第7話 波の国

 波の国の港に降りて、シャクドウはあたりをぐるりと見渡した。自分が目覚めた島とは随分雰囲気が違う。船は四つほど泊まり、人出も多く賑わって見えた。これが辺境なの港だと言うのだから驚きである。

 雪の積もっていない様子と、あたりの活気の良さに一頻りはしゃいで、パトリシアとルークとヒナタの三人は街道の方を見てくると言って船着場から駆け出して行った。それを見送ってから、シャクドウは「本当に良いのかい、行かせちまって」とウィルフレッドに言う。


「まぁ……良いんじゃないすか。向こうは平原でしょ、死ぬことはないっすよ。魔物もいないらしいですし」

「魔物ってのはどこにでもいるもんじゃねェわけだ」

「人出が多いところならそれだけ退治されるんで……」


 そうウィルフレッドが言った瞬間、船着場に大きな影が落ちた。何か大きなものが空を飛んで行ったのである。それが獣の体に翼が生えたような生き物だったから、シャクドウはすぐさま、「ありゃもしかして魔物かね」と声を上げた。ウィルフレッドも眉を顰めて、「こんな場所に魔物……? まさか……」と怪訝な声で言う。

 けれども、積荷を下ろしていた船乗りの一人が平然とした様子で、「兄ちゃんたち、心配いらねぇよ。ありゃグライフだ。馬や牛型の魔物しか食わねぇよ」と笑った。


「人間は食わねェってわけかい」

「そうさ。詳しいことは御者にでも聞きな、あんたら馬車に乗るんだろ?」

「うん? バシャってのはなんだ」

「兄ちゃん、馬車を知らねぇのか? まぁ、あの島には何にもなさそうだったしなぁ」


 船乗りはうーんと首を捻って、「動物が引っ張る乗り物ってやつだ。見たら分かるさ」と言った。そうして、シャクドウが納得した様子を見ると、「そうだ、魔法使い様、船の原動機をもう一度見て貰えねぇか」と、今度はウィルフレッドの方に声をかける。

 ウィルフレッドはあぁと言って頷くと、「悪いんすけど、適当に時間を潰しておいてください」と言って、シャクドウの返事も待たず、船乗りに連れ立って船の方に戻っていった。

 数日一緒に過ごした程度しか知らないが、本当に頼まれごとを断らない男だなとシャクドウは思う。それと比べて、パトリシアたちは自由だ。積荷を降ろすでもなく一目散に駆け出していくほどである。それなので、(ウィルフレッドの奴、随分苦労してンだろうなァ……)とも思った。

 



 グライフは人を襲わないはずだ。ところがどっこい、パトリシアたちは見事にグライフに襲われていた。グライフは鋭い雄叫びを上げて、逃げる三人の中で一番足の遅いルークに襲い掛かろうとする。


「先輩! ヒナタさん! 今までありがとうございました! 僕はもうダメです! 死にました!」

「大丈夫! まだ生きてる! 死んでない!」


 叫ぶルークにパトリシアが叫び返して、見かねたのかヒナタが「ルーク! ごめん!」と強く言うと、ルークを肩に担いで走り出した。

 しかし、グライフは飛べるのだ。人間が走ったところで逃げられる相手ではないのである。

 鋭い爪が地面を抉るのをギリギリでかわして、パトリシアは「ヒナタくん! 何とかならない⁉︎」と声を張り上げた。けれども、ヒナタは「ごめん! シャクドウ置いてきた! 本当にごめん!」と片手で合掌をするようなポーズを取る。


「ルーク! あの魔物何⁉︎ どうしたら良いの⁉︎」

「多分グライフですけど分かりません! 美味しくもないと思います!」

「今そんなこと聞いてないの‼︎」


 思いっきり地面を蹴って急降下してきたグライフの目に土をかけながら、ヒナタが「そんな……ッ!」と今日一番悲痛な声を上げた。美味しくないという言葉に絶望しているわけである。この状況で。ふざけている。

