第3話 船出

 ようやく波の国に行く日が来た。パトリシアは寝不足(楽しみでなかなか眠れなかったのだ)の目を擦って、ぐっと大きく伸びをした。

 記憶のないヒナタはともかく、ルークもパトリシアと同じように眠そうにしている。きっと、ルークだって待ちきれなかったに違いない。背負っているリュックだっていつもよりずっと重そうだ。

 パトリシアも荷物を抱えるように持って、「みんな用意はできてるよね? さぁ、出発だー!」と大きな声で言った。それに続けて、ルークとヒナタも「おー!」と声を上げる。

 パトリシアはふんと満足して鼻を鳴らすと、ドアを思いっきり開け放った。相変わらずの雪景色が、今日は随分明るく見える。


「あらパティちゃん、こんにちは。今日も冒険?」


 隣のおばさんに声をかけられて、パトリシアはえへへと笑った。おばさんは優しい人で、両親がおらず、兄の手ひとつで育てられているパトリシアをいつも気にしてくれている。


「そうです! お兄ちゃんとルークとヒナタくんと四人で、波の国まで行くんです!」

「まぁ、そんなに遠いところまで!」


 おばさんは驚いた顔をして、それから、「ウィルフレッドさんがいるなら大丈夫だと思うけど……気を付けてね、怪我しないようにするのよ」と寂しそうに言う。それなので、パトリシアも何だか寂しく思ったが、「はーい! お土産もたっくさん買ってきます!」と、努めて明るく返事をした。

 おばさんはまだ心配そうだったが、「楽しみにしてるわ。パティちゃん、ルークくん、そこのあなたも、いってらっしゃい」と言って、パトリシアたちに優しく手を振ってくれるのだ。

 パトリシアはくすぐったくなって、「へへ、行ってきます……」と軽く頰を掻いた。ルークも同じように思ったのか、少し俯き気味に、「行ってきます、その僕もお土産買ってくるので……」と言う。ヒナタは驚いたようにぱちぱちと瞬きをしていたが、「はい、行ってきます」と照れ臭そうに言った。

 何となく浮き足立っていたのはみんな一緒だ。それだから、パトリシアが「行こ!」と言って走り出せば、ルークとヒナタもおばさんの返事を待たずに走り出した。二人もきっと気恥ずかしかったのだろう。

 だがしかし、「待って! あなたたち! 鍵開いてるわよ! 鍵ー!」とおばさんが大声を上げるものだから、結局、慌てて道を引き返すことになったのである。




 ウィルフレッドとは外れにある小さな港で落ち合うことになっている。波の国へ船で行く人は少ないのと、氷の張った海を渡るための魔導船(船首に氷を溶かすための魔道具を搭載してある船のことである)も少なく漁にも向かないのとで、いくらか閑散としている場所だ。

 ウィルフレッドの立場ならもっと大きな港からも船を出せそうな気がしたが、今のパトリシアに発言権はない。波の国へ連れて行ってもらえるだけ御の字なのだ。

 とは言え、雪が降る中を港まで行くのは重労働である。パトリシアもルークも大荷物で、ウィルフレッドの荷物まで背負っているヒナタも二人と大差はない。

 パトリシアは荷物をたくさん持ってきたことを後悔しながら、はぁと白い息を吐いた。もしウィルフレッドのように魔道具が作れたら、まず荷物を圧縮する魔道具でも作ったことだろう。

 そうして、ようやく港が見えてきた頃には、三人ともすっかり疲れ切っていた。足は棒のようだったし、雪を被りすぎてまるで雪だるまもかくやといった具合だ。家を出た頃のお喋りも鳴りを潜めて、港の入り口であくびをしているウィルフレッドを見つけたときも、ずるいの一言さえ出てはこなかった。


