第9話 フリーレンベルク

 パトリシアは唸っていた。フリーレンベルクを巡ることになっていたのだけれども、エイブラハムは仕事があるし、イヴァンは寝込んでしまったウィルフレッドを看病すると言うのだ。

 ちなみに、パトリシア達も看病を申し出たのだが、ウィルフレッドが「向いてないことはしない方が良いんじゃないすかね……」と死にそうな声で言うので、結局退散せざるを得なかった。パトリシア達が観光に行けなくなることを気にしての、兄なりの気遣いであると分かったからだ。

 それはともかく、三人とも着いてきてくれないのは心底困るのだった。三人の代わりにフリーレンベルクを案内するよう、イヴァンがロザリーに話をつけてしまったせいである。


「パティちゃん、大丈夫?」


 パトリシアを心配したのかヒナタがそう聞いてきた。それなので、ヒナタには話して良いような気がして、「お姉ちゃんが代わりに案内してくれるって言ったでしょ……」と話を切り出した。


「ロザリーさんだっけ? それがどうしたの?」

「シャクドウさんは言うまでもないけど、ルークも……ヒナタくんだって男の人でしょ? だから……」

「だから?」

「お姉ちゃん、王国の薔薇なんて呼ばれるくらい美人でね? 優しいし、スタイルも良いし、そのぉ……」


 パトリシアにとってロザリーは憧れの女性だ。だからロザリーに迷惑をかけて欲しくないし、口説くなんて論外なのだ。けれども、何だかそれ以外にも引っ掛かるものがあるようで、パトリシアは言葉に詰まってしまう。

 そんな様子をどう思ったか、ヒナタがうーんと首を捻って、「それで?」と気遣わしげに先を促した。


「その……シャクドウさんとルークなら、絶対迷惑かけるでしょ?」

「まぁ、ルークは分からないけど、シャクドウは……」


 我が物顔でソファに腰掛けて茶菓子を貪っているシャクドウに、ヒナタが呆れた目線を向ける。いかにも迷惑をかけそうな予感のする態度だ。

 そうこうしている間にドアベルが鳴って、パトリシアは深々と息を吐いた。もう覚悟を決めるしかないのである。




「何だってんだ、まるで大輪の華じゃねェか……」

「ぼ、僕、こんなに綺麗な女の人はじめて見ました……!」


 見事にロザリーに見惚れるシャクドウとルークを見て、パトリシアは頭を抱えざるを得なかった。案の定、二人とも挨拶さえ忘れて鼻の下を伸ばしている。

 それを全く気にしていない様子で、「パティちゃん、お久しぶりですね。元気でしたか?」と、ロザリーは可愛らしく微笑んだ。血の繋がったパトリシアでさえ花が綻ぶようだと思うのだから、シャクドウやルークがはしゃぐのも仕方がないのかもしれない。

 パトリシアは「うん……」と返事をしながら、ちらりとヒナタの方に目を向けた。そうして、ヒナタが人の良さそうな雰囲気のままなのを見て、なぜだか妙に安堵した気分になりながら、ほっと一息をつく。


「あ、そうでした〜! 皆さんはじめまして。私、ロザリーって言います。今日はいっぱい遊びましょうね」


 ロザリーがにこにこしながら挨拶をするので、ルークがかぁっと頬を赤らめ、シャクドウは「お嬢ちゃん、俺と個人的にも遊……」とまで言って、ヒナタに脛を蹴られていた。

 そんな様子を見ても、ロザリーはまったく笑みを崩さず、「さぁ、元気な皆さん! さっそく市場の方に行きますよ〜!」と明るく言う。


「お姉ちゃん、市場? って、どんなところ?」

「あらあら? 氷の国に市場はないんでしたか。食べ物がたくさん売られていて、お外でもご飯が食べられて、とっても楽しいところですよ」


 ロザリーがそう言うと、ヒナタがちょっと前のめりになって、「美味しいものがあるんですか?」と聞く。それがおかしかったのか、「もちろんです! お姉さんオススメのお店にも連れて行ってあげますからね〜」と、ロザリーは楽しそうに笑った。