 目に土をかけられたグライフは一瞬怯んだが、すぐに体勢を立て直してしまう。そのせいで、ヒナタが投げてみせた石も軽くかわされて、追い払うこともできそうにない。

 ここ数日で何度目かの命の危機だ。けれども、今までと違って、純粋な殺気が身を抉る。

 今回こそはもうダメだとパトリシアは思った。ルークではなく、今度は自分が狙われていると気付いてしまったからだった。その瞬間、やけに息が上がって、迫ってくるグライフの爪をかわす体力も、気力さえも奪われる。

 ルークとヒナタが叫ぶのがどこか遠く聞こえて、それより大きな音でグライフの息遣いが聞こえた。心臓の音が跳ね上がる。体の上に大きな影が落ちている。

 グライフが大きく前足を振り上げて、パトリシアは「あ……」と小さな声を上げた。大きく鋭い爪がきらりと輝くのを見た。低く唸るような音も。それから、弾丸のようなものがグライフの額を貫いたのも──。

 途端に、グライフの瞳が上向いて、奇妙な悲鳴を上げた。そのままぐらりと大きく体勢を崩し、巨体が派手な音を立てて真横に倒れる。

 パトリシアたちは言葉を失ってその場にへたりと座り込んだ。だって、もう殺されてしまうものだと思っていたからだ。それなので、見知らぬ青年が駆け寄ってきて、「君たち、怪我はないかい?」と声をかけてくれたときも、咄嗟に声を出すことさえできなかったのだ。

 綺麗な人だとパトリシアは思った。ルークもいくらかぼうっとしているようにも見えた。だから尚更言葉が出てこなくて、パトリシアは無言で青年を見上げるしかなかった。


「怖い思いをしたことだろう……すぐに気付いてあげられなくてすまなかった」


 声を出せない様を哀れでもに思ったのか、青年は上品に膝を折ると、座り込んだままのパトリシアたちに優しく微笑みかけて、「とにかく、もう大丈夫だ。心配いらないからね」と穏やかな声で言う。その声を聞いているとやけに安心する気がして、パトリシアは涙声で、「うん……」と呟くように言った。


「あの……」

「なんだい?」

「ありがとうございます……僕たちを、助けてくださった……んですよね?」


 ルークが遠慮がちにお礼を言えば、青年は少し笑って、「当然のことさ」と言った。ヒナタがお礼を言うのにも、同じような返事をした。それから、パトリシアたち一人一人に手を差し伸べて立ち上がらせると、「向こうの道を行けば港の方に出るからね」と街道の方を指さして、すぐに「それでは、私はこれで」と立ち去ろうとする。

「ま、待ってくださいっ」とパトリシアは反射的に声を上げた。そして、「その、お礼させてください! お兄ちゃんが親切にしてもらったらちゃんとお返しするようにって……」と、早口に言った。変に必死になっている自分が恥ずかしいくらいだったが、命を助けて貰っておいて何も返さないわけにはいかない。

 青年はぱちりと瞬きをすると、「そう言われると断りづらいなぁ」と優しく笑った。笑顔にまで品があって美しく見えるものだから、きっとこの人は貴族か何かなのだとパトリシアは思った。


「そうだなぁ、お礼……お礼か……それなら、ひとつ頼み事が──」


 青年の言葉はそこで途切れた。慌てた様子でパトリシアたちのところへ走ってきた恰幅の良い男が、「こら! 勝手にどっか行くなって言っただろ! 探したんだぞ!」と青年を叱り付けたからである。


