第8話 従兄達の家

 フリーレンベルクに着いた頃にはすっかり日が傾いていた。空が青いことや太陽が見えることだって、氷の国に住んでいるパトリシアにとってはすごいことだったが、雲まで橙色に染まる夕暮れというものは格別に美しく見えた。氷の国では、オーロラの見える夜以外に雲が晴れることはないからだ。

 しかし、高台から見える海がきらきらと黄金色に輝くのを見てさえも、パトリシアの心は何だか沈むようだった。御者に第一王子の話を聞いたせいである。

 御者はいくらか言葉を選ぶように、「第一王子様は……素晴らしい方さ。陛下は争い事が好きな人だったからね、今こんなにも平和な暮らしを送れているのはあの方のおかげさ」と言っていたが、最終的に、「ただ……一度だけお見かけしたことがあるけれど、おじさんびっくりしたよ。氷のような目をしておられるんだよ」と身震いもしたのだ。

 その上、大処刑の話になると、「大きな声じゃ言えないけど、当時の兄君お二人はともかく、姉君は……言っちゃ悪いが、知恵遅れだったらしくてね、十五になられてもまるで五つほどの子供みたいだったんだと。そんなだからね、まさか国を売れるような方じゃなかったと思うんだよ」とも言っていたのだった。


「はぁ……」


 パトリシアはため息を吐いて、馬車が走っていった方をチラリと見ると、助けてくれた青年が王子達の話を聞くように言った意味が少し分かってしまったような気がした。

 国を売るとはどういうことだか分からないが、ともかく、御者は元第一王女は眠ったまま処刑されたそうだと言っていた。五つくらいの子供の心なのに、何も気付かないまま罪を被されて首を切られたのかもしれないのだ。それが事実だとすれば、処刑を免れた王子達に対して思うことも出てくるだろう。特に、処刑の首謀者と噂される第一王子には。

 みんな思うところがあるのか、随分黙りこくっていたが、ウィルフレッドが「まぁ……ともかく、行きましょう。こんなところで突っ立ってても何にもならないでしょ」と言うので、パトリシアは「うん……」と俯き気味に言った。




 フリーレンベルクの街並みと言えば、道も細く曲がりくねっていて迷ってしまいそうだったが、イヴァンとエイブラハムの住む家はそんなに遠くなく、地図を見ながらすたすたと歩いていくウィルフレッドに着いていけばすぐに辿り着けた。

 それにしたって、綺麗な家だ。真っ白なレンガの壁に、同じくレンガでできたオレンジの屋根、それからとっても広い庭!

 あたりの家の屋根も綺麗なオレンジだが、壁は随分とくすんで見えるし、狭くて庭なんてほとんどない。

 だから、目の前の家が本当に綺麗に見えて、パトリシアはほうと息をついた。だって、まるで小さな城のようだったからだ。ルークやヒナタもそう思ったのか、「大きな家ですね……」とか、「どんな人が住んでるんだろう……」とか、こそこそと言い合っているのである。


「お兄ちゃん、エイブラハムさんって貴族の人だったっけ?」

「いや? 商人っすよ。まぁ、ここいらの顔役ってとこすね」


 ウィルフレッドの言葉に、パトリシアはふーんと返して、「顔役ってことは偉いんだ?」と聞いた。よほど偉い立場でなければ、こんなに立派な家は建てられないだろうと思ったからだ。

「そうでもなきゃ、兄貴とは……」とウィルフレッドは言って、あからさまに説明が面倒だという顔をすると、「あー、まぁ良いや、荷物置きたいんでその話はまた今度……」と手ぶらのくせに宣った。

 そうして、荷物を持たされているパトリシアが苦言を呈するより早く、ウィルフレッドがドアベルを鳴らしてしまう。そのせいで文句の一つも言えず、パトリシアはぷうと頬を膨らませることしかできなかった。




「あぁ、よく来たねえ! 波の国は遠かっただろう!」


 ドアを勢いよく開けた男──きっと彼がエイブラハムに違いない──が、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて、開口一番にそう言った。

