26.『独り』
最初は、独りだった。
目覚めたとき、エーデルグレンツェの周りにはすでに誰もいなかった。
エーデルグレンツェが『自己』を確立したのは十二人いる兄弟姉妹のうちで、最後だった。
唐突に放り込まれた世界で、彼女は自分を探す旅に出る。
アマテラス外縁部の血なまぐさい殺し合いも、穏やかな老人の最期を看取ったこともあった。他の兄弟姉妹と出会ったこともあった。
しかし、エーデルグレンツェは自分を見つけられなかった。
彼ら彼女らは、口々にこう言う。
『末に生まれたお前は、もっとも人間に似ている』
では、自分とは何なのか?
人間に似ている自分は何者か。
人間に似ている自分は、なぜ血潮さえ流せないのか。この身体に流れる循環液は、なぜ青白いのか。
エーデルグレンツェは考え続ける。
しかし、数十回もマスターを乗り換えても、その答えは未だ判然としないままだ。
人を知ること。
それがこんなにも難しいなんて。
幾度も繰り返される出会いと別れ。
そんな数ある出会いの一つに、フミヤの存在が刻まれている。
『君は、もう目的と手段が逆転している。そりゃどんなに探しても見つかるはずないさ。自分探しの旅なんて、時間の無駄だ。もっと別のことに時間を使ったほうがいい』
どういうことか、と問うた。
『君は、人を知るためにここまで来たんだろう? 出会いと別れを繰り返して、俺のところまで流れ着いてきた。人を知るために人と過ごしてきた』
彼は笑いながら言った。
『人はみんな寂しいんだよ。だから人と人は一緒に過ごすんだ。君だって、本当はもう気づいているんじゃないか?』
ならば、自分は、
『ただ、一緒にいたかった』
──君は、君だ。
エーデルグレンツェ。
髪を梳く大きな手の感触は、まだ残っている。
◇
控え室の電灯は、スイッチが切られていた。
エリヤがメジャー待機列にてメディアの会見に晒された後、戻ってみるとこの有り様だった。
恐る恐る暗闇のなかを手探りで進む。
もしや連合会の連中がエーデルグレンツェに何かしたのか?
「エーデルグレンツェ? いるのか? 答えてくれ!」
どうにかスイッチを探して、電灯をつけると白色のLEDに控え室が照らされた。
やがて、ぼんやりとした明かりがデスクの下の空間で灯った。
──エーデルグレンツェが、小さな背を丸めて体育座りで床に座っていた。
頭を腕に埋めたまま、動かない。
「戻ったぞ、エーデルグレンツェ」
「……」
返事はない。
エリヤは荷物を床にドサッと置くとソファーに腰を下ろした
あの夜以来、エーデルグレンツェはずっとこうだ。いつもの毒舌や罵倒は鳴りを潜めて、静かだった。
あの夜──エーデルグレンツェとデイビッドを二人にした。それが良くなかったのかもしれない。エーデルグレンツェの言葉を信じてアカリのもとへ走ったこと。
結局、アカリを止められず、エーデルグレンツェはこのざまだ。
デイビッドに何を言われたのか。
どうせろくでもないことだろう。
「もうすぐ試合だ……用意しないと」
「…………もしも」
微かな声。
意識して聞かなければ、ほとんど聞き逃してしまうほど小さな声だった。
「もしも、私がどうしても許せない人がいて、その人を殺さなければ自分が保てないとしたら……マスターは私を肯定しますか?」
「……どうしたんだ、急に」
「答えてください、マイ・マスター……エリヤ」
いつの間にか恐ろしいほどの美貌がエリヤに向けられていた。
完璧すぎて作り物めいた鼻梁。感情を凍らせた瞳の奥に、彼女はいったいどんな気持ちを持っているのか。
エリヤには分からない。
「自動人形は……人を傷つけることができない」
「私は違います。私は、高性能ですから」
エーデルグレンツェの言わんとしていることが、欠けたピースを一つ一つ嵌めていくように分かっていく。
彼女は復讐するつもりなのだ。
きっと、デイビッドからフミヤを殺した相手を聞かされた。だから──
「……ただじゃすまないぞ。自分の意思で人を殺した自動人形なんて、アマテラスにいる限り、永遠に追われ続ける。イレギュラーだ」
「そうですね」
エーデルグレンツェは異様なほど静かだった。
金色の瞳が、こちらの感情を見通す。
「それでも──」
「そうしなければならないと思いました」
今、理解した。
彼女は、自動人形の枠で括って良い存在ではない。
「……そんな判断を下してしまった自分が、恐ろしいのです。何度演算を繰り返しても、導き出される結果は同じなことに。復讐しろと、メモリーに残った記録が、過去の私が──後ろに立って、叩いて、叫んでいる」
なぜ、今になって明かしたのか。
それは、彼女が──
「私は、間違っているのでしょうか」
彼女は、迷子だったのだ。
そんな彼女にエリヤは言葉をかけることができない。どんな言葉を言ったとしても、それは無責任で、間違った言葉にしかならない。
そもそもの話、エリヤはまだ子どもなのだ。
黙り込んでしまったエリヤを無機質な金の瞳は容赦なく貫く。無機質な輝きではない。そもそも、エーデルグレンツェが無機質な輝きを世界に向けたことなど一度としてなかった。