「はぁ……仕方ないじゃないか、子供達が魔物に襲われていたんだから」

「ったく、お前は本当に手のかかるお姫さ」

「死ね‼︎」

「マ゛!」


 上品とは何だったのか。青年は男の鳩尾を勢いよく蹴り飛ばすと、断末魔を残して見事に昏倒した男を冷たい目で見下ろした。

 パトリシアは動揺して、「死ねって言った……」と呟いた。ルークも「死ねって……」と同じように言って、ヒナタも「殺した……」と呆然とする。

 青年もやらかしたと思ったのか、随分狼狽えた様子で、「あっ、違うんだ。これはつい足と口が滑っただけで」と誤魔化すように言った。滑りすぎである。


「えっと、それで、その……この死た……この人は……?」

「今死体って言おうとしなかった?」


 ルークの失言に、パトリシアはいつもの癖で反応してしまう。微妙な空気が流れるが、もうどうすることもできない。

 青年が苦笑いをして、「あぁ、これは下ぼ……召使のようなものだ」と場を誤魔化すように言ったが、下僕と言いかけている時点で何も誤魔化せていないのだ。


「まぁ、君たちが心配することはないよ。これは殺そうとしても死なないから」

「い……ッ、てて……おい! 流石にいきなり鳩尾を狙うのはどうかと思うぞオレは!」

「ほらね」


 目を覚ますなりすぐ突っかかってきた男を顎で指して、青年はにこりと笑った。男は「お前なぁ……!」と唸るように言ったが、結局ため息を吐いて肩を落とす。


「さて……頼み事の話をさせて貰おうかな。君たちは氷の国から来たように見えるんだけれど、間違いないかい?」


 青年の言葉にパトリシアはびっくりして、「は、はい、そうです! でも、どうして分かったんですか?」と聞いた。

「髪と目の色を見ればすぐに分かるさ」と、青年は悪戯に笑った。そして、「氷の国は鎖国状態に近くなって久しい……君のような、あの国特有の容姿をしている子がいたら、誰だって想像がつくとも」と目を細める。


「私の髪とか目の色って、この国じゃ珍しいんですか?」

「そうだよ、珍しくてとても綺麗だ。知らなかったかい?」


 パトリシアは髪先をくるくると指先で弄んで、なんだか自分が特別な存在になったように思った。だって、青年の瞳ときたら、さっき船上で見た海のようなのだ。そんな瞳を持つ人から綺麗だと言われてしまったのだから、氷の国ではありきたりだったとは言え、自分の容姿が素晴らしいもののように思えてならなかった。

「こほん! 僕たちが氷の国から来たことと頼み事に、どんな関係があるんですか?」と、ルークが話を戻すように言った。そうすると、「簡単なことさ」と青年は微笑む。


「君達がこれから出会う人……特に同郷と思わしき人がいたら、こう聞いて欲しいんだ。この国の第一王子と第二王子をどう思うか、とね」

「どうしてそんなことを?」

「どうしてだと思う?」


 青年に聞き返されて、ルークは少したじろぐと、「分かりません……」と呟くように言った。パトリシアも分からなくて押し黙ったが、ヒナタが悩みながら、「その……王子様たちをあんまりよく思っていないから?」と遠慮がちに言った。


「ふふ、そうだとしたら?」

「お前な……あんまりあれこれ言うなよ。面倒なことになる」


 揶揄うような青年の言葉に被せるように男が言って、ちらりとパトリシア達の方を見たが、すぐに青年の方に視線を戻して、「お前だって揉め事を起こしたいわけじゃないだろ?」と眉を下げた。

 けれども、「たまには良いじゃないか」と青年は不敵に笑う。その姿を見て、パトリシア達は何か悪いことに巻き込まれているんじゃないかと考えたが、「ともかく、よろしくね」と青年に微笑まれると、何だか言うことを聞かなくてはいけないように思えるのだった。


「えっと、さっきのことを聞いた後はどうしたら良いんですか……?」

「そうだなぁ……君達は首都には行くのかな?」

「い、行くと思います、お兄ちゃんがお城に行くって……」


 パトリシアはハッとして口を押さえると、ルークやヒナタの方を見た。そして、よく分かっていなさそうなヒナタはともかく、「ちょっと、先輩……」と呆れ顔をするルークに対して身を竦める。

 青年が王子二人をよく思っていないのならば、首都の城──つまり王城のことだ──に行くなんて知られて良いことはない。しかし、青年はそれを気にも留めない様子で、「そうか。それなら、私から君達に会いに行こう」と言う。