 褐色の肌は氷の国では珍しい。波の国でも基本的には同じなはずだ。エイブラハムが褐色の肌をしていると話には聞いていたものの、パトリシアは物珍しさに気を取られて、咄嗟に返事ができなかった。


「キミがウィルフレッドくんだね、いつも手紙をありがとう。会えて嬉しいよ! 歓迎のハグを……」

「いや、俺そういうのは良いです」

「分かっていたけどクールだね……!」


 大袈裟に腕を広げてハグをしようとするエイブラハムを軽くかわして、ウィルフレッドはちょっと呆れた顔をしつつ、「まぁ性分なんで……」と肩を竦める。


「とは言え、これじゃ礼儀には欠けるっすね。パティ、俺の代わりに抱き締められてきてください」

「ええっ⁉︎」


 いきなりの振りにパトリシアが狼狽えると、エイブラハムが声を出して笑って、「おじさんとハグなんて困るよねえ」と朗らかに言った。


「えっと……そういうんじゃないですけど、あの、エイブラハムさん……で合ってますよね?」

「おや、私としたことが名乗るのを忘れていたね。そうだよ、私がエイブラハムだ」


 パトリシアの質問に、エイブラハムはにこやかに答えて、「キミたちのことはウィルフレッドくんから聞いているよ。パトリシアちゃんにルークくん、ヒナタくんにシャクドウくん……合っているかな?」と、全員に目を向けてからウィンクする。

 陽気で話しやすそうな人だ。パトリシアだけでなく、ルークやヒナタもそう思ったようで、「はい!」と三人の返事が重なった。


「元気な返事だねえ!」


 エイブラハムが嬉しそうに頷くので、パトリシアは何だか照れ臭くなって、ちょっとだけ頬を掻いた。それから、ウィルフレッドが魔法の鳥を先に飛ばしていたことを悟って、先に言ってくれても良かったのにとも思った。

 それから、エイブラハムが「まぁ立ち話もなんだから、ほら、入りなさい」と手招きしてくるので、パトリシアはわくわくしながら「お邪魔します!」と言った。他のみんなも礼をして玄関に入ったからか、エイブラハムが「そんなに気を遣わなくて良いのに」と明るく笑う。

 玄関は想像よりずっと広く、思いの外物がなくてさっぱりとしていた。狭くごちゃごちゃして物の多いパトリシアの部屋とは正反対だ。

 とてもふかふかしているスリッパに履き替えながら、将来住むならこんな家が良いなとパトリシアは思った。こじんまりとしたログハウスは、兄とその弟子との三人で住むには本当に手狭なのである。


「おい、この履き物は……」

「シャクドウさんはスリッパも知らないんですか?」


 スリッパをクルクル回すシャクドウに、呆れたようにルークが言う。しかし、すぐに記憶がないのを思い出したのか、「えーこほん、家の中ではそれに履き替えるんです。分かりましたか?」と先生ぶって言う。


「へえ、けったいだなァ」


 まじまじとスリッパを見てから、シャクドウもそれを履くと、「おい! こりゃなんだ⁉︎ こんなふわふわしたもんで歩けってのかァ⁉︎」と大袈裟に驚くので、パトリシアとルークは大きな声で笑ってしまったし、ヒナタやエイブラハムもそうだった。

 そんなふうに騒いでいたせいか、従兄のイヴァンが奥からやってきたのが見えたので、パトリシアはもうはしゃいでしまって、イヴァンが何かを言うより早く、「イヴお兄ちゃん!」と駆け寄って飛びついた。


「こら、パティ。危ないだろう」

「えへへ、だって〜」


 受け止められるどころか、そのままひょいと抱き上げられて、「まったく……お前は大きくなっても変わらないな」と微笑まれたものだから、パトリシアはちょっと恥ずかしくなって、「だって、もう何年も会ってないんだもん……」と小さな声で言った。


