第4話 旧靄の国
一
船旅に付き物なのが船酔いである。パトリシアは船縁にのしかかりながら、自分と同じように真っ青な顔で転がっているルークとヒナタをちらりと見た。
船乗りたちへの賄いを作ることを条件に、ウィルフレッドは早々にギャレーに引きこもってしまったが、きっとこの様を見越してのことだろう。ギャレーは調理器具などがいくらかあるため、ここよりは揺れが少ない場所にあるのかもしれない。
ウィルフレッドの抜け目のなさに歯噛みして、パトリシアは深々と溜め息をついた。喉の奥がじりじりと焼けるように熱いのは、胃液が何度も上がってきたせいだ。暗礁地帯や波風の強い地域に入っているわけではないのにこの状態では、先が思いやられるというものだった。
それに、港だって心配だ。王国兵を呼んだとは言え、核はちゃんと回収されたのかも気になるし、復興が行われなければあまりに船乗り達が可哀想だ。
パトリシアはいろいろと考えを回していたが、突然の大きな揺れと、「おい嬢ちゃんたち! こっから波が荒れるんだ。すぐ船内に戻んな!」と船乗りが怒鳴るように言う声で盛大にゲロを吐くと、大声を出した船乗りが「だ、大丈夫かい」と狼狽えたのに、「はひ……」と弱々しく返事をした。
二
外が随分と荒れているのは船内にいても分かった。相変わらず真っ青な顔で転がっているルークとヒナタをよそ目に、パトリシアはギュッと膝を抱えて、さっき吐いておいて良かったなぁとぼんやり思った。もしもあそこで耐えていたら、きっとパトリシアも床に転がらざるを得なかっただろう。
とは言え、今のパトリシアには二人を心配する余裕まではなかった。大波でギシギシと船板が軋む音と、ルークやヒナタが呻く声が混ざり合うせいで、また吐き気が込み上げてくるのがいけない。風の音がごうごうと鳴っているのさえ、パトリシアの吐き気を煽ってならなかった。
そんなわけだから、パトリシアが船内にいられなくなったのは当然のことだった。海が荒れていたって、外の空気を吸える方がいくらかはマシだろうと思ったのだ。
風圧で重くなったドアに全体重をかけて、パトリシアは堪らずうんうんと唸った。あんまり重過ぎて、ちっともドアが開かないからだ。それなので、パトリシアはふーっと緩く息をつくと、片手でドアノブを回したまま体だけをドアから離して、今度は体当たりをするように突っ込んだ。
「うわっ! わわわっ! わーっ!」
「おいおいおい! 何してんだ嬢ちゃん! 甲板は危ねぇって言っただろう!」
ドアを開けた勢いそのままに甲板に転がったパトリシアを見て、船乗りが慌てた様子で怒鳴った。そして、「今霧が出てんだ! 嬢ちゃんの相手してる暇はねぇんだぞ!」と別の船乗りが大声で言う。
船乗りの言う通り、あたりはすっかり海霧に包まれていて、一寸先でさえ見えそうにもない。息もしづらいほどの強い風が吹いているのにだ。
パトリシアはそれを不思議に思いながらも、一生懸命に船縁にしがみ付いた。そうでもしなければ今にも吹き飛ばされてしまいそうだったからだ。
(この海霧……なんだっけ! 知ってるはずなのに……!)
ウィルフレッドかルークがいればと、パトリシアは悔しく思った。それに、自分がもっと勉強しておけば良かったのだとも。
海霧。それから微弱に感じられる魔力。パトリシアは一生懸命考えに考えて、「あっ!」と悲鳴のような声を上げた。
「ダメ! 今すぐ碇を下ろして下さい‼︎ 碇を……‼︎」
パトリシアの訴えは船乗り達に届かない。風がもっと強く吹き始めた上、雨や雷まで降り始めたせいだ。船乗り同士が指示を出し合う声だって、パトリシアにはもう聞こえない。
必死の訴えを無視して、船は波を割りながら真っ直ぐ進んでいく。それを見てパトリシアは絶望に近い感情を抱くしかなかった。
(海路を外れたことに誰も気付いてないんだ……! 海霧の魔力で感覚が狂ってるから……!)