「あぁ……お疲れ様です。遅かったっすね」


 ウィルフレッドはそう言って軽く目を眇めると、「ヒナタさんは良いとして……あんたら引っ越しでもするつもりです?」と、パトリシアとルークに向けて呆れたように言った。


「だって、大事なものがいっぱいあるんだもん。魔道具でしょ? エヴァの蓄音盤でしょ? それから……」

「魂の遺産についてのレポートとか、魔法の本とか、魔法薬の素材とか、たくさんあるんですよ!」

「はぁ。蓄音盤以外、俺がいるのに必要っすかね」


 事実である。パトリシアもルークも言葉に詰まって、「でも……」や「だって……」と口をもごもごとさせたが、ウィルフレッドに「ま、持つのは俺じゃないんで良いですけど」と言われてしまうと、もう何も言うことができなかった。




 氷の国は多数の魔法使いによって作られた障壁に覆われている。基本的に首都を魔物から守るためのものだが、郊外や田舎の市もその恩恵を受けているために、氷の国で魔物を見ることはほとんどない。この寂れた港だって同じはずだ。

 だから、突然、黒くてぶよぶよとした人の背丈ほどの魔物(見たこともないのに魔物とわかったのは、あからさまに動物ではなさそうな姿をしていたからだ)が、ずるりと茂みから姿を見せたとき、パトリシアはあっと悲鳴を上げた。ルークもそうだったし、荷物を魔導船に運び込んでいた気の良さそうな船乗り達もそうだった。誰もが障壁に問題が起きたのだと考えたに違いない。

 動揺した空気に釣られたのか、ヒナタも「あれは……?」と狼狽えながら言った。それに誰かが答えるより早く、骨まで凍るような風が鋭く吹いて、パトリシアはウィルフレッドが魔法を放ったのだと知った。

 一瞬のことだった。冷たい風は氷となって、魔物を簡単に凍らせてしまう。この様子では動くこともできないだろう。

 それに安堵しつつも障壁のことが気にかかって、パトリシアは「お……お兄ちゃん! 障壁は……」と、ウィルフレッドの方を振り返った。


「そっちは何とかなるでしょうけど、参ったな……」


 ウィルフレッドが軽くため息をついて、その場で軽く手を振り下ろすようにして杖を呼び出した。それから、「あんたら、さっさと船に乗る準備をしてください。船乗りのお兄さん達も。急いでくださいね」と、いつもよりいくらか早口に言う。

 魔法使いにとって、杖とは効率良く魔力を扱うための触媒だ。力の強い魔法使いが杖を使うならば、あれは弱い魔物ではないということになる。

 氷の国に、そのことを知らない人間はいない。狼狽えるヒナタの腕を引っ張りながら、パトリシアは怯え切ったルークを叱咤した。船乗り達も慌てて船に乗り込んでいく。魔法使いが引けと言ったなら、この国で有象無象にできることなど何もない。




 逃げ足の速さは一人前だ。ウィルフレッドはちょっと苦笑して、杖に魔力を流した。

 これは凍らせたくらいで死ぬ魔物ではない。魔物の表面がぶくぶくと泡立ち始めたのを目視して、自分の勘が正しかったと確信する。

 案の定、魔物の表面は沸騰するようにボコボコと波打って、氷の内側がじわじわと溶け始めたのが分かった。

 もしかしたら、爆発するかもしれない。ウィルフレッドがそう考えると同時に、激しい破裂音と共に氷が吹き飛んだ。


「っ、ウィルフレッドさん!」


 ルークの悲鳴がわずかに聴こえて、ウィルフレッドは小さく笑った。散々宮廷魔法使いはすごいのだなんだと崇めてまで来るくせに、今更何を心配などしているのか。

 氷の破片を風で叩き落として、ウィルフレッドはくるりと杖を回した。弱い魔物ではないが、別段強いと言うわけでもない。ただ、魔物というものは得てして魔力を吸収するものである。そのため、魔法で仕留めるのは面倒に思えた。

 この手合いは王国軍に任せた方が楽だ。研究用に捕縛でもして貰えば良い──伝令用の氷の鳥を作り出しながら、牽制のため、今度は鋭く風を放って魔物を半分に切り捨てた。が、しかし、魔物は粘液を伸ばすように断面同士をくっつけて再生してしまうのだから、尚更簡単には何とかなりそうにない。


(ま、事情が事情だし……ユーリィさんもそんなに文句言わないでしょ)