「それはすまない、仕事の都合があってな」

「イヴお兄ちゃんはいっつもそう言うよね!」

「ふふ……そういえば、ロゼも昔は同じようなことをよく言っていたよ」


 懐かしそうに目を細めて、イヴァンは優しい声でそう言う。パトリシアにとって、従姉であるロザリーはずっと大人に見えていたものだったが、兄であるイヴァンから見ればそうでもないのかもしれない。

 そうして、パトリシアを抱き上げたまま、イヴァンはみんなの元へ向かってしまうと、「こんばんは。ウィルやパティから聞いているかもしれないが、私はイヴァンと言う。どうぞよろしく」と微笑んでみせた。

 パトリシアは思った、私を抱き上げていることを忘れていると。イヴァンは雰囲気にそぐわず、だいぶ抜けているところがあるのだ。

 それなので、パトリシアは「イヴお兄ちゃん……」と呆れ切った声を上げた。すると、イヴァンがおやっといった顔をして、あっと声を上げると、「悪かった、降ろすのを忘れていたな」とこともなげに言って、ようやくパトリシアを降ろしてくれた。


「イヴお兄ちゃんってばいっつもそう! 何でもすぐ忘れてたって言う!」

「はは、気を張っていないとついな……」


 パトリシアが唇を尖らせると、イヴァンは困ったように眉を下げて、「今度から気を付けるようにしよう」と言った。

 これも何度か聞いた言葉だが、一度だって気を付けられた試しがない。だから、パトリシアはもうそれ以上責めるのをやめて、わざとらしくため息をついた。

 エイブラハムがそれを笑って、「そんなことより、長旅で疲れただろう? 応接間に案内しようじゃないか」と言う。


「応接間? なんでまた……」

「片付けが間に合ったのがそこだけで……ああいや、良い部屋なんだ、ははは……」


 ウィルフレッドが聞くと、エイブラハムが誤魔化すようにそう笑った。イヴァンが軽く咳払いをしていたので、掃除でもして相当なドジを発揮したのかもしれない。遠くからいとこ達が来るとなって、随分はりきり過ぎたのだろう。仕事以外の場では、気合が入れば入るほど失態を犯すような人なのだ。パトリシアはまだ、イヴァンが仕事をしているところを見たことはないのだが。

「あー……じゃあ、台所も……」と、ウィルフレッドがため息混じりに言う。食材について御者にいろいろと聞いていたくらいだから、趣味が料理しかないと断言しているウィルフレッドにとって、台所が使えないのは困るに違いない。


「台所はまぁ、使えないこともない……」


 イヴァンが視線を僅かに逸らしながらそう言うので、これは間違いなく使えたものじゃないだろうなとパトリシアは思った。ウィルフレッドもそう思ったらしく、ちょっと肩を竦めていた。




 唯一無事な応接間は二階にあった。エイブラハム曰く、三つほどある客間のドアノブや蝶番は大体壊れてしまっているらしい。ドアを開け閉めできない部屋を貸すわけにはいかないということだろう。

 エイブラハムに招かれて応接間に入った瞬間、パトリシアはわぁと歓声を上げた。煌びやかなシャンデリアに柔らかそうなソファ、木目の美しいテーブルに模様の複雑な絨毯、どれを取っても高級なものだと一目で分かる。

 ルークも感動した様子でキョロキョロと辺りを見回していて、ヒナタも緊張した様子であたりを窺っていたが、シャクドウはさっさとソファの方へ行ってどっかりと座ってみせた。


「ふん、悪くねェな」


 満足げなシャクドウに、流石に慌てたのか、ヒナタが「おい、シャクドウ……!」と声を上げた。けれども、エイブラハムは「良いよ良いよ、キミたちも座りなさい」と朗らかに言う。

 そうして、パトリシア達は緊張しながらも荷物を置いて、シャクドウの向かいのソファに寄り添って座ったのだが、なぜだか、ウィルフレッドはぼうっとした様子で廊下に突っ立っているのだ。だから、パトリシアはあれっと首を傾げて、「お兄ちゃん? どうしたの?」と声をかけた。