「会いに? 待ち合わせじゃなくて?」

「首都に行くなら必ず会うことになるからね」


 有無を言わせぬ口調だ。思うことはいくらでもあったが、パトリシア達は小さく頷くしかなかった。なぜだか分からないが、青年の言葉にはそういう魔力があるようだったのだ。




 今度こそ青年と男が去ろうというとき、ヒナタが思い出したように、「すみません! 一つ良いですか?」と声を上げた。

 悪い予感しかしない。パトリシアもルークも、慌ててヒナタの口を塞ごうとしたが、青年はにこやかに口元へ手をやって、「なんだい?」と軽く首を傾げてしまう。


「この魔物はどうするんですか? 僕らが貰っても良いですか?」


 パトリシアとルークの奮闘虚しく、そうヒナタは質問する。間違いない、確実にグライフを食うつもりである。

 そうとは知らない青年は、不思議そうな顔をすると、「騎士団が回収しに来ると思うけれど……欲しいのかい? グライフが?」と怪訝な声で言う。しかし、すぐに何かに合点がいったような様子で、「まぁ、構わないよ。好きにしたら良い」と微笑んだ。


「グライフの毛皮はそれなりの値が付くからね、旅の資金には十分……」

「やったー! また焼肉パーティだ!」

「えっ? 焼肉……あぁ! 分かったぞ、君達魔物を食べたな⁉︎」


 喜ぶヒナタに青年は酷く驚いてみせて、「だからグライフに襲われたのか……人を襲うなんておかしいと思ったんだ……」とため息を吐いた。

 ヒナタがえっと声を上げて、「どういうことですか?」と、青年をまじまじと見た。パトリシアもルークも気になって、同じように青年を見る。

 青年は呆れた調子で、「魔物を食べると特有の魔力が残留するんだよ。グライフは本来人間を襲わないのだが……残留した魔力を感じ取って、君達を獲物だと思い込んだわけだ」と言った。


「じゃあ、魔物を食べれば食べるほど襲われやすく……?」

「そうなるね。大体、一月ほどは狙われると思うよ」


 一月。パトリシアとルークは震え上がった。冒険は好きでも危険が好きなわけではないのだし、あと半月も魔物に狙われ易くなるなんて耐えられない。

 しかし、返事を聞いたところで、ヒナタはグライフを食べるのを諦めていないようだった。「魔力……残留……そんなことが……」とぶつぶつ呟いた後、すぐに「あの、安全に魔物を食べる方法を知りませんか?」と青年に聞く。


「知らないけれど……君達、そんなに食べるものに困っているのかい?」

「いえ、魔物を食べたいだけです」

「えぇ……? どうして?」

「美味しそうなので」

「うーん、まぁ、珍味として魔物を食べる好事家もいることはいるか……」


 青年は首を捻りつつ、「とは言え、魔物を食べるのはなぁ……結構な数の冒険者がそれで命を落としていることだし……」と眉を顰めた。

 青年の一歩後ろについていた男が、「航海中に海水を飲むようなものだよなあ」と、何とも言えない微妙な笑みを浮かべたまま言う。それが少し不気味で、パトリシアはいくらか身を竦めた。

 確かに、喉が渇いているときに海水を飲むのは命取りだと船乗りが言っていた。飲めば飲むほど喉が渇くのだと言う。飢えた冒険者が魔物を食べ、他の魔物に襲われることをなぞらえての言葉だろうが、しかし、それは笑みを浮かべながら話すようなことだろうか。


「それなら、襲ってくる魔物を全部倒せるようになれば食べ放題……‼︎」

「どうしてそんな発想になるかなぁ……⁉︎」


 そんな疑問はヒナタと青年のやりとりのせいで霧散した。今すぐ、思いっきり引き摺ってでも、ヒナタをグライフから引き離さなければならない。

 パトリシアがルークに目配せすると、ルークは「それじゃ、僕たち失礼します!」と大きな声で言ってヒナタの首根っこを掴んだ。パトリシアも同じように、「今日はありがとうございました!」とお礼をしながらヒナタの腕を掴む。そうして、ぽかんとする青年と、微妙な笑みを浮かべたままの男を背に、「僕の晩ご飯が!」と悲鳴を上げるヒナタを引き摺って走り出した。




 涙を流すヒナタを港まで引き摺って帰れば、港の人達がちらちらと気遣わしげな視線を送ってきた。意気揚々と走っていった子供達の内の一人が泣いていて、その上引き摺られているのだから当然とも言えた。しかも、引き摺っている側の表情は見事に死んでいるはずだから仕方がない。