 王国軍を自由に扱う権限は流石にウィルフレッドにはない。だから、王国軍を動かしたいときはいつもユーリィからの命令と偽造するのだが、当然のこととは言え、毎回ひどく怒鳴られるのは面倒だ。

 内心で言い訳をしつつ氷の鳥を飛ばすと、飛んできた魔物の粘液を風で弾きながら、それに軽く火を当てた。そして、その火が激しく燃え上がるのを見て、ウィルフレッドは厄介さに眉を顰めた。燃えたのではなく、火に反応しただけだからだ。氷の中で破裂したときのことを鑑みても、あの魔物が火の魔力を持っていることは明らかだった。

 この港は古い。ここであの魔物が火を扱えば港は灰と化すかもしれない。万が一のため、今すぐ船を出した方が良いだろう。

 魔物が魔力の強い相手を狙う習性を利用して、ウィルフレッドは少し魔導船から離れると、船から様子を窺っていた船長らしき男に出港するよう、手で指示を出した。それから、ウィルフレッドの方に向けて魔物がぐじゅっと腕のように粘液を伸ばしたのを確認して、ほっと息を吐く。

 しかし、安堵できたのは一瞬のことだった。港が突然燃え上がったのである。動き出した船がいくらか桟橋から離れていなければ、すぐに火が燃え移っていたかもしれない。


「はぁ……軽率だったな」


 ウィルフレッドはぼやいて、水を放とうとして止めた。氷に閉じ込められた中で破裂できたのは、魔物の体自体が水と反応したせいかもしれないのだ。

 あたりが燃え上がったのは、爆発の際に氷に忍ばせた粘液を発火させたためだろう。だから、なおのこと安易に水を放つわけにはいかなかった。どうせ溶けた雪と反応するかもしれないにしても、次の一手を打つ時間が欲しかったからだ。




 船の上で、パトリシア達は小さく身を寄せ合っていた。魔法使いに命じられたなら、有象無象はそれに従わなければならない。いくらウィルフレッドが心配でも、魔法使いでない限り、駆け戻ることさえ許されないのだ。

 けれども、船がウィルフレッドを置いて出港して、港が燃え上がったのを見た瞬間、パトリシアは堪らず、「いや! 帰して! 港に帰して!」と悲鳴を上げて、船縁に身を乗り出した。もしルークやヒナタが止めてくれていなかったら、パトリシアはきっと海に落ちていただろう。


「先輩! 大丈夫です、ウィルフレッドさんなら……大丈夫、大丈夫に違いありません……」


 ルークの声が震えていた。手だってぶるぶると震えていたし、今にも泣き出してしまいそうだった。自分に言い聞かせるような言葉に、パトリシアははっとして、それでも、「でも、でも……お、お兄ちゃんが……死んじゃったら……」と溢してしまう。

 派手な爆発音と共に、港が尚のこと燃え上がったのが悪かった。宥めようとしてくれたヒナタも言葉を失って、「あぁ……」と呆然とした声を上げる。それがひどく絶望感を煽って、パトリシアはとうとう、その場に膝をついてかくりと俯いた。

 だから、「うわ、めちゃくちゃ裾焦げてる……」とウィルフレッドの声が聞こえたとき、パトリシアは幻聴だと思ったし、幻聴にしてももっとマシな言葉があるだろうと思った。その上、「おー良い燃えっぷりっすね」と聞こえたときには、我慢できずに「うるさい!」と怒鳴りまでした。


「は? 誰のおかげで船を出せたと思ってんすか。もっと俺を労ろうって気持ちはないんすか?」

「うるっさい! バカ! バ……えっ?」

「えっ? じゃないでしょ。何すか、冷たいな……」


「普通に傷付くんすけど……」と拗ねた調子で言うのはウィルフレッド本人だ。パトリシアは反射的に瞬きをして、「う……うそ……本当にお兄ちゃんなの……?」と涙を浮かべた。もうダメかもしれないと本当に思っていたのだ。