 氷の国には市場なんてない。特に、外で食事ができる場所なんてあるはずもない。外に商品を置いておけばみんな凍ってしまうので、買い物はすべて店の中でするからだ。

 それなので、ロザリーが「たくさん食べ歩きしましょうね」と上機嫌で言うのに、パトリシアは胸を弾ませた。

 が、しかし、市場に向かう道を行き始めてすぐ、パトリシアは大いに苛立つ羽目になった。シャクドウとルークはいまだにロザリーに夢中なようで、あれこれと話しかけつつ、どちらもチラチラと豊満な胸元を見ているのが丸わかりなのだ。あんまり下品である。

 いっそ二人を蹴り飛ばしてやりたいが、ロザリーにそんなお転婆な姿は見せたくない。パトリシアだって、憧れの人の前では大人しくしていたい乙女心くらいは持っている。


(も〜! ほんっとうにスケベなんだから……)


 パトリシアが唇を尖らせると、ヒナタが「パティちゃん?」と声をかけてくる。きっと、ヒナタは二人の目線に気付いていないのだろう。ロザリーの胸だって見ていないのかもしれない。

 それが何だか嬉しいような気がして、「お姉ちゃんは美人で大変だなーって思ったの」と、パトリシアは少し明るい調子で言った。


「確かに綺麗な人だよね」

「ふーん?」

「でも、僕はパティちゃんだって可愛いと思うな」


 ヒナタがあっさりとそんなことを言うので、パトリシアは一瞬惚けてしまって、それから、羞恥心を誤魔化すように、「ヒナタくんのすけこまし……」と憎まれ口を叩くしかなかった。


「すけ……?」

「そんなことより! ほら、市場が見えてきたよ!」


 パトリシアが大きな声を上げて賑わっている通りを指さすと、ヒナタはきらきらと目を輝かせて、「すごい、港より人がたくさんいる!」と浮ついた様子で言った。どうやら、もう意識は市場に向いてしまったらしい。

 それを少しだけ残念にも思いながら、先導するロザリーたちについて行く形で、パトリシアは市場に足を踏み入れた。





 煩いくらいの雑踏の音に心が跳ねる。呼び込みをする屋台の店員たちと、店頭に並ぶ食べ物やアクセサリーのなんて輝かしいこと!

 パトリシアはキョロキョロと辺りを見渡してから、「すごいね……」とヒナタに言った。すると、ヒナタは変に潜めた声で、「本当だね……」と返してくる。


「お嬢ちゃん! ぼっちゃん! よその人だろ? うちのブリトーはフリーレンベルクで一番美味いんだ。一度食べていきなよ!」


 突然屋台の店主から声をかけられて、パトリシアとヒナタはびっくりして立ち止まった。氷の国では店主から声をかけてくることなんて全くないからだ。

 ブリトーだって、全然知らない食べ物だ。それに、フリーレンベルクで一番美味しいなら食べてみるしかない。

 パトリシアはヒナタと目を合わせて、お互いに頷いた。そして、「じゃあ、二つ……」とヒナタが声を上げたときだった。


「待って! あたしの店の方が美味しいわ! ねぇ、こっちのにしない? 女の子もいるんだからオシャレな方が良いでしょ?」


 向かいの店主からもいきなり声をかけられて、パトリシアとヒナタはまた目を合わせて瞬きをする。パトリシアだけでなく、ヒナタもどうして良いか分からなかったのだろう。


「なんだと? お前の作った飯が美味いもんか!」

「あんたのよりはマシよ!」


 突然屋台の店主同士が大声で喧嘩を始めてしまったので、パトリシアは驚いて、「あ、あの、どっちも買いますから……」と慌てて言った。

 そうすると、一つ先の店のおばあさんが、「あんたたち、子供を怖がらせてどうすんだい!」と一喝して店主達を大人しくさせたものだから、パトリシアは縮こまりながら反射的にヒナタの服の裾を掴んだ。


「ごめんねえ、お二人さん。びっくりしたでしょう。あの二人、いっつも喧嘩ばかりしてるのよ」

「そう……なんですか?」

「そうよお。でもねえ、どっちの作るブリトーも美味しいのは本当よ」


 パトリシアが首を傾げると、おばあさんはにこやかに頷いてから、「ほら! あんたたち! おちびさんたちにとびきりのを作ってやりな!」と店主達を怒鳴りつけた。

 そうして、バツの悪そうな顔をした店主たちに謝られつつブリトーをもらって、パトリシアもヒナタもキラキラと目を輝かせた。パトリシアが貰った方は甘辛そうなソースとチーズの匂いが柔らかく混ざり合っていて、ヒナタの方は肉が多くてピリッとした香りがして、どちらもとっても美味しそうだったからだ。