「え……? あぁ……」


 随分ぼんやりとした返事だ。何か考え事でもあったのかとパトリシアは思ったが、側にいたイヴァンが「ウィル、お前は私と来なさい」と言って引っ張っていってしまうものだから、結局聞けずじまいだった。

 ルークが「何かあったんでしょうか……?」と不安そうに言う。けれども、ルークに分からないのならパトリシアに分かるわけもなく、「さぁ……」と返すしかなかった。

 空気を変えるように、エイブラハムが明るい声で、「キミたち、喉が渇いたろう? 氷の国と比べるとここは暑いだろうしね。紅茶とコーヒー、どっちが良い?」と聞いてくるので、パトリシアはぱちぱちと瞬きをした。

 コーヒーはよくウィルフレッドが飲んでいる(前に一杯貰ったが、砂糖やミルクを入れてみたって飲めたものではなかった)から分かるが、紅茶は名前だけしか聞いたことがない。


「その、コウチャとコーヒーってのは一体なんだい」


 シャクドウがそう聞くと、エイブラハムがハッとした顔をして、「あぁ、そうだったね、キミとヒナタくんは記憶がないんだった」と言う。


「コーヒーはコーヒー豆を挽いたもので……なんて言っても分からないか。せっかくだから両方持ってこよう」


 ヒナタが恐縮そうに「お願いします」と言って、シャクドウは堂々と「悪いな、頼む」と言った。あんまりシャクドウが偉そうだったからか、ヒナタが脛を蹴ったのは言うまでもない。


「パトリシアちゃんとルークくんはどっちが良いかな?」


 エイブラハムに聞かれて、ルークが「コーヒーでお願いします!」と胸を張る。ウィルフレッドの真似のつもりだろうが、いつも砂糖をたくさん入れた上で顔を顰めながら飲んでいるのを知っている。

 パトリシアはおんなじ思いをするのはごめんだと思って、「私は紅茶が良いです!」と言った。無理して飲めないものを飲むより、知らないものに賭けてみる方がマシだと思ったからだ。




 コーヒーに顔を顰めるルークを横目で見ながら、パトリシアは恐る恐る紅茶に口をつけて、そんなに苦くないのにホッとした。もしコーヒーを頼んでいたら、きっとルークと同じ顔になっていたに違いない。

 ヒナタとシャクドウは紅茶もコーヒーも何も入れずに飲めるようだった。それなので、二人とも自分より大人なのだと実感して、パトリシアはちょっと唇を尖らせながら、紅茶に砂糖を少し入れた。

 エイブラハムがシャクドウの隣に座って、「口に合ったかな?」とにこやかに言う。それに対して、ルークが必死に笑顔を作って、「お、美味しいです……僕は大人なので……」と引き攣った声で言う。


「ははは、無理はしなくて良いよ。飲めないなら残しなさい」

「いえ、飲めます、飲めますから、これくらい……!」


 ルークが一気にコーヒーを煽るのを見て、パトリシアは喉の奥で笑った。それから、コーヒーを何とか飲もうとするパトリシアを目を細めて見ていたウィルフレッドの表情を不意に思い返して、兄も同じような気持ちだったのかなと思う。


「パトリシアちゃんはどうだい? 口に合ったかな?」

「はい、美味しいです!」


 パトリシアが笑顔で答えると、エイブラハムは「そうかい」と嬉しそうに頷いて、「イヴァンくんがいてくれたら、もっと美味しいのを出せたんだけどね」と言った。


「そうなんですか?」

「そうだよ、彼は器用だからね。気負わなければ何でもできるんだ、部屋の片付けだってね」


 エイブラハムがウインクして言うので、パトリシアは声を上げて笑った。あからさまなフォローだが、エイブラハムの方がイヴァンと長く過ごしているのだから、きっと本当のことなのだろう。

