第2話 氷の国
一
「良くて無期刑、悪くて極刑ってところじゃないすかね」とウィルフレッドが言うので、パトリシアはひえっと情けない悲鳴を上げて、「し、死ぬの? お兄ちゃん、私死ぬの?」と小さく体を震わせた。
ウィルフレッド曰く、遺跡のものを持ち出したとしても未成年なら大した罪には問われないが、それが魂の遺産やそれに準ずるものであれば別だと言う。つまるところ、ヒナタは下手をすれば準ずるものに当たるかもしれないらしい。
大冒険を終えて、ようやく家に帰ってこれたというのに、隣のルークもすっかり縮こまってしまっている。ヒナタも申し訳なさそうに目を泳がせているので、ここで口を開けるのはパトリシア以外にいなさそうだった。
「お……お兄ちゃん、何とかならない?」
「普通に無理っすけど」
「そんな〜! 王様とか王子様に掛け合ってよ! ほら、宮廷魔法使いでしょ!?」
「や、自業自得でしょ。反省はないんすか?」
「そんな暇ないよ! 命かかってるんだよこっちは!」
この無慈悲な兄に比べれば、さっき感じた魔力の奔流の方がいくらか優しいものに思えた。パトリシアはいっそあそこで魔力の持ち主と交渉でもするんだったと後悔しながら、「お兄ちゃん、王子様と親友なんでしょ? ちょっと掛け合ってくれるだけで良いから……ねぇお願い! 何とかしてくれたらもう勝手に遺跡には行かないから〜!」と必死になってウィルフレッドに泣き付いた。
けれども、ウィルフレッドははぁと深く溜め息をついて、わしわしと癖毛を掻くと、「俺も暇じゃないんで……」と呆れた声音で言う。
「じゃあ、じゃあ、家中の掃除もします……皿洗いも、お洗濯も……」
「へぇ」
「買い出しも行くし、荷物の整理もするので……」
「ふーん……」
「雑用でも何でもします! だから……」
パトリシアは潤んだ目でウィルフレッドに懇願した。何だかんだ言っても、頼みの綱は兄だけだ。
随分悩んでみせたあと、ウィルフレッドが「本当に何でもするんすね?」と念を押すように聞いてくるので、パトリシアは大きく何度も頷いて、「約束します! もう家のことサボったりしません! お兄ちゃんお願い、助けて!」と涙ながらに訴えた。
「ん〜……俺、ちょっと波の国まで行く用があるんすよね」
「えっ? 波の国?」
「ま、いろいろあって」
波の国と言えば、大国として名が上がる氷の国よりも大きな国だ。年中氷に覆われた氷の国とは違い、暖かく明るい国だと言う。しかも、神器のひとつを確実に保有しているとも聞いたことがある。
パトリシアは自分の状況も忘れて胸を高鳴らせた。まだ氷の国を出たことがないパトリシアにとって、外国なんて憧れの象徴だ。しかも、波の国には時折り顔を出してくれるいとこ達がいて、その二人から国の話をよく聞いていたから、特別な憧憬があった。
だから、ウィルフレッドに「そのときにあんたらも連れて行きますけど、良いっすね」と言われたとき、パトリシアは飛び上がって喜んだ。ルークもぱっと笑うものだから、二人は抱き合ってぴょんぴょんとその場で跳ねたぐらいだった。ウィルフレッドがどういう人間か分かっていたはずなのに。
「で……俺は一切荷物は持たない主義なんで、あんたら必死に運んでくださいね」
「ふえ……」
「それから、あんたらが拾ってきたのは向こうで証拠隠滅するんで」
「しょ……っ!?」
パトリシアは言葉に詰まったし、ルークも言葉も出ないようだった。ウィルフレッドが証拠隠滅と言うなんて、もう悪い予感しかしない。
狼狽える二人を無視して、ウィルフレッドはヒナタに目を向けると、「あんた……名前は分かるんでしたっけ?」とあっさりした声音で問いかける。
「それだけは、まぁ……」
「へぇ。ま、良かったじゃないっすか、名前はあって」
「そ、そう……なんですかね」