 ともかく港にまで無事に着けたのは幸いなことだ。パトリシアはまた魔物に襲われなくて良かったと深く息を吐いた。

 そうして、乗ってきた船の近くまで行くと、木箱に腰掛けていたシャクドウがヒナタに目を向けて、「おいおい、どうした。男が泣いてみっともねェ」と片眉を上げた。


「気にしないでください、魔物を食べ損なっただけです」

「あァ……そうかい。そりゃ災難だった」


 疲れ果てた声を出すルークに同情してか、シャクドウはそう言って、「魔物とやり合ったのかい? この辺のは人は襲わねェと聞いたが……」と首を傾げる。

「魔物を食べたら魔物に襲われやすくなるんだって」とパトリシアは口を尖らせた。もっと細かく説明すべきだが、今はその気力さえない。


「そりゃあ、尚のこと災難だったなァ」


 相当可哀想に思ったのかもしれない。シャクドウがひどく憐れむような声でそう言って、ぽんぽんとパトリシアやルークの頭を撫でた。




 船旅の次は馬車の旅である。原動機の調整を終えたウィルフレッドと合流してすぐのことだ。

 はじめて見る馬車に、ルークがわぁと声を上げた。氷の国では資金があれば転移紙、特定の場所にしか行けない代わりに安価なポータルなど、魔道具での移動が主なため、馬車というものは存在しないのである。雪に足を取られるため、馬もいなければ車輪のついた乗り物もないので、パトリシアもルークと同じように胸を高鳴らせた。


「お嬢ちゃん、坊ちゃん、馬車ははじめてかな?」


 御者の男が人の良さそうな顔でにっこりと笑いながら言った。それなので、パトリシアは「はい!」と元気に返事をする。

 少しだけ緊張した面持ちで、ルークが「その、馬って噛んだりしますか?」と聞いた。御者は明るくそれを笑って、「噛むのもいるけど、うちのは噛まないよ。触ってごらん」と言う。

 ルークが馬の一匹におずおず触り、シャクドウやヒナタも馬に寄って行ったのを横目で見ながら、パトリシアは「お兄ちゃん、次はどこに行くの?」と聞く。

 ウィルフレッドはいくらかぼうっとした様子だったが、あぁと呟いて、「兄貴のとこに顔出しておこうかなって。あ、ロゼにも会っとかないと拗ねるか……」と言った。

 兄貴とは従兄のイヴァンのことで、ロゼは同じく従姉のロザリーのことだ。二人の母親が氷の国の生まれなおかげで、鎖国に近い状態でも時折り顔を出してくれるが、パトリシア達から訪ねるのははじめてである。


「イヴ兄は怒らないだろうけど、イヴ兄の旦那さんは良いのかな? 急に行っても」

「ハムさん? 別に気にしないでしょ。あの人だいぶ適当っすよ、手紙でしか知らないんすけど」


 ウィルフレッドが何でもないことのように言うので、パトリシアはびっくりして、「え、もしかして文通とかしてるの?」と言った。


「まぁ。兄貴が結婚するって言い出してからの付き合いだから……もうかれこれ六年くらい?」

「は〜お兄ちゃんって意外と筆マメだよね」

「あんたと違って俺は真面目な男なんで」


 これ以上何かを言えばまた揶揄われるに違いない。パトリシアはそう思って、「そーですね」と口を尖らせた。

 そうこうしている内に、御者が「お兄さんとお嬢ちゃんも乗った乗った、もう出発するよ」と愛想良く言い出したので、パトリシアは慌てて、「はーい!」と返事をすると、ウィルフレッドの袖を引っ張って馬車に乗り込んだ。

 荷物もあるため、五人で座るとなるといくらか手狭だ。一番背の高いシャクドウなんかは、首を丸めなければ乗れないような有り様である。

 けれども、御者が掛け声を上げて鞭を振るい、馬が嘶いて走り出せば、涼しい風が馬車の中を過ぎて、随分気が楽になるようだった。


「そういやお兄さんたち、珍しいねぇ。首都じゃなくてこんな田舎に船で来るなんて」


 御者が軽く振り返りながらそう言うのに、ウィルフレッドが「親戚がいるもんで」と返した。そうすると、御者はなるほどといった様子で、「それなら、ここいらの案内はいらないかな?」と首を捻った。