魔力は人を狂わせる。魔法学校で何年も学んだなら当然持っている知識だが、誰もが知っていることではない。
すべての人間は魔力を貯め込み扱うための魔力回路を持つが、そのほとんどは貧弱で自力でコントロールできないようなものだ。魔力回路の許容を超えた魔力を貯め込めば感覚や思考に影響が出るのだが、魔力回路のコントロールができないために、自分がおかしくなっていることにさえ気付けないのだ。
そして、この魔力を含んだ海霧が出る海域は、昔靄の国が存在していた群島の付近だ。最も座礁が多く、帰ってこなかった船も数え切れない難所である。元々この海域だけはどんな船でも避けるはずなのだが、海霧の範囲が広がったのか、何か他の理由があるのか、群島の方へ誘い込まれているよう(パトリシアがそう結論付けたのは、どんどん海霧の魔力が濃くなっているからだ)だった。
「あぁ……もうダメだ……」
パトリシアは堪らず呟いた。この魔の海域に骨を埋める覚悟もした。それから、船がどこかの島に乗り上げたとき、パトリシアはがっくりと項垂れるしかなかった。
三
遭難だ。しかも、氷の国よりはマシと言え、景色にさして変わりもない、雪の積もった島である。パトリシアは船乗り達が必死に船を見て回っているのを眺めながら、「これからどうしよう……」とぼやいた。ルークは不安より好奇心が勝ったのか、「先輩! すごいですよ! ここ靄の国があったところですよ!」と船酔いも忘れてはしゃぎ回っている。珍しく普段と逆の立場になったようだった。
ヒナタが心配そうに「パティちゃん、その……大丈夫だよ。何とかなるよ」と言うので、パトリシアは思わず泣き出してしまいそうになった。パトリシアを安心させようとしてくれるのはヒナタくらいだ、ウィルフレッドも海霧を調べると言ってどこかに行ってしまったのだから。
「もうダメだぁ……私にはヒナタくんしかいないよ……」
「ぱっ、パティちゃん……?」
ちょっと顔を赤くして狼狽えるヒナタに寄り掛かって、パトリシアは「聞いた? この辺り魔物しかいないんだって。食べられるものもないんだよ。船が直せなかったらこのまま飢え死になんだよ……」と嘆いた。船乗りのひとりが見せてくれた航海記事によれば、ここは本当に不毛の島のようだ。
「魔物って食べられないの?」
「食べられないよ……」
「そっか……港にいたのも食い出がなさそうだったもんね」
パトリシアは「うん?」と思った。あの黒くてぶよぶよした魔物を見て、食い出がないと感想を抱く気持ちが全く分からなかったからだ。まず食べ物として認識するのが無理だ。あんまりグロテスク過ぎる。
「魔物ってあんなのしかいないの?」
「そんなわけないって言うか……あんなの図鑑でも見たことない……けど……えっ? 食べたいの?」
「うーん、正直気になるかな」
首をくいっと捻ったヒナタを見て、パトリシアはそっと距離を置いた。ヒナタが寂しそうに「あ……」と言ったが、それに反応する気力もなかった。港の魔物を食物として評価できるなら他の魔物もそうに違いないし、パトリシアには受け入れられない感覚だ。
絶対にここから脱出しよう、魔物を食べずに済んでいる間に。パトリシアがそう強く決意している中、ルークは「先輩! ヒナタさん! 早く探検しましょう!」と目を輝かせながら言う。元気なものである。
「良いけど……お兄ちゃんが帰ってきてからにしない? 私たちだけで魔物と戦うなんて無理だよ。ね、ヒナタくん?」
「そうだね。僕はパティちゃんに賛成かな」
「うぐ……多数決なんて卑怯な……」
普段なら止めるのはルークの役目だ。パトリシアは調子が狂うのを少し面倒に思いながら、はぁと溜息をついた。そして、これからはルークのことをもう少し気にかけてやろうとも思った。
四
ウィルフレッドが戻ってきたのは、それから十分は後のことだった。たった数十分の捜索で海霧の原因に目星を付けたと言うのだから、相も変わらず仕事が早い兄でパトリシアもちょっと誇らしい。