「お二人さん、ここはあたしが奢ってあげるわ。この街をどうか楽しんで、できたら好きになってちょうだいねえ」


 おばあさんがにっこりと笑うと、店主たちも「今度は喧嘩しないから、またおいで」とか、「次はもっとサービスしてあげる!」とか言うので、パトリシアはヒナタと一緒にお礼を言いながら、喧嘩するほど仲が良いってやつなのかなと思った。




 迷子になっている。パトリシアがそう気付いたのは、ブリトーをすっかり食べ終えた頃だった。

 フリーレンベルクの街並みは入り組んでいるが、それは市場も同じだった。その上、とにかく人が多いものだから、はぐれてしまった三人を探そうにも探せそうにない。

 パトリシアは途方に暮れて、「どうしよう? お姉ちゃんたち、私たちのこと探してるよね……」と肩を落とした。


「えっ、どういうこと?」

「ヒナタくん、私たち迷子なんだよ、迷子。気付いてなかったの?」

「そういえば、確かに三人がいないね……」

「全然人のこと言えないけど、ヒナタくんって結構鈍感だよね……」


「うーん、どこに行ったんだろう?」とあたりをキョロキョロするヒナタに釣られて、パトリシアももう一度周りを見渡した。

 そうしていると、ヒナタが突然「あっ!」と声を上げて、「向こうにパティちゃんと同じ髪色の人がいたよ」と言った。

 氷の国特有のそれは、波の国ではあまり見ない色だと青年が言っていた。それなので、もしかしたらロザリーかもしれないと思って、パトリシアはすぐさま「追いかけてみよう!」と言ってヒナタの腕を引いた。

 ヒナタが頷いて、軽く走り出す。パトリシアでも頑張ればついて行ける速さである。それを気遣いと分からず、胸のときめきを感じないほどパトリシアは鈍感ではない。

 そうして、着いた先は路地裏だった。「おかしいな、こっちに行ったと思ったんだけど……」と言うヒナタもいくらか不安げである。賑やかな通りと違い、まったく人気がないせいだろう。


「あら、お嬢さんたち。一体どうしてこんなところに?」


 二人が驚いて振り返ると、確かにパトリシアと同じ髪色をした女の人が柔らかく微笑んでいた。どうやら人違いらしかった。


「あ……ええと、私たち、人を探していて……」

「人?」


 パトリシアの言葉に、女の人は首を傾げて、「どんな人?」と優しく言う。それなので、何だか変に安心する気がして、「私と同じ髪の人なんです」とパトリシアは素直に言った。

 女の人はじっとパトリシアを見つめると、急に目つきを値踏みするようなものに変えた。だから、突然背筋が冷えた気がして、パトリシアは狼狽えながらヒナタの袖を摘んだ。


「あの、僕たちがどうかしましたか?」

「あらまぁ坊や。ごめんなさいね、ちょっと驚いたの……」


 ヒナタが一歩前に出れば、女の人は笑って「あなたたちが小間使いだなんて思わなかったのよ」と言った。

 女の人が雰囲気を変えたのにヒナタも気付いていたのだろう。「そうですか」と言う声は少し剣呑だ。


「怒らないでちょうだい。私だってこんな仕事……いえ、あなたたちに言ったって何の意味もないわよね」


「あなたたちも苦労するわね。小間使いなんて、何にも知らないのが仕事だものね」と女の人はため息混じりに言った。

 小間使いとは、一体何の話だろうか。パトリシアは疑問に思ったが、今それを聞いて良いことがあるとは考えられない。ヒナタも同じ考えをしたのか、「そうですね」と少し硬い声音で答える。


「どうせ、王子様達のことを探るように言われたんでしょ。バカよね、あの人ったら本当に臆病なんだから……」


 あの人とは、グライフから助けてくれたあの青年のことだろうか。ぼかしてはいたものの、王家のことをよく思っていないような口振りだったことを鑑みるに、可能性が低いとは言えない。