「案内って?」

「美味しい食べ物とか、良い観光地とか……知っておくと得なことってあるだろう? おじさんの仕事はそういう話をすることなんだよ」


 パトリシアの質問に、御者は軽快に笑って答えると、「馬車を走らせるのは副業なんだ」と冗談を飛ばす。

 何だかそれがとても愉快で、パトリシアは「じゃあ、案内してください!」と言った。ヒナタやシャクドウも美味しい食べ物に興味があるようで、ヒナタは「美味しい食べ物について聞きたいです!」と言い、シャクドウもそれに被せるように「その美味い食いもんってのはなんだい」と声を上げた。


「ここらで美味しい食べ物って言ったら、そりゃエビさ。特にペルレ湖で獲れる真っ赤な小エビは特別なんだよ、噛めば噛むほど味が出て……他の地方じゃ湖の水温が高すぎて育たないもんだから、フリーレンベルクの宝石なんて呼ばれてるんだ」


 フリーレンベルクとは、波の国北部にある都市のことだ。パトリシア達が今から向かう場所でもある。元々山だった土地を切り拓いてできた都市のため、高低差が大きく、波の国にしては気温も低い。ペルレ湖はその都市の最も高いところにある湖だから、特別水温が低いのかもしれない。

 ヒナタが目を輝かせて、「他にもありますか?」と身を乗り出すようにして言った。シャクドウは「エビだ、今日の晩飯はエビが良い」とウィルフレッドにアプローチしながらも、御者の言葉に聞き耳を立てているようだった。


「そうだなぁ、リーブハフトって知ってるかな?」


 御者に聞かれて、パトリシアやヒナタが首を傾げると、ルークがすぐに、「知ってます! 波の国で一番食卓に上がる魚ですよね」と得意げに言った。


「あぁ、そうだよ。波の国にリーブハフトが嫌いな人間はいない! って、おじさんは思ってるんだ。なんたって、いつでも手に入るし、安いし、どう調理しても美味しいんだからね」


 御者がぽんと胸を叩くと、ウィルフレッドも随分興味を持ったようで、「そりゃ良い食材っすね」と言う。料理が趣味なウィルフレッドからすれば、調理法がたくさんある食材はとても魅力的に違いない。


「そうそう、良いんだよこれが。数年前はこの辺じゃあんまり獲れなかったんだけど、第二王子様が海の魔物をたくさん退治してくださってね、今は国一番の漁獲量! ってわけさ」

「海の魔物を? どうやって?」


 パトリシアがそう聞くと、御者はもったいぶった様子で顎を触ると、「信じられないかもしれないけど……」とにやにやして、随分時間をかけてから、「なんと、素潜りでなんだ!」と大袈裟に言った。

 それに驚いて、「素潜りで⁉︎」とパトリシアとルークは大きな声を出した。ヒナタは目を丸くして、シャクドウやウィルフレッドは感嘆の声を上げる。

 海の魔物は大体が海洋生物と似通った形をしている。つまり、素潜りで海の魔物を退治すると言うことは、海の中でサメと戦うようなものだ。勿論、大概の場合はサメより魔物の方が強力であることは言わずもがなである。


「それができるような方なんだよ。おじさんのような商売をしている人にとっちゃ、神様みたいな方さ」


 御者の言葉を聞きながら、パトリシアは一体、第二王子とはどんな人だろうと思った。海の魔物を退治する力があって、そんな力がありながら仲の悪い兄と争わず、神器を所有している神様のような人──きっと筋骨隆々で懐の広い大男に違いない。

「美味しい食べ物がたくさん入ってきてくれないと、おじさん話すことがないからね!」と御者が朗らかに言うのを聞きながら、パトリシアはうんうんと頷いた。わずかに引っかかるものを感じたが、第二王子の姿は首都に着けば分かることだし、今は御者の話を聞く方がずっと楽しいことのような気がしたからだ。

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