「まぁ報告っすけど、この海霧は自然発生したものではないっすね。理由は……面倒なのであんたが説明してください」
「ええっ! えーと……うーん、魔力の方向性が決まってるから? 島の中央部に向かってるよね」
いきなりウィルフレッドから話を振られて、パトリシアは逡巡しながら、「何か……呼び寄せようとしてる? 魔物が多いのはそのせいかな……」と呟くように言った。自信がなかったからだ。
しかし、ウィルフレッドは「大体そうっすね。なんだ、意外と勉強してるじゃないっすか」と言って、パトリシアの頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「えへへ、まぁね。で、大体ってことは何が違うの?」
「呼び寄せる目的はないかなと。魔力が集められているのは事実っすけど……魔物は勝手に集まってきただけでしょうね」
濃くなれば人間に影響をもたらすが、得てして魔力は特別なものではなく、どこにでも存在するものだ。魔道具には辺りの魔力を吸収することで半永久的に稼働するものがあるし、魔力を呼び寄せるということはその手の魔道具が原因なのかもしれない。
ルークもパトリシアと同じことを思ったのか、「じゃあ、原因は魔道具ですか?」とウィルフレッドに向けて聞いた。しかし、ウィルフレッドは少し言葉に迷った様子で、「まぁ、うん……あんたら、魔道具に思念って宿ると思います?」と、珍しく質問に質問を返す。
「えっ、どういうこと?」
「人の心が宿るか、みたいな感じですか?」
「うーん、それで良いか。そういう感じです。どう思います?」
パトリシアもルークも首を傾げると、ヒナタも釣られたように首を傾げた。それから、ヒナタが「すみません、僕、何も分からなくて……魔道具って人の心は宿らないんですか?」と申し訳なさそうに言った。
「常識的に考えれば。あぁ、人の心があるように見せかけることは簡単なんすよ、会話が成り立つなら周りが勝手に心を見出すでしょうし」
「ええと……心がある魔道具って、それとどう違うんですか?」
「うん? 違いか……」
ウィルフレッドが考え込んだので、パトリシアも少し考えてみようと思ったのだが、ウィルフレッドはすぐに「欲……うん、欲求の有無っすかね」と言い出すので、結局肩透かしを喰らったようなものだった。
「と言うか、その……人の心があるかどうかってそんなに重要なことなんですか?」
「私も気になる! どうなの?」
ヒナタの質問にパトリシアが乗っかると、ウィルフレッドはいくらか逡巡して、「重要っすけど……あんたらに分かるかな」と、幾分か面倒臭そうな顔をして言った。
それなので、煙に巻かれるだろうとパトリシアは思ったのだが、意外にもウィルフレッドは「俺達魔法使いは、基本的に精霊言語と呼ばれる言葉を以て魔力に働きかけることで魔法を扱いますが、その上で重要なのは欲求があることです」とつらつら説明するので、パトリシアはぱちぱちと瞬きをした。ウィルフレッドは自分が理解していることを人に話すのはあまり好きではないため、ここで投げ出さないなんて珍しいこともあるものだと驚いたのだ。
「欲求と言うのは、魔力を使って何をしたいかと言い換えられます。魔力はただの力なんで、精霊言語を使って力の方向性を決めてやらなければ魔法を扱うことはできません」
完全に基礎魔法学の授業である。どうして普段からこういう説明をしてくれないのかと拗ねたくもなったが、パトリシアはぐっと堪えた。ここで話を切られては困るのだ。
「欲求とは心から生まれるものっすから、理論上、心を持つ魔道具なら魔法を扱えることになるんすね」
「な、なるほど……?」
「あー……基本、人の体には魔力を貯めたり活用したりするための魔力回路が備わってますが、魔道具はそれを模して作ったものなんで」
「はへぇ……」