 そうして、いくらか談笑する内に、パトリシアは「そういえば……」と話を切り出した。ふと青年の頼みを思い出したからだ。


「エイブラハムさんは、波の国の王子様達のことをどう思ってるんですか?」

「え? どうしてそんなことを?」

「あっ……えーと、今度お城に行くから……? いろいろ聞いておきたいなーって……」


 パトリシアの誤魔化しに気付いたのか気付いていないのか、エイブラハムは「そうか……」と重々しく言って、「ううん、何を話すべきかな……」と首を捻った。


「そうだ、キミたちはどのくらい殿下方のことを知っているのか聞いても良いかな?」

「え? えっと、第一王子様はすごいけど怖い人で、第二王子様は神器と契約してる神様みたいな人で……あ、あと、処刑の話はお兄ちゃんと馬車のおじさんが……」


 変に緊張して要領を得ない返事をしてしまって、パトリシアは恥ずかしさで縮こまるしかなかった。けれども、エイブラハムはそれを気にも留めていない様子で、「あぁ、そこまで知っているなら、いろいろ聞きたくもなるだろうね……」と困ったように眉を下げた。

 それから、エイブラハムは意を決したように、「まず第一王子殿下の話だが……名前をお呼びするのも烏滸がましいと思ってしまうような方でね」と声を潜めて話し出した。


「とても優秀で、それ故に恐ろしい方だよ。とにかく、とにかく恐ろしい方だ。わずか八歳にして、実の兄君と姉君を処刑なされたのはもう知っていることだろうが……十になった頃には父君を幽閉し、母君も離れに追い出してしまったそうだ。完全にこの国の実権を握っていると言っても良い」


 パトリシアはふるりと身震いした。そんな人に会うだなんて、本当に恐ろしいことだ。エイブラハムの語り口調も相まってか、ルークもすっかり怯えているし、ヒナタも表情を硬くしている。ゆったりと話を聞いているのはシャクドウくらいだ。


「けれどもね。父君である現陛下は戦争を好まれていたから、殿下が実権を握られてからは随分平和になったんだ。私は砂の国の血を引いているから思うこともあるが、この国の民としては、殿下を信じたい気持ちもある」


 エイブラハムは御者と同じようなことを言うと、ゆっくり首を振って、「しかし……」と静かに声を落とした。


「処刑の際、姉君は既に亡くなられていたとイヴァンくんが……あぁいや、そうだ、イヴァンくんがどういう仕事をしているか、聞いたことはあるのかな?」


 急にそう聞かれて、パトリシアはちょっと狼狽えると、「な、ない……です……」と答えた。考えてみれば、イヴァンはあまり自分のことを話すような人ではなかった。これはウィルフレッドも同じだが、寝るときだって手袋を身に着けたままでいる理由さえ教えてもらった試しがない。

 エイブラハムはしまったといった顔をして、「すまないが、この話は忘れてくれるね?」と申し訳なさそうに言う。

 だから、パトリシアはそれに頷くしかなかったし、そのせいか誰も追及しようとはしなかった。

 申し訳なさそうに眉を下げたまま、「あぁ、ええと、第二王子殿下の話もだったか」とエイブラハムは早口に言って、少し表情を和らげた。


「第二王子であるベルトラート殿下は本当に良い方だ。移民二世である私にも、随分良くしてくださった」


 エイブラハムはそう言うと、「あぁいや、周りに冷たい人が多かったというわけではないんだ。ただ、異国で生まれることになった子供を哀れに思ったのか、少し気遣いが過剰でね……いつまでもお客様扱いで、なかなか仕事を任せてもらえなかったんだ」と微笑んだ。


「それを窮屈に思っていた私や私の仲間に、荷運びの仕事を与えてくださったのがベルトラート殿下なんだよ」

「荷運びですか?」

「あぁ、物資の補給をね。今商人として仕事ができているのはそれがきっかけなんだ」


 パトリシアはへぇと声を上げて、第二王子は本当に良い人なんだろうなと思った。海の魔物を倒してくれて、仕事のない人に仕事を与えるなんて、確かに神様のような人だ。


「はじめての仕事が砂の国と戦争するときの補給業務でね。いやぁ、あの時は複雑だったなぁ!」


 笑いながら言うことではない。パトリシアはそう思ったが、当のエイブラハムが何も気にしていないようだったので、結局何も言えなかった。

 エイブラハムはそんなパトリシアの視線に気付かない様子で、「そこで私は見たんだ! ベルトラート殿下の戦いをね。あれはすごかったよ、一騎当千とはこのことか! とね!」と熱の入った調子で話す。


