2.『過去からの落とし物』

 擦り切れた制服に、食品パウチの散らばった室内。催促状まみれの玄関。

 見られたくない、と一瞬思ったのはみっともない自分の格好のせいか。


 澤井ユメ。近所に住む十歳年上の隣人だ。エリヤが小さい頃に一緒に遊んでもらった記憶がある。

 確か、数年前にどこかの大企業に就職したとの噂が流れてきた。それ以来、会っていない。


「やっぱり、エリヤ君だ」 


「……ユメさん」 


「その傷、大丈夫?」


 彼女がエリヤの頬を遠慮がちに指差して、尋ねる。指で擦ると血がべっとりとついてきた。いつの間にここまで裂けていたのだろうか。


「そこまで気にしないでいいです。ただ、転んだだけですから……」


 嘘だ。


「えっと……それよりも、久しぶりです」


「もう、中学生になったんだよね」


 改めて彼女を見ると、昔見た時よりも随分と変わっていた。薄く化粧をした肌は滑らかで、眼鏡を外した瞳は強く輝いている。


「……そっちはもう就職しました?」


「そうだよ〜? 『ブランド・マーニー』って会社なの」


 大手のファッション会社だ。エリヤの制服もそこと協定を結んだ子会社が作っている。

 彼女は元々少しばかり天然で色々と抜けているところがあった。それが、見ない間にそんなところまで行ったのか。


 一言二言立ち話をするうちに、話題はすぐに尽きていた。

 都会に引っ越すといって、消えたのが数年前。あの頃は足りないほど話題があったはずなのに。


「……それで、なんでうちに来たんですか?」


 エリヤは無意識に首を擦りつつ、答えを待つ。


「近くまで仕事で寄ってね。久しぶりにエリヤ君の家でも見に行こうかなって。元気してるかな?」


「……まあ、それなりに」


「そっか。元気なら良かったよ」


 朗らかに笑う彼女を見て、エリヤは自分が情けなくなった。

 全然元気じゃないし、毎晩のように借金取りが現れるせいで、家を売り払って引っ越そうかと考えている。

 ……でも、彼女にもう一度会えた。


 小さい頃は、憧れにも近い感情を抱いていた。恋愛感情というには、まだ幼い感情を。

 今でも思うところはある。


 沈黙が満ちる。

 当て所なく彷徨わせた視線が、彼女の左手を捉えた。

 ──銀色の指輪が、薬指にはまっていた。


「あ、そうそう! わたし、結婚したんだ」

 

「……あ、えっと……おめでとう、ございます」


「ん、ありがと!」


 屈託なく笑う顔。

 相手のこと、いつ結婚したのか……尋ねようとした言葉が、胸の奥に突っかかって出てこない。


「今度さ、私の家においでよ? 色々と美味しいものいっぱい作っておくからさ」


「……ありがとうございます」


「ううん。そんなことないよ。……あ、もうこんな時間。じゃ、またね!」


 ひらひらと手を降って、離れていく彼女を見送ってから、エリヤはゆっくりと外の足音に耳を傾けて──扉を閉めた。鍵を掛けた。


「……」


 ずるずると崩れ落ちる。

 顔を手で覆って、ぐっと堪えた。


「……はぁ」


 無性に叫びたかった。でも、胸にぽっかりと空いた穴から熱が静かに逃げていく。

 後に残ったのは、凍えるような冷気だけ。


 エリヤに何があれば、追いつけた?

 資産? 容姿? 学歴? それとも、年齢?

 

 違う。どれも違う。


 澤井ユメは、エリヤがどうやったところで都会に出ていき、大企業に就職して、結婚する。

 エリヤの干渉する余地はない。

 

 それに、あんなにも幸せそうに笑っていた。


 借金まみれで、借金取りに怯えて暮らすエリヤとはまるで正反対だ。


『ここで今一度、第二十二回チャンピオンのアレックス・ライト氏のインタビューをどうぞ! 彼はこのアマテラスにやってきてから一年も経ずに数多のスポンサー契約を勝ち取ってきた実力者であり──』


 腕からラジオが落ちる。

 ガシャン、とボロボロのラジオが床に落ちてノイズを散らした。


 ◇


 冷たいものがぽつりと鼻に当たって、目が覚めた。ボロの我が家がついに雨漏りをし始めたらしい。


 エリヤは緩慢な動きで身を起こす。

 散らばった催促状が、潰れて布団代わりになっていた。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだった。


「あー……」


 昨晩流しっぱなしにしていたラジオは、電池が切れたのか静かに横たわっている。

 乾電池をコンビニまで買いに行かなくちゃならない。今日の朝食と夕食を犠牲にすれば、なんとかなるか。


 エリヤは、ふらつく足を支えようと棚に寄りかかった。


「……あたま、いてぇ……」


 うず高く積まれた本、そして、書類。それらががギチギチに詰め込まれた棚。

 

 ──エリヤが寄りかかった振動が奇跡的に成り立っていたバランスを木っ端微塵に打ち砕いた。


「……?」


 棚がぐらりと揺れる。

 クソ親父がどっかから集めてきた、エリヤには読めない外国語がずらりと書き連ねてある本が。もう使わない教科書が。年齢を詐称し、バイトに明け暮れて、その結果ひどい点数を取った数学のテストが。


「……冗談だろ……?」


 エリヤは呆然と目の前に迫る脅威を見つめる。


 ──そう、今にもこちらに向かって倒れてきそうな棚だ。


 まさか、棚に押し潰されての圧死だなんて。

 慌てて支えるも、時すでに遅し。


「おいおいおい──ッ、うぎゃアァアアアア!?!?」

 

 自重を支えきれず、棚は膨大な量の紙束を撒き散らしながら、エリヤをゆっくり丁寧に押し潰した。


 ……。

 …………。

 …………………。


 もうもうと立ち込める埃に、舞い散る紙吹雪。


「──うへぇ、ペッペ……ちくしょう……何なんだよ!! こんなに整理整頓してねぇやつは……オレだったな……」


 辛うじて逃げ出していたエリヤは、部屋に散らかった紙束の海からにゅっと顔を出した。


 危なかった。

 今度こそ死ぬかと思った。


「……?」


 ふと、散らばる紙の隙間から金色の光が見えた。

 持ち上げる。


 それは、一つの小さな鍵だった。質素な鍵で彫り込みなどもされていない。

 棚の奥深くに隠されていたのだと分かった。鍵のそばには、一枚のメモ用紙が落ちている。


『我が家の秘宝、ここに眠る』


「……は?」


 それは、蒸発したクソ親父の汚らしい筆跡で書かれていた。


 エリヤの家はこのアマテラスで比較的珍しい持ち家だ。先祖代々受け継いできた。

 両親がいなくなった後、借金を返すために骨董品なんかを色々と売り払ったが、入ったことのない部屋が一つだけある。

 エリヤは鍵を見つめる。

 

「……地下室の鍵、なのか……?」


 それは、クソ親父がずっと隠し通していた秘密だった。

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