「厳密に言えば間違いなんすけど……魔道具は元来、魔法使い以外が特定の魔法を再現するためのものと言っても過言ではないです。元々外付けの魔力器官としての役割は果たしてるんすけど、魔法使いでなければ力の方向を変えることはできませんから、応用は利かないんすね」
もし今ヒナタのように首を傾げでもしたら、きっとウィルフレッドやルークから馬鹿にされてしまうだろう。だから、パトリシアは分かっているフリをしてふんふんと頷いた。魔道具は扱えるし作れるが、ほとんど感覚でやっているため、いざ説明されると全くわからないのだ。
ウィルフレッドはそれを気にも止めず、「で……魂の遺産の基幹の技術は魔道具と同じという説があります」と言う。
「魔道具に心を持たせることで臨機応変に力の方向を定め、それを人が活用する……上手く制御できるなら、魔道具を通してどんな人間でも魔法が使えるはずです。俺は魂の遺産をそういうものだと考えてます。ですから、心があるかどうかが重要なんです」
パトリシアは音を上げた。このままウィルフレッドに説明させたとしても、多分半分も分からないままだ。ヒナタはもっと話について行けてなくて可哀想なくらいだった。それなので、もう知恵熱でも出そうな気分になって、「お兄ちゃん……話が難しいよ……」と泣き言を言った。
「は? この俺が逐一説明してやってるのに……」
「すみませんウィルフレッドさん……僕も厳しいです……」
「ヒナタさんは別に良いっすよ。ルークは?」
「僕は分かりましたよ!」
「ふぐうぅ……ルークの学問バカ……」
パトリシアがルークを詰るが、ルークは気にも留めない様子で、「この島に魂の遺産があるかもしれないと不用意に言って、僕らを浮かれさせることに抵抗があるんですよね?」とウィルフレッドに言った。
「へ? なんでそうなるの?」
「ウィルフレッドさんはいろいろ考えてるときにあれこれ聞くと、考えてることをそのまま話す癖があるじゃないですか」
「ほえ……」
「こういうときに下手に質問すればするほど、話が本題から遠ざかるんですよね。はいかいいえで答えられるか、確信を持った質問以外はあんまりしない方が良いですよ」
「は、はひ……分かりました……」
見事なマニュアルである。いっそ怖いくらいだし、こんな風に分析されてはウィルフレッドも眉を顰めるかと思ったが、当の本人は上の空で話も聞いていないようだった。
「うーん……お兄ちゃんにそんな癖があったなんて……」
「先輩の前だと考え事ができないんじゃないですか?」
「ルーク? それどういう意味?」
「アッ……いや、い、良い意味で……へへ……」
ルークがゴマを擦ってくるので、パトリシアはふいと顔を背けた。それから、話を逸らしてしまったのが少し申し訳なくなって、「も〜お兄ちゃん、話戻してよ」と、口を尖らせながら言う。
ウィルフレッドはぱちりと瞬きをして、「あぁ……」と呟くと、少し考え込んでみせた。それを見たルークが、「いや、無理だと思いますよ。喋ったところから忘れる方ですし」と言うが、パトリシアは「まだ分からないでしょ!」と舌を出す。
「ええと……俺、何の話してましたっけ?」
「ほら! 僕の言うことの方が正しいんです!」
ルークが得意げに胸を張るので、パトリシアはますます口を尖らせて、「ルークのお兄ちゃんバカ!」と文句を言った。ルークが変に誇らしげなのが、微妙に腹が立ってならなかった。
五
何はともあれ、魔力の中心部に行くため、この島の遺跡を探索することになったのは僥倖だった。パトリシアは遺跡が好きだ。ルークもそうである。しかも、ずっと昔に滅びたと言われる靄の国の探索だ、心が躍らないわけがない。
遺跡外部は朽ち果てているように見えたが、明るいね一号で照らしてみると、内部は思いの外広く、しっかりとした石造りなのが分かった。大きな建物の割に人が暮らしていた痕跡はなさそうだから、もしかすればここは儀式の場だったのかもしれない。