 もしかしたら、とんでもないことに巻き込まれようとしているのかもしれない。パトリシアはそう思って、ごくりと唾を飲んだ。

 握った拳の内側がびっしょりと汗をかいている。地面の感覚がぐらぐらと揺らいで、膝も笑ってしまいそうだ。

 女の人はパトリシアをちらりと見て、「まぁ、頑張りなさい」と憐れむように言うと、顎で路地の入り口の方を指した。それなので、パトリシアとヒナタは一礼をして、その場からすぐ離れるしかなかった。




 ロザリー達と出会えたのは路地を出てすぐのことだった。背の高いシャクドウがルークを肩車していたお陰で、簡単に見つけることができたからだ。

 パトリシア達が駆け寄ると、不安そうにしていたロザリーがぱっと笑みを浮かべて、「パティちゃん! ヒナタくん!」と嬉しそうな声を上げる。


「ごめんなさい、目を離して……二人で大変だったでしょう?」

「お姉ちゃんのせいじゃないよ! ごめんね、ちゃんとお姉ちゃんについていかなかったから……」


 パトリシアが謝ると、ヒナタも「すみませんでした……」と申し訳なさそうに言う。それがおかしかったのか、シャクドウがくつくつと肩を揺らして、いまだに肩車されたままだったルークが「ちょっとシャクドウさん! 揺らさないでください!」と悲鳴混じりに怒鳴った。


「それはそうと二人とも、一体どこに行っていたんですか〜? お姉さん、本当に心配したんですよ?」


 ロザリーの声が責めるようではなかったので、パトリシアはすぐに路地であったことを話そうと思ったのだが、少しだけ考え込んで、「向こうのお店の人たちにブリトーをもらったから、それ食べてたの……」とだけ言うことにした。さっきの女の人が見張っているかもしれないと思ったからだ。


「あら! それは良かったですねぇ。美味しかったですか?」

「うん、とっても!」


 パトリシアが「ね、ヒナタくん!」と話を振れば、ブリトーの味を思い出したのか、「そうだね、本当に美味しかった……」と言ったヒナタがよだれを指で拭う。

 そんな姿をロザリーが笑って、「フリーレンベルクはブリトーだけじゃありませんよ〜! もっといろいろ案内しますから、ちゃんとついてきてくださいね!」とご機嫌な調子で言った。




 いくつかの通りを見て回った後、ロザリーは古びてこぢんまりした店の前で足を止めると、「シャクドウさん〜頭に気をつけてくださいね」と微笑んだ。店同様、ドアも随分小さいものだったからだろう。


「俺がそんなヘマすると思うかい?」

「ふふ、ごめんなさい。お兄様が前にぶつかっていたものですから……」


 ロザリーがくすくすと笑えば、シャクドウはふんと鼻を鳴らした。そして、「俺ァな、もっと背の低い箱の中に入ってたんだ。なんてこたねェとも」と得意げに言うなり、いの一番にドアを潜って、突然ギャっと声を上げた。どうやら、潜った先にあった観葉植物の葉に驚いたようだった。


「嬢ちゃん! ぶつかったって、まさかこれのことかい……」


 シャクドウが葉を摘んで気恥ずかしそうに言うので、パトリシアはちょっと笑ってしまったし、他のみんなだってそうだった。それが気に食わなかったのか、シャクドウはもう一度ふんと鼻を鳴らして、誤魔化すように店の奥へと進んでいく。

 パトリシアたちもそれを追いかけるように店内に入って、ロザリーの案内で海がよく見える席に座った。しかし、シャクドウだけは随分拗ねた様子で、ちょっと離れた席に腰掛けていた。

 少しすると、店の奥から気難しそうな壮年の男が水の入ったグラスを持ってきて、「失礼。よろしいですか、これにはレスティヒという柑橘の汁が入っております」と言いながら、パトリシアたちの前に並べた。


「レスティヒと言いますのは……窓をご覧ください。そこに木が見えますでしょう。あそこに成った赤い身のことです。水にあれの果汁を落とすと、氷の代わりになるのです」


 シャクドウの前にもグラスを置くと、壮年の男は「ぜひ、ご賞味ください」と言い残して、にこりともせずに店の奥に戻っていく。それなので、パトリシアは面食らったように思って、「あの人が店主の人?」とロザリーに聞いた。


「そうですよ〜面白い人でしょう?」

「そうかなぁ……」


 ロザリーの言うことがよく分からなくて、パトリシアはうーんと首を傾げた。しかし、ウィルフレッドが時々魔法の才能がなければ料理人になりたかったと言っていたのをふと思い出すと、店主の姿と幾分か重なって見えるようだった。言いたいことを言うだけ言って去っていくところなんてそっくりである。それが面白いと言うならそうなのだろう。

