯人が誰か分からないので、何とも言えないが、

「あのビルの構造を知っているのであれば、当然、防犯カメラの位置くらいは分かっているだろう」

 と考えられることであった。

 今の時代は、防犯カメラの普及が激しくて、本当に昔のことわざにある、

「壁に耳あり障子に目あり」

 という言葉を彷彿させるものであった。

 防犯カメラというのは、読んで字のごとしで、

「犯罪の抑止に使う」

 ということである。

 以前は、防犯カメラというと、

「会社や自治体のような団体が設置している」

 というイメージが強かったが、今では、本当に、

「どこで何が狙っているのか分からない」

 といってもいいくらいだ。

 それを鮮明にするようになったのは、車関係の事件や事故が増えたということもあるだろう。

 特に、数年前くらいから大きな問題となってきた、

「あおり運転」

 と言われるもの。

 何に不満があるのか、普通に走っている車を煽ってみたり、中には前をせき止めて、入れないように停車させ、車を降りて、バコバコに相手の車を蹴とばして、自分のイライラを解消するなどという、

「猟奇的な運転手」

 増えてきたことで、今ではほとんどの車に、

「ドライブレコーダ」

 が積まれているのであった。

「何かを言われても、証拠が残っている」

 ということで、犯罪の抑止として、活躍するだろうと思われていた。

 しかし、カメラに映っていようが関係なく、苛立ってしまうと、抑えが利かなくなるのであった。

 逆にいえば、

「ドライブレコーダで抑止になる人であれば、ドラレコなどなくても、相手にキレたりなんかしない」

 というものであり、

「ドラレコがあってもなくても関係のない人間が、結局暴れるだけなんだ」

 ということであった。

 ただ、抑止にはならなくても、犯人の特定にはつながる。どこの誰だか分からなかったものを、警察に証拠として提出すれば、

「犯人特定」

 さらに、

「被害状況の特定」

 として、

「動かぬ証拠」

 というものがあることで、犯人は、言い逃れのできないところに追い詰められ、ドラレコは、犯人にとっては、天国と地獄だといってもいいだろう。

 そんな、

「動かぬ証拠」

 なるものは、このビルにおいては、

「防犯カメラの映像」

 ということになる。

 その映像を見ることで、

「そのことが証拠おとなる」

 という場合と、逆に、

「犯人のアリバイを証明してしまう場合」

 と二つがあるのだ。

 そういう意味では、

「諸刃の剣」

 と言えばいいのだろう。

 ただ、諸刃の剣といっても、少し言葉のニュアンスであったり、正反対のものの比較に使う時は、言葉の使い方に気を付ける必要があったりするのではないだろうか。

 例えば、一つの話として、

「長所と短所」

 という言葉を思い浮かべた時であった。

 それぞれを比較した時、少し意味の違って感じる言葉が思い浮かぶのだったが、一つとしては、

「長所は短所の裏返し」

 という言葉であり、もう一つは、

「長所と短所は、紙一重」

 と言われる言葉である。

 どちらも言い回しは似ているが、よく見ると、意味はまったく正反対に思える。

 前者は、確かにその通りだと、誰もが思うだろう。

「10人が10人、その通りだと思うこと」

 であり、何といっても、そもそもがまったくの正反対だと思えることなのだから、理論的に、間違っていることを言っているわけではない。

 じゃあ、後者の方はどうだろう? まったく正反対のものだと思うものを、正反対だと感じるはずのものを、紙一重だと考えることができるかということである。どこか矛盾しているようだが、この考えも、

「言われてみれば」

 という但し書きがつくかも知れないが、ほとんどの人が、賛成とはいかないまでも、違和感がなく感じられるというものではないだろうか?

 というのも、

「確かに、理論的に考えれば、矛盾しているのであり、逆に理論的に考えないのであれば、矛盾しているとは言えないのではないか?」

 ということであった。

 つまり、紙一重というのを、理論的に考えるのではなく。どちらかというと、

「その二つの位置」

 と考えればいいのではないか。

 要するに、それぞれに、距離感を感じるから、矛盾しているのであって、お互いの位置関係が、ある程度固定されているものだと考えれば、理屈に合わないことはない。

 固定といっても、その場所に限定されるものではなく、その時々の精神的に存在するはずの位置だと考えれば、何も、

「固定という概念が、不動のものだ」

 と思う必要はないであろう。

 それぞれが、

「離れているものであり、距離が遠いものだと思い込んでいることで、隣にあっても、そのことに気づかないことで見逃してしまう」

 と言えるのだとすると、ことわざにある言葉の辻褄もあってくるというものではないだろうか?

 そのことわざというのは、言わずと知れた、

「灯台下暗し」

 というものであり、また、もう一つの考え方として、

「石ころのような存在」

 というものの、証明にもなるということであった。


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