「はぁ。いやまさか、あんた俺の実力を疑って……?」

「だ、だってぇ……! だって見たことなかったからぁ……!」

「えぇ……あんな魔物程度に遅れを取ると思われてるんすか、俺……」


 ぼやくウィルフレッドに、パトリシアは我慢できず泣き付いた。ルークも同じようにわぁっと泣き付いて、ウィルフレッドが呆れたように「ちょっと……鼻水つけるのはやめてくださいね」と言うのに、尚更安心して泣いた。

 そうして、何とか泣き止んだパトリシアが、「その……どうやって船の上に来れたの?」と聞くと、ウィルフレッドは心底呆れた調子で、「転移紙があるでしょ」と眉を下げる。

 考えてみれば当然のことだ。魔法使いが転移紙を持っていないわけがない。パトリシアは恥ずかしくなって、「だっ、だよねー! お兄ちゃんが忘れるわけないよね、えへへ!」とごまかすように笑うしかなかった。

 パトリシアを気遣ったのか、単純に気になっただけなのか、ルークが「魔物はどうなったんですか……?」と恐る恐る聞いた。すると、ウィルフレッドは事もなげに、「爆破して核だけにしました。あぁ、魔物に核があるのはさすがに知ってますよね」と言う。


「知ってますけど……ば、爆破……ですか?」

「氷のかけらを核の近くにねじ込んだんです。雪や氷が溶けるまで時間があったでしょ?」

「そう、なんですね?」

「まぁ、そういうわけで魔力反応が遅いのは分かってたんで、かけらと反応して核の付近で爆発が……もう良いや。そんな感じです」


 説明が適当になったことに気を取られそうになったが、言ってしまえば、二度目に上がった炎はウィルフレッド自身のせいだったのだ。パトリシアは何だか怒りがふつふつとこみ上げてくるように思った。だって、あんなに心配をしたのに、原因が本人だなんて!

 しかし、パトリシアが文句を言うより早く、ルークが「さすがウィルフレッドさん!」と目をキラキラさせる上、ヒナタも尊敬するような目を向けているため、結局何も言えずじまいだ。


「核の回収は軍の方で何とかするでしょう。港は……まぁ、経費とかで何とかなれば……良いなぁ……」


 ウィルフレッドがはぁとため息をついて珍しく遠い目をするので、パトリシアは文句を言うのを忘れて、ちらりと船乗り達を見た。港が燃えてどういう気持ちでいるだろうと心配になったのだ。

 そして、船乗り達が呆然と港の方を眺めているのを見て、今回のことはもう何も言うまいと思った。




「エーリャ。見送ってしまって、本当に良かったの?」


 眼鏡の女に声を掛けられて、エーリャと呼ばれた少女はにこりと微笑んだ。それから、「あぁ、良いんだ! 彼は大切な友達だったけれど……」と寂しげに言う。


「まぁ……なに、彼には彼の人生があるものさ」

「そう。貴女が良いなら構わないわ」

「おや、姫さま。随分とあっさりしているね」


 女はきょとんと首を傾げて、「そう? 私なりに悲しんでいるつもりなのだけど」と言うと、少女の顎の下をついと撫でて、「貴女がいるからかしら」と薄く笑った。

 少女はくふふとそれを楽しげに笑って、少しだけ海の方へ目を向けた。船はもう見えないところまで行ってしまった。友人もそうだ。もう会うことはないだろう。

「さぁ! そんなことより、役目を果たさないとね」と明るく声を出して、少女は炎の中でほんの少しだけ再生を始めた魔物に目を向けた。そして、音もなく港一帯を炎ごと凍らせると、「あぁ、これの相手をしたのは良い魔法使いだな」と目を細める。


「エーリャ」

「分かっているとも! 変な気を起こすつもりはないさ。核もしっかり回収するよ」


 女に強く名前を呼ばれて、少女はくるくると喉を鳴らした。嫉妬でもされているようで気分が良いのだ。

 しかし、怒らせてしまうのは本意ではない。それなので、従順に魔物の核を回収すると、「安心したまえよ、姫さま! わたしはあなたのものさ」と、少女は歌うように言った。

 女は瞬きひとつせずに、「知っているわ」と言う。それがおかしくて、少女は軽やかに笑い、女と共にその場を後にした。

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