 雑多な棚、適当に釣られたガラス細工、変に拘ってある窓枠の掘り模様、質素なグラス──まとまりのない店内だ。もし兄が店を開いてもこんな風になるのかもしれない。

 水を一口飲んだルークが「本当に冷たいです!」と歓声を上げ、ヒナタもわぁと喜んでいる様を見ながら、パトリシアはくふくふと笑った。とても愉快な気分だったからだ。

 そして、パトリシアもグラスに口をつけて、すぐに歓声を上げることになった。水自体は常温なはずなのに、本当に氷水の味がして、とても冷たく感じたからだった。

 少し離れた席にいたシャクドウも、「おい、これが魔法ってやつかい?」と言いながら、グラスと椅子を持ってパトリシアたちのテーブルに寄ってくるものだから、レスティヒという果物は大したものである。


「全く魔法ではありません。ただの食材でございます」


 サービスワゴンを引いてきた店主がそう言って、「こちらは白身魚のマリネでございます」とパトリシアたちの前に皿を並べていく。

 白身魚や玉ねぎなど、さまざまな食材が和えられている中に、赤い果実がよく映えるようだった。それなので、パトリシアは「これってレスティヒですか?」と店主に聞いた。

 店主は頷くと、「もちろんです、本日お出しする料理はそういうものと思って頂いて結構」と言うなり、今度はフォークを一本ずつ丁寧に並べていく。


「レスティヒは調理法によって味を変えます。そのため、この国では多面性のある者を"レスティヒの木"と呼びます」


「それが魔法であるならそうでしょう」と言ってすぐ、店主はワゴンを引いて店の奥に戻っていった。

 それを見送ったシャクドウが、「で、こいつは一体どんなもんか……」と、素手で白身魚を一つ摘んで口に入れた。フォークの持ち方が分からなかったのかもしれない。


「なんだ? 随分酸いなァ。みんなこんなもんなのかい」


 シャクドウが首を捻ると、ロザリーが「そうですねぇ、レスティヒと一緒に食べてみたらどうでしょう〜?」と微笑んでみせる。


「れす……ってのはこの赤いのか」

「はい、皮ごと食べて大丈夫ですよ〜」


 ロザリーに勧められるがままに、レスティヒと玉ねぎを一緒に摘んで口に放り込んだシャクドウが、「なるほど! こりゃあ良い」と機嫌良く言う。

 そんなシャクドウに釣られて、パトリシアもレスティヒと一緒に白身魚をフォークでまとめて食べてみると、一瞬随分と酸っぱいのだけれども、まるで雪蜂(氷の国でも育つ蜜蜂のことだ)の蜜のような優しい甘さが後から来るのだった。これは確かに良いものである。

 ヒナタやルークも目を輝かせて、この面白い食材について話しながら皿を空にしていく。気付いたときにはみんなの皿が空っぽになっていて、パトリシアはすぐにこの料理やレスティヒのことを兄に教えてあげないといけないなと思った。

 皿が空っぽになったのを見計らったように店主がまたワゴンを引いてきて、皿とフォークを全て片付けてしまうと、代わりに「こちらはトビクジラのステーキと、付け合わせのバゲットでございます」と別の料理を並べ始めた。


「トビクジラといいますのは、私を三人ほど並べた大きさの鯨です。よく海面へ跳ね上がるのでトビクジラと言うのです」


 店主はそこそこ身長も高く見えたから、それが三人ほどとなれば相当な大きさだろう。昨日見たグライフよりももっと大きいかもしれない。そんな生き物がいる海を渡ってきたなんて、パトリシアにはまったく信じられないように思えた。

 それなので、パトリシアは「そんな大きな生き物をどうやって獲ってくるんですか?」と店主に聞いた。すると、店主はにこりともせずに、フォークとナイフを並べながら「私は獲りに参りませんから存じ上げません。第二王子殿下がたまにお持ち込みになるのです」と言う。

 パトリシアはびっくりして、もっと話を聞いてみたいと思ったのだが、店主は「冷めない内にご賞味ください」と言って、そのまま店の奥に戻ってしまった。


(本当に、第二王子様って一体どんな人なんだろう……)


