パラノーマル・ドメイン

御伽月

黒不浄

【こども、いますか?】


 黒く静まり返った都内の交差点。

 点滅する歩行者信号の青白い光の下に、妙な服装の男が立っていた。

 彼は幾本もの白線の先にある、対岸のくうを真っ直ぐに見据えている。


【こども、いますか?】


 男は白いカッターシャツに朱のネクタイ、上からは鈍い青藍の狩衣ジャケットを羽織っている。

 立ち姿はどこか、近代都市には似つかわしくない軍装を思わせる。

 腰に備えられた軍刀を思わせる長物ながものも手伝って、武家や兵士の類を想起させる静かな気迫を放っていた。

 その異様な身なりを咎めるものは誰もいない。


【こども、いますか?】


しまさん、絶対応えちゃダメですからね』

うるさい、わざわざ言うまでもないことを都度いちいち口にするな。熊坂くまさか神祇官じんぎかん

 嶌と呼ばれた男が眉ひとつ動かすことなく応答すると、胸部に留められた無線機デバイスは少々気落ちした様子で沈黙する。


────手遅れだな。

 再び視界に意識をやり、男は嘆息ためいきを零した。

 見れば、交差点の央部には赤信号にも関わらず幾人かの人影がある。


『あれが今回の霊障れいしょう被害者ですか?』

 すぐにけろりと態度を復元させるのが、この新人神祇官の美点だった。

「……霊障れいしょうじゃない、境常。あるいは界異かいいだ」

 そして、境界対策課に属する祓魔師ふつましの職務はその界異かいいへの対処にある。


 意識を会話から視界に引き戻す。

 じゅぶじゅぶ。

 不快な水音は一心不乱に自らの諸手りょうてをしゃぶるから発されたものである。

 時折、引き攣ったような声で短い嗚咽が交じる。未だ正常な肉体の生理反応によるものだとしまは自分を納得させた。


 分泌され続ける唾液でぐずぐずにふやけた手はもはや変色し、無数についた咬傷かみあとからは黒い液体が滲んでいる。

 それでも尚、腐りかけた指を凝視して離さない。正しくは、離すことができないのだろう。あの状態に陥ってから、既に数時間が経過していた。


 妙齢の女、スーツ姿の壮年の男、そして学生然とした若者が数名。

 一見して共通点などない。


【こども、いますか?】【こども、いますか?】


 あるとすれば、ただという一点なのだろう。

 だがそれも、既に論じる価値を失っている。


 横断歩道の白線の上には被害者らの荷物が無造作に捨て置かれていて、煌々とアスファルトを照らす端末スマホには直前まで視聴されていたと思しき動画サイトが変わらず広告を垂れ流している。

 無遠慮に端へ転がっている丁寧なラッピングの小箱は誰かに贈られたものか、あるいは贈るはずだったものか。


霊体れいたいが変質している。もう助からん」

 淡々と、思考を中断するために口にする。無線からは「わかってます」とだけ。

 しまはこのさっぱりした新人を気に入っている。

 続けて「黒不浄くろふじょうの使用を許可する」旨の言葉が付け足されると、男は歩行者用の青信号の光を背に歩みを進め始めた。


『ところでしまさん』

「どうした」

『その界異かいい、実体あるんですか』

「ないな、こういう類は存在が曖昧で輪郭すらない」


 幽世あちらがわから境界を超えて現世こちらがわに顕現する界異かいい

 中には明確な仮想質量からだを持ち、怪物然としたものも存在する。

 が、このような「◯◯してはいけない」タイプは実体からだではなく術理ルールを介して現世うつしよに干渉する。


 つまりは、倒そうにも本体がどこにも存在しない。顕現していないのだ。

 新人の「じゃあどうやって祓うんですか」という言葉は捨て置いた。

 しまは良い先輩でも、ましてや教員でもない。と深夜の冷え切った空気を吸い込む、準備は完了した。


【こども、いますか?】

「いない、俺は童貞だ」


──は?