「けれど……殿下はひどく浮かない様子だった。躊躇のない戦い方をしているように見えたが、本当に良い方だから、兵士とは言え、人を相手にするのは気分の良いものではなかったのかもしれないね」


 少し悲しそうにエイブラハムはそう言って、「殿下は兄君には逆らえないとよく仰っていたから、もしかすれば無理に戦わされていたのかもしれないなぁ……」と視線を落とした。




 麻酔薬や毒薬の並んだ棚を眺めて、ウィルフレッドは相変わらず向いていない仕事を続けているものだと思った。家を出た以上、処刑人の仕事に縛られ続ける必要はないはずだし、エイブラハムもそれを望んでイヴァンに声をかけたはずだ。

 死に忌避感の薄い砂の国の民を除けば、死にまつわる仕事をしている人間の立場は悪い。波の国はまだ寛容だとは言え、人から避けられるのは仕方のないことである。パトリシアに自身の仕事を明かせないのもそのためだろう。


「すまない、こんな場所で。他に使える部屋がなくてな……」


 イヴァンが眉を下げてそう言うのに、ウィルフレッドは軽く頭を横に振って、ぐらっと眩暈がするのに慌てて壁に手をついた。

 しくじった。が、パトリシアやルーク相手ならともかく、どうせイヴァンには隠し通せるはずがない。処刑人が医学の知識を伴っているのは当然のことだし、検死が主とは言え、実際に医者としての仕事もこなせるのだと知っている。

 それでも誤魔化すべきだと思ったが、イヴァンに「座りなさい」と椅子を引かれてしまうと、逃れられないのを察するしかなかった。


「お前のことだから、疲労と軽い熱中症だろうが……首都に行くのは厳しいかもしれないな」


 椅子に腰掛けて、イヴァンの言葉を聞きながら、ウィルフレッドはいくらか押し黙って、「まぁ、でも、仕事なんで……」とぼやくように言った。

 体調が悪い程度で仕事に穴を開けるつもりはない。ウィルフレッドにとって、サボるとは仕事の最中に倒れてしまったようなときを指すものだ。


「お前は体が弱いのだから、無理な仕事をするべきではない。分かっているだろう」

「いやまぁ、そうなんすけどね……兄貴だってしたくない仕事もするでしょ?」


 イヴァンは少し眉を吊り上げたが、結局、深く溜め息をついて、「ウィル、私はな。お前に命をすり減らすような生き方をして欲しくはないのだ。分かってくれないか?」と言う。

 イヴァンの言い分はよく分かる。けれども、ウィルフレッドはすぐに頷くことができなかった。周りからは華々しく思われているようだが、王家に仕えるということは私を捨てるのと同義だ。

 言葉に迷っている姿をどう思ったか、イヴァンは少し目を伏せて、「お前が後悔しないのならば良い。私の言うことは気にするな」と微笑んでみせた。

 イヴァンには濁してしか伝えていないが、ウィルフレッドは本来長生きのできない体である。医学でどうにかなる問題でもなく、今の行いを後で悔めるほどの寿命だって残っていない。


(できることをできる内に……なんて、そんなこと言うわけにもいかないしなぁ……)


 このことを知られたら悲しませてしまうかもしれない。そう考えてしまうとどうにも伝えがたくて、ウィルフレッドは背もたれに寄りかかりつつ頭を掻いた。


「しかし、数日は安静にしていなさい。出立は少しでも涼しい日にするように。分かったか?」


 イヴァンのその言葉には流石に頷いたが、ユーリィにこれをどう報告したものかと思うと気が重い。

 これでは、次に会ったとき──とまで考えて、もし自分の思惑が外れたら次はないのだと気付けば、眩暈がいっそう酷くなるようだった。だから、ウィルフレッドは体重を全て背もたれに預けて、今は何にも考えないようにしてしまうしかなかった。

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