 考えても分からないことだ。そう結論付けて、パトリシアはナイフとフォークを手に取った。ステーキの香ばしい匂いに逆らえなくなったのだ。

 ステーキは思いの外柔らかくて、中心部は生のままなせいか少し血の匂いがした。かかっているソースはきっとレスティヒを使ったものだろう。

 パトリシアはちょっと匂いを嗅いでから、大きめに切ったステーキを一口に頬張った。そうすると、ソースからピリッとした辛味と熱さを感じたものだから、パトリシアが驚くのも当然のことだった。

 ヒナタもルークもステーキにはしゃいでいて、シャクドウも「れす……何たらってのは美味いもんだなァ」と上機嫌でいる。食べ慣れているためか、ロザリーだけが上品に食事をしていた。

 そうして、食後のデザートとしてゼリーが出てきたときには、それより驚かざるを得なかった。赤いゼリーなのに、スプーンで掬ったときだけ波の国の海のように透き通った青色に変わるのだ。味だって、少しの塩味が甘さを引き立ててとても美味しいのだった。

 多面性を持つ人をレスティヒに喩えるのは本当に面白いことだとパトリシアは思った。それくらい、レスティヒはいろんな姿を持つ果物だったからだ。




 店で食事をした後もいろいろと見て回ったせいで、エイブラハムの家に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。

 氷の国だったら、こうして遅くまで出歩くなんて自殺行為だ。それなので、パトリシアは随分浮かれた気分で、泊まっていくと言ってくれたロザリーと一緒にベッドに寝転がっても、驚くほど全然眠れないような気がした。


「ねぇ、お姉ちゃん。まだ寝なくても良い?」

「良いですよ〜せっかくですから、何かお話ししましょうか?」


 男達はみんな別の部屋にいるから、今は憧れの従姉と二人きり。そう思うと、パトリシアは上手に言葉が出てこなくて、「あ、あのね、今日、すごく楽しかったの。昨日もね、たくさんすごいことがあって……」と舌をもつらせながら言った。


「すごいこと?」

「えっと、海と空が真っ青で、それからグライフに襲われたの……」

「まぁ! 怖かったでしょう? 怪我しませんでしたか? お姉さんが一緒にいたらすぐにやっつけてあげたのに!」


 ロザリーが力瘤を作るようにしてみせるので、パトリシアは笑って、「大丈夫だよ、お姉ちゃん。綺麗な人がすぐに助けてくれたの!」と返した。

 それにしたって、華奢なロザリーがグライフをやっつけるだなんておかしな話だ。きっとパトリシアを安心させようとしたに違いない。


「綺麗な人?」

「うん、お姉ちゃんとおんなじくらい綺麗だったよ」

「まぁ、パティちゃんったら」


 ロザリーは笑みを浮かべる姿だって綺麗だ。だから、パトリシアはロザリーがにっこりと笑ったのが嬉しくなって、「それでね、その人に王子様達について聞いてみてってお願いされたんだ」と浮ついた声で言った。

 パチリと瞬きをしたロザリーが、今度はふふふと声を上げて笑った。それから、「本当に、あの人はレスティヒの木ですね」と言う。


「どういうこと?」

「きっとすぐに分かりますよ〜」


 ロザリーは微笑んだままそう言って、「パティちゃん、眠れないなら音楽をかけても良いですか?」と蓄音機の方を見た。

 はぐらかされていると分からないほどパトリシアは子供ではない。けれども、こういう態度を取るときのロザリーは、食い下がっても深いことを話してはくれないのだと知っている。

 それだから、パトリシアは鞄を引っ張ってきながら、「お姉ちゃん、私、エヴァの音盤持ってきたんだけど……」と言うしかなかった。


「あら〜? じゃあ、せっかくですからそれにしましょうか」


 せっかくだからと言うが、ロザリーだってエヴァの歌は好きなはずだ。パトリシアにエヴァの音盤をくれたのはロザリーだからである。と言うより、エヴァは世界的に有名な歌姫で、彼女の歌を嫌う人なんて元よりほとんどいないのだ。それは不思議なほどに。

 ロザリーが蓄音機に音盤を嵌めて、ゆっくりとエヴァの歌声が流れ始める。細く美しい歌声が夜に馴染むようだ。それを聴いていると、今日あった嫌なことも、楽しかったことさえも、どこかぼうっと霞んでしまうみたいな気がした。

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