 無線から通知音のように疑問符が鳴った。


『何言ってるんですかあっ!?』

 突くような絶叫が無線を通して発される。耳を破壊する気か。

【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】


 「境界を超える」と一口に言えど、そう容易な仕業ことではない。

 息を吐くように物理法則に逆らう界異かいいとて、ある程度は術理ルールに縛られる。

 大原則として、は存在しない。

 そして、霊体の破壊はすなわち界異かいいの駆除──祓滅ふつめつに当たる。


教本マニュアル読んだことありますよね?! 界異かいいの問いかけには応じてはならない!』

 想定内の反応に、しまは安堵する。

『さっきしまさんがわざわざ言うまでもないことって言ったんじゃないですかあ!』

 熊坂くまさかの悲鳴にも似た声に混じって、が僅かに青白く浮かび上がりつつあった。

 これがこの界異かいいの霊体でまず間違いない。


 ここで界異かいいが縛られている術理ルールの話になる。

 神やら大妖怪やらに喩えられるような大物ならともかく、この程度の存在規模クラスではやれることが限定される。

 限られた容量の中では機能を限定しなければならない、という話だ。

 あれもこれもと欲張ることができるのは相応の存在規模を備えた高位の界異かいいのみ。

 雑魚こものは容量稼ぎのために敢えて欠陥デメリットを抱え込む。抱えざるを得ないのだ。


 ひとつ、界異かいいはこの交差点から移動できない。

 ひとつ、延々と現世こちらがわには顕現けんげんできない。

 ひとつ、現世こちらがわを視る疑似知覚センサーはオミットしている。


 これらの欠陥デメリットを受け入れることで獲得したのが術理ルールなのだろうと推測できる。

 普段は現世こちらがわへの干渉を音情報に限定し、術理ルールにより位置を捉えたら短時間顕現して襲いかかる。このような生態と考えられた。

 それならば、幽世あちらがわに引っ込んでいる霊体を引きずり出すにはのが最も確実で手っ取り早い。


「被害者の霊体変質は術理ルールによるものじゃない。典型的なけがれ汚染だ」

 穢れによる汚染。遍く界異かいい幽世あちらがわ要素エネルギーである穢れをまとっている。

 それは現世こちらがわにあるだけで様々なものを捻じ曲げる世界の病原。

 生態系、物理法則、ヒトの霊体たましい。現世に敷かれた意味あるものは全て穢れで歪み得るものだ。


『じゃああれ、界異かいいに触れられたのが原因ですか?! 界異かいいの能力とかじゃなく』

「理解が早いな。頭が悪いのか良いのかはっきりしてくれ」

 正直な感想を口にすると困惑と怒りの入り混じった喚き声で返された。

 学生の頃に飼っていた小型犬の鳴き声に少々似ている。


 雑音から耳を逸らす。

 先程さっきまでもやがかっていた界異かいいの霊体は麺の如くひょろひょろとした無数の腕をかたちどっていた。

 どこまでも伸びそうな腕とは対照的にそれぞれの先端についた手指は異様に短く小さい。水蛭子ヒルコの類かと思い至る。


【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】【見つけた】

 界異かいいの霊体が砂糖に群がるように一斉に迫った。

『来てます来てます! 界異かいい来てますっ!!』


 しまは穢れに耐性のある人間ではない。

────穢れに冒されれば、末路は先程さっき目にした通りだ。

 しまは優れた霊的素養を持つ人間ではない。

────覇気や念仏で界異かいいを祓うような異能とは無縁の血筋だ。

 しまはこの現代社会で、功徳を積むでもなく生きてきた。

────普通ただの人間である。


先程さっきどう祓うのかと聞いたよな、熊坂くまさか


 眼前に伸びた青白い破滅が動きを止める。

 祓魔師は黒染めの軍刀を一閃。

 逆袈裟の要領で空に掲げていた。

 鞘のない抜き身の直刀でグリップには護符が乱雑に巻かれている。


「答え合わせだ」

『あ……』

 界異かいいが霧散する。両断され、容量を──存在規模を保てなくなった霊体は意味を維持できずに無に溶けた。

 被害者の水音を除く静寂が、周囲に取り戻される。


都度いちいちそんな風にもったいぶらなくてもいいと思うのですが!!』

 散々弄ばれた神祇官は率直な不満を表明した。

「授業は退屈しない方がいいだろ?」

『ナルシスト』

「かわいい後輩のために一応説明しておくが、神祇官は別にどんな発言も許される職ってわけじゃないからな」

『言わなきゃいけないこともあるんです。拗らせ童貞を相手にする場合は特に』

「セクハラで訴えられろ」


 界異かいいの祓滅を終え、祓魔師は得物を再び腰に帯刀マウントする。

 物質化した穢れを鍛えた刀身は霊体に直接干渉することができる。

 それは仕手つかいてへの霊的な悪影響と、絶大な保証火力ストッピングパワーを併せ持つ。

 界異かいいと直接戦闘しこれを祓う、境界対策課に所属する祓魔師の主力装備メインアーム


 黒不浄くろふじょう

 その不吉な名とは裏腹に、史上最も多くの界異かいい祓滅の直接要因となり、数多の人間を破滅から救ってきた画期的祭具である。

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