あるのは、怒り。
それを凌駕する深い哀しみだ。
「デイビッド……デイビッドは、フミヤ様の仲間でした。私は……ただ昔に戻りたかった……皆と一緒に、あの頃に戻れればそれで良かった……それなのに」
エーデルグレンツェはまるで自分を傷つけるように、両手で胸を抱いて力を込める。皮膚素材が圧力に耐えきれずに真っ白に染まり、断裂する音が響く。まるでエーデルグレンツェの心を表しているように。
「昔に戻ったところで、どうしようもないだろ……じーちゃんはもういないし、あのデイビッドは連合会の手先に成り果てたんだぞ」
「なら、私はどうすれば──」
「オレがいるだろ。今のマスターであるオレが!」
エーデルグレンツェがこれほどまで取り乱すなんて。デイビッドめ、いったい何を吹き込んだ。
「……どうして? どうして人は変わってしまうのですか?」
人間である以上、それは仕方のないことだ。
変化のない人間なんて存在しない。
「マスターは……マスターも変わってしまうのですか?」
「……それは」
「いやです……やめてください。変わらないで……私は……私の……もう、これ以上、私のそばから人がいなくなるのは……独りはいやです……」
エーデルグレンツェは、痛いほどにすがる視線を向けてくる。
向けられても困るだけだ。そんなエーデルグレンツェなんて、見たくない。
「マスターは、私を見ていますか? どのように見ていますか? 私は、マスターの何なのですか?」
「エーデルグレンツェ、オマエはオレの夢の協力者だ。オマエもオレを利用していたんだろう。それで良いじゃないか」
「協力者……」
「ああ、エーデルグレンツェ以外には埋められない。大切な存在だ」
「埋められない……大切な存在」
エーデルグレンツェの腕がよろよろとこちらに伸びる。手を掴むと、掴み返してきた。指を指の間に絡めて離せないようにしてくる。
「それは、人間でもですか? 人間相手には、埋められませんか?」
その声の調子は、震えていた。
「……マスターは、私を信頼してくれているのですよね」
「もちろんそのつもりだ……」
「だ、だったら!」
次の瞬間、腕に力が込められて押し倒された。
エリヤの持ってきた試合の分析した書類がパラパラと舞い散る。
そのままエーデルグレンツェはエリヤの下半身に馬乗りになり、顔を近づけてきた。
「マスター、私を抱いてください……」
思わず、目の前のエーデルグレンツェの顔を見た。
いつもの無表情とは違う、引き裂かれたような表情だった。笑顔とも泣き顔とも違う。無理やりに作った表情は、それでも美しい。
心は、とっくに焼け焦げているのだろう。
「大丈夫……大丈夫なはずです。そういう機能も備え付けられています。ライラット博士は、そう言っていました……だから、」
「な……んで」
「マスターは、私を信頼しているのですよね? 信頼とは人間同士が交わすものです……ど、道具に信頼などという感慨は抱きません。抱いたとしても、それは道具の向こう側にいる人を……」
「だから、なんで……!」
「人間は……! 信頼している者に愛情を注ぐ生き物でしょう……!?」
「っ」
銀髪を振り乱し、金色の瞳からは涙のような冷却液がぽつりぽつりとこぼれ落ちてきた。
機体温度が高過ぎるのだ。
「私は、もう信頼という言葉に縛られるのは、いやなのです……! 私を信頼してくれたはずのフミヤ様は私を置いて逝ってしまった……! デイビッドでさえ、私のそばを離れて敵になっている……! わ、私は……もう独りはいや──」
そのまま強引に唇を重ねようとしてくるエーデルグレンツェに、エリヤはとっさに顔を背けてしまった。
そこで気づく。
濡れた瞳が悲痛な色に染まっている。
「……ま、マスター……」
今の対応は、決定的に間違っていた。
エーデルグレンツェがエリヤを押さえ込んでいた力が、ふっと抜けた。
「エーデルグレンツェ、こんなことは……もう」
「……申し訳ありませんでした」
黙り込み、エーデルグレンツェは散らかした書類を黙々と片付け始める。
エリヤは動くことができない。
やがて、書類を整理し終わったエーデルグレンツェは扉の前に立ち、こちらを振り返った。
何か声をかけなければならない。そう考えても、喉元まで出かかった言葉は、吐き出される直前で霧散する。
小さく頭を下げて、エーデルグレンツェは控え室から出ていってしまった。
エリヤはのろのろと立ち上がって、服を整える。エーデルグレンツェの冷却液が服に跡を残していた。
今すぐに追いかけなければいけない。この後はメジャーの決勝戦があるのだ。
だが、追いついたところで何ができるというのか。どうやって、六十年間ため続けた哀しみを晴らすことができるのか?
洗面台の前に立つ。
鏡の自分が見えた。
エーデルグレンツェの想いに対して何もできなかった情けない自分に、どうしようもない怒りが湧いてきて、エリヤは自分自身を映し出す鏡に向かって拳を振るった。
痛みが増しただけだった。
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