この遺跡の情報を持ち帰ることができれば、歴史に残る快挙になるだろう。パトリシアはそう心を浮つかせた。もちろん、無事にこの島を出ることができればだが。
「パティ、ちゃんと足元見て歩いてくださいね」
「大丈夫だよ! お兄ちゃんは心配しょ……んぶっ⁉︎」
躓いてすっ転んだパトリシアを見下ろしながら、ウィルフレッドは呆れた調子で「あーあ……」と言った。ルークやヒナタは心配してくれたと言うのに、本当に腹の立つ兄である。
いっそ思いっきり怒鳴ってやろうと思ったのだが、顔を上げた先にあった石のかけら(ボロボロだったので、転んでいなければ見過ごしていたかもしれない)を見て、パトリシアは目を丸くした。掠れて読みづらいが、文字が書いてあったからだ。
「これ、精霊言語が書いてある!」
パトリシアはとびきり明るい声を上げて、石を抱き締めながら立ち上がった。声がわんわんと反響したせいかウィルフレッドが嫌そうな顔をしたが、今のパトリシアにはどうでも良いことだ。ルークが期待に満ち溢れた顔をしてくれた方が、よっぽど重要なことである。
「すごいです! 先輩、読んでみてください!」
「えーっとね〜……ちょっと待ってね?」
「はい!」
「うーんと……ハッ、こ、これは!」
「えっ、何が書いてあったんですか⁉︎」
ルークのキラキラとした視線を浴びながら、パトリシアは深く息を吸い込んだ。間を取ったのは、無垢な後輩に恐ろしいことを告げねばならないためだ。
パトリシアはルークの目をじっと見て、「実はね……」と小さな声で言った。ルークが「じ、実は……?」と聞き返してくるのに、ふっと笑みを返す。
「実は……ごめん! ぜんっぜん読めない!」
「え?」
いきなりルークの視線が冷めたものだから、パトリシアはきゅっと肩を縮めて、「だって、だって学校で習ったのと違うんだもん……」と弱々しく言った。パトリシアの精霊言語学の成績は下から数えた方が早いが、それでも学校で習ったものと全く違う文字だと言うことくらいは分かる。
ルークは訝しげにしていたが、石のかけらに書いてある文字を覗き込むと、「これ……本当に精霊言語ですか?」と言う。
「そうだと思うよ? 勘だけど」
「先輩の勘かぁ……」
「えっ、何? もしかして疑われてる?」
このままでは先輩としての沽券に関わってしまう。そう思ったパトリシアは慌てて、「お兄ちゃん! これ精霊言語だよね?」とウィルフレッドに石のかけらを突き出した。
いきなり目の前に突き出されて驚いたのか、ウィルフレッドはいくらか仰け反って、少し眉を顰めると、「はぁ……そうなんじゃないすか」と投げやりに言う。
「そうだよね! やっぱり精霊言語だよ!」
「まぁ、多分っすけど」
「じゃあ、お兄ちゃん! 解読お願いね! 私、他にも何かないか探してくるから!」
「は?」
ウィルフレッドが精霊言語だと認めたなら、パトリシアやルークに読めなくても、きっとウィルフレッドが読み解いてくれるはずだ。あんな態度であってもそう思うのは、兄に対する信頼あってのことだ。
パトリシアはそう考えて、「ルーク! ヒナタくん! 行こう!」と二人の手を引くと、勢いよく走り出した。なんたって、この遺跡はとても広そうなのだ。一つのものにかまけている暇はないのである。
残されたウィルフレッドが何かを言っていたが、そんなことは気にならない。ルークは目を白黒していたし、ヒナタは「い、良いの……⁉︎」と声を上げたが、パトリシアの頭の中にはもう、次の遺物探しのことしか詰まっていなかった。
六
「あぁ、めんどくさい……」
ウィルフレッドはそう溢して、適当に明かりをいくらか浮かべると、文字の書いてある石のかけらを片っ端から拾い集めた。せめてこれくらい集めていけば良いものをと思う。妹たちの尻拭いはいつものことだが、一人にされれば延々と愚痴ばかり考えてしまう。
