第7話 ︎︎神の愛
見渡す限りの荒野。
風は砂を含み、地は硬い。
テオは、馬上で砂避けの口布を直しながら、ちらりと前を窺った。そこには、幾分か身綺麗になったイルの後頭部が揺れている。顔は見えないが、不機嫌な空気がその表情を物語っていた。何度声をかけても返事が返らない。
原因は分かっている。
ほんの数刻前。依頼を受け、役場を後にした二人は、イルの身支度を整えるために雑貨屋へと向かった。しかし、今のイルは少年だ。ワンダル向けの店は、得てして成人男性が主な客層になる。そのため、イルに合うサイズが無かった事。そして、店主の見下したような態度が気に食わなかったのだ。
先に入ったテオには愛想を浮かべていたのに、イルの入用だと知ると、口を歪め『坊ちゃん』と連呼し、遠回しな嫌味を言ってきた。
ただでさえ役場で機嫌を損ねていたのに、更なる屈辱にイルが辛抱できるはずもない。そもそも、我慢というものに耐性のないイルは、そこまで暴れ出さなかったのが奇跡に近いのだ。
天界にいた頃は、上位二位の智天使という立場であった。部下を多く持ち、上司である
天界に住まう他のエルデルヴェオ達も、修練に励み、高みを目指す。神の子にとって、エルデルヴェオである事は誇りであり、地上を導く使命を連綿と繋いできた。
だが、この地はどうだ。
エルデイシアを楽園と呼び、まるで怠惰に過ごしているかのように語る。町の随所で囁かれるのがイルの耳にも届いていた。
「俺も天界で楽したいよ」
「なんでも、三食昼寝付きって言うじゃねぇか。あ~あ、羨ましいこった」
仕事の合間に、そう言って笑い合う人々。
イルに言わせれば、ノムンドこそが怠惰の象徴だ。神に乞うばかりで、身を捧げようともしない。イルが生まれたのは、もう数百年も昔。その長い年月の中で、庇護するべきと教えられた者達は幾度も争い、神を騙って私服を肥やしていた。
その醜い姿を見る度に、イルは師と仰ぐ熾天使、カーユエイシュに問うたものだ。
あれが庇護するに値する存在なのかと。
その問いには、寂しげな微笑みだけが返った。
そして、長い間
それら全てが理不尽に感じられ、元凶である座天使よりも、ノムンドへと怒りが向いた。
「何故、私がこんな……」
ぽつりと零れる呟きに、テオは柔らかな笑みを浮かべる。イルからは見えない、慈愛の表情。
「イル。お前が大変な状況にいる事は、分かっているつもりだ。天界とこの地上では、まさに天と地の差がある。生きている俺達も、エルデルヴェオとは大違いだろう。でもさ。神様が手を出さないって事は、お前に対する試練とも取れるんじゃないか? ︎︎お前を堕としたって奴も、何がしかの罰があるはずだ。神の愛は全てに平等。そうだろ?」
意外な言葉に、イルが振り返る。大きな金色の瞳が見上げるのは煌めく青。蒼天を切り取ったようなそれは、静かにイルを見つめたいた。
「……ふん。私は天使だぞ。貴様なんぞに言われずとも、心得ている。だが、それとこれとは別だ。あの店主が無礼である事に変わりはない」
つん、とそっぽを向き、口を尖らせるイルに、今日何度目とも分からない苦笑いが浮かぶ。ガシガシと漆黒の髪を撫で、テオは言う。
「なーに言ってんの。お前こそ、相手を最初から見下してんだろうが。役場でも、危うく刃傷沙汰になるとこだったしな。天使の誇りも、まぁ分かる。なんたって神様に直接仕えてるんだからな、自尊心は強そうだ。でもさ、俺達ノムンドの事も知ってくれると嬉しいよ。天使様から見れば馬鹿ばっかだろうけど、それでも一生懸命いきてるんだ」
邪険にテオの手を振り払いながら、イルは鼻を鳴らす。
「いちいち煩いぞ。分かっていると言っているだろう。これも私が成長するために必要な事だとな。そうでなければ、あの座天使はとうに神によって裁かれているはずだ。神は常に、森羅万象、世界の
不意に、イルは俯き、身を震わせた。
「お前は知っているか? ︎︎この地上が、一度滅んでいる事を」
沈んだ声音に、テオも実直に応える。
「ああ。聖書にある、メテオフォールだろ? ︎︎文明を極めたノムンドは奢り昂り、天界を目指した。神の座を奪おうとしたんだ。しかし、それは神の手によって阻まれる。数千におよぶ隕石が地上を破壊し、ノムンドは原始に還った。数万年前の出来事って語り継がれてるけど……事実なのか?」
テオの問いに、イルは静かに頷いた。手元から頭上に視線を移し、大人びた声が響く。
「それも、神の愛のひとつだ。ノムンドが一番豊かだったのは、原始の時代。皆が自然と共に生き、地に還る。ただ欲だけではない、人が人のために在った時代だ。しかし、人々はそれを良しとしなかった。もっと、もっとと欲は増大していき、他部族を侵し、奪っていく。そして遂には、神の座さえ欲したのだ。神は嘆き、ヒトを人へと還す決断を下した」
イルは手を天にかざし、滔々と語る。
「隕石は地を
再び振り向いた金の瞳には、感情が見えない。テオはグッと唸り、見つめ返すしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます