第10話 首都へ

 ウィルフレッドが今日フリーレンベルクを発つと言い出したのは早朝のことだ。叩き起こされたパトリシアが文句を言えなかったのは、「すみませんけど、遅くなると連れ戻されるかもしれないんで……」と、やけに焦った様子で言っていたからだった。

 連れ戻されるとはどういうことだろう。そう疑問に思ったが、みんながバタバタと出立の準備を進める様を見ると聞こうに聞けないままだ。

 そうして、全員が準備を終えると、エイブラハムとイヴァンも見送りにと家の外に出てきてくれたので、パトリシアは突然の別れが寂しくなって、イヴァンにぎゅっとしがみついた。

 それをイヴァンがちょっと笑って、「二度と会えないわけでもあるまいに……」と、優しくパトリシアの頭を撫でる。

 そうは言っても、寂しいものは寂しいに決まっている。だって、前にイヴァンと会ったのは六年も前だし、ウィルフレッドの用事が終わればすぐに帰らないとならないだろうからだ。

 パトリシアが涙目になって鼻を啜ると、隣にいるエイブラハムまで涙ぐみ始めて、「何もしてあげられなくて悪かったねえ……私達も首都に用事があるから、都合が合えばまた会おうねえ」とパトリシアの背中をぽんぽんと叩く。


「用事……ですか?」

「そうだよ、ええと……」


 パトリシアの疑問に、エイブラハムが言い淀んだ。しかし、すぐにイヴァンが「少し仕事があってな。時間は作れるだろうから、そう泣かなくて良い」と言う。


「エイブラハムさんも泣かないでください、もう良い歳なのですから」

「そうは言ったってねえ、年を追うごとに涙脆くなるんだよ。イヴァンくんには分からないかもしれないけど……」


 エイブラハムが口を尖らせてそう言うので、パトリシアはおかしくなって、つい喉の奥で笑ってしまう。そうすると、イヴァンもエイブラハムもにこやかに笑うものだから、今度は嬉しくなってパトリシアは声を出して笑った。

「パティはもう心配ないか」とイヴァンが穏やかに言って、ウィルフレッドとロザリーの方を見る。そして、「お前たち、本当に首都に行くのか?」と眉を下げた。ロザリーは首都の案内役として付いてきてくれる話になったのだが、何か問題があるのだろうか。


「ウィル、お前には三日は休むように言ったし、ロゼは……はぁ……」

「まぁ、お兄様〜私のことは心配してくれないんですか?」

「心配して欲しければそれ相応の生き方をすることだ」


 パトリシアはあれっと思った。兄妹だし、イヴァンとロザリーの仲は良かったはずだ。けれども、額を抑えるイヴァンとにこにこ笑っているロザリーを見ていると、何か引っ掛かりを感じるのだった。

 それなので、パトリシアは「イヴお兄ちゃん、ロゼお姉ちゃんと何かあったの?」と聞いてみた。六年も会っていないわけだし、何があってもおかしくないと思ったからだ。


「いや、お前は知らなくて良い。教育に良くないからな……」


 イヴァンにそう微笑みながら言われると、尚更気になって仕方がないようだった。パトリシアにとって、ロザリーは優しくて穏やかで素敵な従姉である。教育に良くない点など、一体どこにあるだろう。

 ちらりとパトリシアがロザリーを盗み見ると、ロザリーはにこやかに微笑んでいるだけで、何も反論しなかった。ただ、「パティちゃん、心配しないでください。お兄様と喧嘩しているわけではないんですよ〜」と言うだけだ。


「そうなの?」

「そうですよ、ちょっと家門を乗っ取っただけ……ううん……まぁ、この話はパティちゃんがもっと大人になってからしましょうね」


 とんでもない話を聞いてしまった気がする。パトリシアは記憶力が良くないので曖昧ではあるものの、イヴァンとロザリーは子爵家に生まれたと聞いたことがある。これはつまり貴族のお家騒動と言うやつだ。

 考えてもみれば、責任感が強いイヴァンが自分の家門を捨てて結婚などするわけがない。そうなると、六年は前からロザリーが家門を乗っ取ってイヴァンを追い出したのではないだろうか。六年間二人に会えなかったのはこのせいなのかもしれない。

 パトリシアがあれこれと考えていると、その姿を見かねたのか、イヴァンが「パティ、お前は何も気にしなくて良い。私達の問題だからな」と苦笑しながら言った。


「そんなことよりだ。病人を連れて馬車旅とは……」

「イヴァンくん、あんまり心配しなくて良いよ。うちの馬車を貸すんだからね」


 イヴァンのため息混じりの苦言に、エイブラハムがにこやかに返して、「首都くらいまでなら楽に行けるさ」と言う。

 そうすると、バツが悪かったのか何も言わないでいたウィルフレッドも、「宿だって、ハムさんの名前出せば良いって……問題ないでしょ?」と様子を窺うように言った。

 それが何だか子供っぽく見えて、パトリシアはぱちくりと瞬きをした。イヴァンにはロザリーが幼く見えているようだったが、ウィルフレッドもそうなのだろうか。

 随分不思議な気分になって、パトリシアはイヴァンが深々と溜め息を吐く姿をじっと見た。その姿がいつもパトリシアに向かって溜め息を吐くウィルフレッドの姿と重なって見えて、何だかとてもおかしく思えた。




 エイブラハムが貸してくれた馬車は本当に良いものだった。高い屋根に広い車内というだけで素晴らしいのに、座席はお尻が沈むくらい柔らかく、まるでソファのようだった。

 これにはパトリシアもルークもヒナタもはしゃいでしまったが、それ以上にシャクドウがはしゃいだ。「俺ァ今日からここに住んだって良い!」と上機嫌で座席を撫で回していたくらいだ。

 しかも、エイブラハムが荷馬車も手配してくれたおかげで、車内に荷物一つ置くことなくのびのびできるのだ。大商人様々である。

 そうして、馬車が走り出して半刻ははしゃぎ通しだったが、揺れの心地良さにいつしか眠くなってくるようだった。何たって、早朝に叩き起こされたのだから仕方がない。

 パトリシアがあくびをすると、隣に座っているロザリーがにこりと笑った。それが随分気恥ずかしく、パトリシアは慌てて、「そ、そういえばお兄ちゃん! 朝言ってた連れ戻されるって、一体何があったの?」と誤魔化すように、とっさに聞けずじまいだったことを聞いてみることにした。


「えっ……それは、まぁ、良いじゃないすか……」


 歯切れの悪い返事だ。他のみんなも気になったのか、ウィルフレッドの方に目を向ける。全員叩き起こされる羽目になったのだから当然だ。

 それでもいくらかは渋っていたが、結局周りの視線に負けたのか、「あー……伝令魔法分かります? あの魔法、しくじると捕まえない限り止められないんすよ」とウィルフレッドが窓の方に視線を逸らしながら言った。

 伝令魔法と言うのは、報告のために船から飛ばしていたあの氷の鳥のことだろう。ルークはうんうんと頷いていたが、パトリシアはそんなことは知らないので、「そうなんだ……」と言うしかなかった。


「パトリシア先輩、これ僕の学年で習うことですよ。途中で情報を改変されないようにするための構造なんです」


 ルークが呆れた目を向けながら言う。それなので、パトリシアはその場を誤魔化すように、「そ、そんなことより……それで? 伝令魔法がどうしたの?」と声を上げた。


「それで……寝ぼけて暗号化を忘れて、そのまま報告の声が入って……」

「捕まえられなかったんだ?」

「パティ、あんた俺の運動神経知ってるでしょ」


 じろっとパトリシアを睨め付けてから、はーっとウィルフレッドは深い溜息をついて、「調子を崩したってバレたら何を言われるか……」とぼやくように言った。

 ウィルフレッドが魔法を失敗するなんて余程のことだ。今だっていくらか顔色が悪いし、突然の出立になったとはいえ失態を責めるのも可哀想で、パトリシアは「大変だね……」と慰めてやることにした。


「でも、お兄ちゃんが寝込むのなんていつものことでしょ?」

「陛下は融通が利きますけど、俺の主君は"お優しい"人っすからね……いつものことは通用しないんです」

「けど、声だけだし……」

「声でバレるんすよ、何なんでしょうねあの人……」


 ウィルフレッドがもっと深々と息をついた。主君とは間違いなく氷の国のユーリィ王子のことだが、今までウィルフレッドから聞いてきた話を鑑みると随分な変わり者のようだ。

 愚痴に近い声音で、「お優しいと言えば船だって……決めるだけで丸一日かかったんすよ、一番丈夫な船じゃないと買わないって。そういう人なんです」とウィルフレッドが言う。

 つまり、乗ってきた船はユーリィ王子が直々に購入したものであったわけだ。親友だからといって、臣下の一人にそこまでしてやるものだろうか。

 ともかく、この調子だと、連れ戻されるというのは本当のことなのだろう。パトリシアはちょっと引きながら、「何かすごいね……」と言った。シャクドウもそれと似た声音で、「いろいろあるもんだなァ……」と言う。ルークはなぜか満足げに頷いていた。


「まぁ、何かとやって頂いてる身なんで、連れ戻されたとしても文句は言えないんすけどね」

「船以外にも……?」

「そうすね、キッチン一式貰ったりとか? 竃は特に良い値段したなぁ」

「お兄ちゃんは王子様の何なの?」


 パトリシアがそう聞くと、ウィルフレッドはうーんと首を捻って、「さぁ……臣下の一人かなぁ。俺は親友だと思ってますけど、妙に俺にだけ当たりが強いんすよね」と言った。

 これだけしておいて当たりが強いってどういうことだろうとパトリシアは思ったが、それ以上聞くのはやめることにした。この世には首を突っ込まない方が良いこともたくさんあるのだ。何となく、これもその一つだろうと思ったからだった。




 ひびが入るほど強く万年筆を握り締めて、ユーリィは苛立ちを隠さず机を殴った。ここが執務室でなければまだ抑えも効いたことだろうが、残念ながら人の目がなければ我慢などできるはずもない。


(ここにあいつはいない……だというのに!)


 どうしてこうも冷静でいられないのか。ユーリィは一度深呼吸をして、ウィルフレッドから届いた伝令魔法を思い出し──完全に万年筆をへし折った。

 暗号化を忘れるなど、あまりにらしくない。ウィルフレッドは息をするより簡単に魔法を使えるのだ。現に、伝令魔法の暗号化を考案したのはウィルフレッドその人である。

 ともかく、暗号化を忘れれば、他者に情報が漏れる可能性が出てくる。とは言え、海路で十数日はかかる距離を一日足らずで飛ぶ氷の鳥を、一体誰が捕まえられると言うのだろうか。そんなことができる人間はこの世界全てを探しても見つからないだろう。

 そんなことよりも、ウィルフレッドの肉声がそのまま録音されていることの方がずっとユーリィを苛立たせた。掠れた声にいつもより低いトーン、体調を崩していると気付くには十分だ。

 その上、「うわっ、わ……っ!」とあんまりにも聞き慣れない悲鳴に、何かに思いっきりぶつかる音、それから諦めの声と、聞くに堪えないものまで録音されていたのだから胃と頭が痛い。


「慣れない土地になど行くからだ、馬鹿者が……」


 苛立ちが募りすぎて独り言までこぼす有様である。そして、その勢いで報告書を書こうとして、万年筆が折れていることに気付いて机に叩き付けた。

 こんなにも苛立つばかりでは仕事にならない。今にもウィルフレッドを連れ戻すべきだ。ユーリィはそう結論付けて椅子から立ち上がったが、ドアをノックされたために腰を下ろすしかなかった。


「入れ」


 平静を装った声で呼び掛ければ、王国軍の団員の女が「失礼致します」と言って、恭しく扉を開けて一礼した。


「殿下、先日の港の件について報告があります」

「魔物の核が見つかったのか?」


 折れた万年筆を隠しながらユーリィが聞けば、団員は「いえ、まだ……」と暗い顔をした。

 港の捜査はウィルフレッドがユーリィの指示だとでっち上げたものだ。気に入らないが、あの男が必要のない嘘をつくとも思えない。発見歴のない魔物は必ず港にいたはずだ。


「分かった、話を遮って悪かったな。報告を続けてくれ」


 ユーリィの言葉に、「はっ!」と敬礼をすると、「港を覆っていた氷なのですが、魔法の才がある者を募って調べたところ、魔物が原因ではないと分かりました」と団員は言う。


「では、原因は?」

「魔法使い……ではないかと考えられています」


 団員はそう言い渋り、「しかし、ウィルフレッド様ほどの魔法使いはこの国にはいませんから……」と付け加えてからユーリィの様子を窺った。ユーリィがウィルフレッドに劣等感を覚えていることをよく知っているのだろう。


「ふん……まぁ、腹立たしいが事実だな」


 ユーリィがそう言えば、団員は安心したように息を吐いた。そして、「それなので、ウィルフレッド様が港を出ていた以上、燃える港を凍らせることは誰にもできないはずなのです」と報告を続ける。

 本当に港が燃えていたのだとしたら、確かにそれを凍らせることができるのはウィルフレッドだけだ。堕落しきった魔法協会の魔法使いも、他の宮廷魔法使いも、港を凍らせるのはおろか、炎を治めることさえできないかもしれない。

 もしこれを可能とするならば、魂の遺産、特に神器の存在がなければ無理だろう。ユーリィはそう考えて、自ら港の調査をすることを決めた。神器が発見されれば、ウィルフレッドがこれ以上旅をする必要がなくなり、いくらか仕事が手に付くようになると思ったからだった。

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