大体、こういった遺跡の文面など大してどこも変わらない。千年戦争時代の世界地図が現存している以上、国家間の断絶は存在しなかったと言っても良いし、生活や文化の違いを除けば差は少ない。あえて石碑に残す必要があるとすれば──。
(警告とか供養とか、どうせその辺りでしょうが)
しかし、何にしたって、あえて精霊言語で書く必要はないだろう。精霊言語を読めるのは魔法使いくらいのものだし、千年戦争時代でも魔法使いはほとんど氷の国に集中していたと言われているため、靄の国で精霊言語を使う理由はないはずだ。しかも、氷の国といくらか違うものを使う必要性も分からない。
何はともあれ、読まないことには始まらない。ウィルフレッドはその場に胡座をかいて、集めた石のかけらを組み合わせながら、うーんと首を捻った。
(我々は誤った。何とか……を怒らせたのは、我々の落ち度だ。せめて、彼女の願いだけは……は? 何すか? 読めねぇものを残すな……)
完全に八つ当たりである。あんまり掠れた文字に舌打ちしながらも、ウィルフレッドは他のかけらを組み合わせていく。
(眠らせておく……幸せ? 何が幸せなんすか、何が。それくらい読めるようにしておけっての)
ウィルフレッドは魔法学校では首席だったし、今は栄ある宮廷魔法使いだ。どんな精霊言語だって学ばずに読めた。
しかし、知識は申し分ないとは言え、遺跡への興味はてんでなかった。遺跡や発掘された遺物の復旧作業などは全部人任せにしてきたのである。魂の遺産のことだって、ラドヴァンに言われて研究を始めただけで、元々そこまで興味があったわけではない。正直に言えば、一々調べ回るより、要望を満たせる魔道具を新しく作った方が早いとさえ思っていた。今は事情が変わっているのだが。
ともかく、そのツケが回ってきたのだ。ウィルフレッドは苦々しい顔で溜め息を吐いた。せめてルークだけでも引き留めるべきだったと思っても後の祭りだ。
「は〜読めなかったとか言えねぇし……」
妹の期待に応えるのは兄の役目だ。パトリシアをからかうのは確かに好きだが、本気で落ち込むところを見たいわけではない。師匠と呼ばれてしまったならば、弟子の期待に応える義務だってあるわけだし、ルークだって内容を知りたいはずだ。
ここで諦めるわけにはいかない。軽く頭をかきつつ、ウィルフレッドは渋々気合を入れ直して、パトリシアたちを追いかけるのは相当後になりそうだと小さくぼやいた。
七
ウィルフレッドが必死に精霊言語を解読している中、パトリシアたちは遺跡の奥を探索していた──否、荒らしていたと言っても良い。開けられそうなものは片っ端から開けているのである、まごうことなき遺跡荒らしだ。
パトリシアとルークは遺跡が好きだが、思考回路は考古学者のものではなく、冒険者のそれである。遺跡自体の価値より、遺跡から何が出てくるかの方に重きを置いているのだ。罠によく引っ掛かるのはそのせいとも言える。
「パティちゃん! あそこに大きな……箱かな? 箱があるよ!」
「えっ、本当⁉︎ ヒナタくんさっすがー!」
ヒナタの指差した方を見てみると、人一人なら入れてしまいそうな石の箱(見方によっては石櫃のようでさえあった)があったので、パトリシアはすぐにルークを呼び付けながら飛び付いた。今までの箱は小さかったし、魔物に荒らされでもしたのか、随分としょうもないものしか見つかっていなかったのだ。
それにしたって大きな箱だ。明るいね一号で照らせる範囲がそんなに広くないとは言え、どうしてこれに気付かなかったのか不思議なくらいだ。しかも、先ほどまでは感じなかった魔力の流れが急に濃くなったようで、パトリシアはぶるりと武者振るいをした。
「さーて、なーにが入っているのかな〜!」
「人……とか?」
「ヒナタくんって発想がかなり物騒だよね?」
パトリシアがじとっとした目を向けながらそう言うと、ヒナタは「そうかなぁ、人がいたら面白いと思うんだけどなぁ」と頰を掻いた。どう考えても、人が寄り付かない島の遺跡の、一人で開けられないような箱の中に人がいたら怖すぎるとパトリシアは思うが、ヒナタはそうでもないようだった。
「まぁまぁ、早く開けてみましょうよ。先輩、ヒナタさん! 頑張ってください!」
「はいはい、ルークも頑張ろうねー」
「僕は先輩と違って頭脳派なので……」
「頑張ろうね!」
「はい……ちゃんと頑張ります……」
笑顔で圧をかけてやると、ルークは冷や汗をかきつつ、両手をパトリシアに向けてひらひらと横に振った。
それが可哀想にでも見えたのか、ヒナタが「ルークも手伝ってくれるなら百人力だね」と助け舟を出したので、随分調子に乗った様子で、「まぁ、僕はすごいですからね!」とルークは胸を張っていた。単純なのは良いことである。
「さ、開けてみよう! 押したら開くかな?」
「いっそ破壊神一号で穴を開けた方が良いんじゃないですか?」
「えっ、何? その名前……」
「先輩が付けたんですよ! 壁を壊せる魔道具だからって!」
「ごめんごめん、冗談冗談……」
ルークが憤るので、今度はパトリシアが手のひらをルークに向けることになった。それで気が済んだのか、ルークはふんと鼻を鳴らすと、「とにかく、蓋を開けるより早いと思いますよ」と言う。普段の言動のせいで忘れがちだが、ルークが自称する頭脳派とは伊達なわけではないのだ。
そうして、ルークの言う通りに破壊神一号を起動すれば、めちゃくちゃな起動音(間違いなく、ウィルフレッドが素材を物惜しみしたせいだ)を発しながら、ゴリゴリと石の箱の側面を削っていく。
パトリシアたちはわぁと歓声をあげると、すぐさま箱に空いた穴を覗き込んで、文字の書いた紙を大量に巻き付けてある剣のようなものを見つけると、三人とも飛び上がって喜んだ。
「これ、魂の遺産じゃないかな! 剣みたいだし!」
「パティちゃん、これ剣じゃなくて刀だよ。札が巻かれてるから、力のあるものだと思うよ」
「カタナ? フダ?」
ヒナタは記憶喪失のはずだ。それなのに、間髪入れずに物事を訂正するなんておかしなことだ。
パトリシアとルークが不思議がると、ヒナタもまた不思議そうにして、「僕、何で分かったんだろう……?」と首を傾げた。それが嘘をついているように見えなかったので、パトリシアは、「もしかしたら、ヒナタくんはこのカタナ? と関係があったりして!」と明るく言った。ルークも、「何だか似合いそうですしね、一度持ってみたらどうですか?」と勧めるように言う。
ヒナタが満更でもなさそうな様子で、札の巻き付けられた刀を手に取ると、「似合うかな?」とはにかんだ。その姿が何だか妙にしっくりくるような気がして、パトリシアが「似合ってる似合ってる! よっ! 男前!」とふざけて囃し立てると、ルークも面白くなってきたのか、「よっ! 色男!」と同じような調子で言った。
「でへへ……そ、そうかな〜?」
「良いよ〜! 仕上がってるよ〜!」
「ポーズ決めてください! ポーズ!」
「こんな感じかな!」
「ひゅー! かっこいい〜!」
ちょっとかっこいいと言えるほどでもないポーズを決めたヒナタを見て、三人は妙なテンションで盛り上がっていく。魂の遺産らしきものを見つけてしまったせいで、全員頭がおかしくなっているのだ。
だから、いつの間にかいたウィルフレッドに、「あんたら……何してるんすか」と引き気味に言われたときに、パトリシアが「ヒナタくんの展覧会してるの!」と、意味の分からないことを口走ってしまったのも仕方のないことだった。
「展……何すか?」
「そんなことより! お兄ちゃん、石はどうなったの? 精霊言語は読めた?」
「読めましたし光りました」
「嘘でしょ⁉︎ めちゃくちゃ光ってる!」
「何でそんなにテンション高いんすか?」
激しく光る石のかけら(ウィルフレッドが組み立てたので、もはや石板と言っても良い)を見せ付けられて、パトリシアは声を上げて笑った。ルークとヒナタも指を差して笑う。ついて行けていないウィルフレッドだけが、「え……怖……いや何か燃えてるじゃないすか。そっちは良いんすか? ヒナタさんのそれ、ちょっと……」と唖然とした様子で言う。
「お兄ちゃん何言ってるの? 燃えてるって……ウワー! 燃えてる‼︎ 刀燃えてる‼︎」
「いや先輩、そんなわけ……燃えてる燃えてる燃えてる‼︎ 山火事ばりに燃えてる‼︎」
「えっ、燃え……燃えてる‼︎」
阿鼻叫喚である。突然刀が燃え出したのだから当然だ。
ヒナタが奇声を上げて刀を投げ捨てると、刀が纏っている炎がどんどん人の形を取っていく。もうパトリシアたちに残された選択は一つしかなかった──全力でここから逃げるしかない。
「ヴァーッ‼︎ 人間になりましたよ‼︎ 刀が人間に‼︎」
「すごいね‼︎ 本当に人が入ってたね‼︎ ヒナタくん正解‼︎ 百ポイント‼︎」
「やったー‼︎」
「先輩‼︎ ヒナタさん‼︎ 茶番はやめてください‼︎」
全力で走っているせいで、おかしくなっていた頭が尚のことおかしくなる。ぐんぐん追いかけてくる熱気がそれを更に加速させていた。
人の形を取った刀が、逃げる三人を全力で追いかけながら、「待ちやがれテメェら‼︎」と大声で怒鳴る。その声に驚いた三人は尚更逃げる。パニックである。
「テメェら待て‼︎ ふざけるな‼︎」
「ギャー‼︎ ごめんなさい‼︎」
「物は大事にしろって習わなかったのかァ⁉︎」
「それは本当にごもっともです‼︎」
三人は叫びながら延々と刀から逃げ惑っていたが、とうとう追い詰められるときが来た。ルークが見事に転んだのだ。運動神経のないルークが転ぶのは仕方のないことだったが、パトリシアもヒナタもルークを見捨てることができなかった。
熱気が近づいてくる。あまりの威圧感に、三人は寄り添って小動物のように震えた。何たって、刀はあんまり大きな人の形を取って(二メートルはあるだろう)いるのだ、恐ろしくないわけがない。
(私たち、殺されるのかな……)
短い命だったなとパトリシアは思う。ルークやヒナタもそう思ったのかもしれない。それほどの圧を前にして、パトリシアは兄に助けを求めることさえできなかった。
八
「おっと……俺としたことが気付かなかったぜ。こんな場所に可憐な花が咲いていたとはなァ」
突然刀がそう言ったので、パトリシアは反射的に「へ? 花?」と聞いてしまった。咄嗟に口を押さえるが、後の祭りだ。
刀は髪を掻き上げながら、「俺の名はシャクドウ。覚えておきな、お嬢ちゃん」と、ふっと笑った。どうやら、ルークやヒナタのことは眼中にないようだった。
「そ、そうなんだ、シャクドウ……さん?」
「どうした? お嬢ちゃん、俺の一輪の花よ」
「なんなの?」
状況について行けていないパトリシアが聞き返すと、シャクドウはまたふっと笑って、「俺によく見せてくれ、お前さんの顔を……」と、まるで口付けでもするようにパトリシアの顎をそっと掴んだ。そして、突然黙って、大きく首を傾げると、「なんだ、ちんちくりんのガキじゃねェか。期待して損したなァ」と言い放った。
パトリシアは怒った。多分、人生で一番怒った。わずかに感じたときめきのせいで、これ以上ないほど怒った。
シャクドウだけでなく、ルークやヒナタもたじろぐほどの黒い炎を背に負って、パトリシアは小さな声で、「そう……」と言った。地の底から響くような声だった。
「お、お嬢ちゃん、悪かったよ、そんなつもりじゃ……」
「へー……」
「すっ、すまね……ごふッ⁉︎」
パトリシアの拳がシャクドウの顎を捕らえたのは一瞬のことだった。シャクドウがいくらか顔を近付けていたおかげで、見事なアッパーカットが決まったのだ。
悶絶するシャクドウを見下ろして、パトリシアは思った。甘い言葉を吐く男を信じてはならないと。例え相手が夢にまで見た魂の遺産であっても、二度と信用するものかと、深く心に刻んだのである。
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