ウィルフレッドが適当に言うので、どうして良いか分からなかったのか、ヒナタは曖昧に笑ってみせた。それから、「えっと……証拠隠滅って、僕はどうなるんですか……?」と目を泳がせながら小さく溢す。
「別に、何てことないっすよ。あんたはあの遺跡にいなかったってことにするだけなんで」
「えっ、どういう……?」
「適当に戸籍を買って誤魔化そうかなって」
あんまりなウィルフレッドの発言に、パトリシアは咄嗟に叫んだ。「やっぱりお兄ちゃんろくでもないよ!」と。
「何言ってんすか。これが一番手っ取り早いでしょ」
「いやいやいや、犯罪だよ! 私が言えたことじゃないけどさ!」
「うちの国や波の国ではそうっすけど……波の国のお隣にある砂の国では違います」
「そ……そうなの?」
「あそこは国家分断の影響でいまだに内戦状態でしょ? そのせいで、一部の郡が金策として裏で戸籍売買に走ってるんで、事実上犯罪ではないっすね。あんた学校で何習ってるんです」
「そんなこと学校で習うわけないよね⁉︎」
パトリシアの文句に、ウィルフレッドは呆れた顔をして、「まぁ……魔法の話しかしないんでしょうね。俺に聞いた方が早いのに……」と肩を竦めた。
天才の言い分である。確かにウィルフレッドは稀代の魔法使いだ。氷の国では魔法使いの称号を持っていても氷や風の魔法しか使えない場合が多い(無論、他の国では魔法使い自体がほぼ存在しないらしいので、それだけですごいこととも言える)が、ウィルフレッドは当たり前のようにすべての魔法を扱うことができる。それも、精霊言語の詠唱なしに!
けれども、ウィルフレッドには最大の欠点がある。とにかく説明が雑なのだ。昔、パトリシアもウィルフレッドに魔法を習ったことがあるが、「まぁ良い感じにしてください」だの、「なんとかなるでしょ、知らないっすけど」だの、ろくな説明のひとつ貰えなかったのは記憶に新しい。
ルークもよくこんな奴のところに弟子入りに来たものだとパトリシアは思う。パトリシアがルークの立場なら、才能や名声なんて気にせずに、絶対に優しくて真面目な人を選んでいただろう。
パトリシアは内心で舌を出しながら、「お兄ちゃんに魔法のこと聞いて分かる人なんて、氷の国にはだーれもいないよ!」と、ふいと顔を背けた。
「はぁ……まぁ良いか、俺もガキに物を教えるのは趣味じゃないです」
カチンときたが、パトリシアは苛立ちをぐっと堪えた。このろくでなしの兄に比べればずっとパトリシアは大人なのだし、下手にあれこれと言って機嫌を損ねれば後で苦労する羽目になるからだ。
しかし、ウィルフレッドが突然思い出したように、「あぁそうだ。俺、明日から三日ほど帰らないので、家事もよろしくお願いします」と言い放ったときには、パトリシアも反射的に、「そういうのは先に教えといてっていつも言ってるじゃん! お兄ちゃんのバカ!」と大声を張り上げて、はっと慌てて口元を押さえた。
けれども、ウィルフレッドは何も気にしていない様子で、「すみませんね、ついさっき決まったことなんで」と言う。
「ついさっき? 何かあったの?」
「ありましたよ。考えなしの妹と不肖の弟子が厄介な拾い物をしてくれた件とかっすね」
「あっ、分かりました……本当にごめんなさい……」
パトリシアが肩を落としながら縮こまると、ウィルフレッドは「別に、怒ってるわけじゃないっすよ。ガキなんて誰でもやらかすでしょ」と事もなげに言うので、パトリシアも心から申し訳なく思って、「そうかもだけど……ごめんね、お兄ちゃん……」と小さな声で謝った。
「うわ……明日は雪も止むかな」
「もう! 明日も降るもん!」
せっかくパトリシアが反省したというのに、ウィルフレッドはちょっと皮肉(氷の国は常に雪が降り続けているので、雪が止むというのは有り得ないことが起こったときの慣用句なのだ)を言うのだから、パトリシアはぷぅと頰を膨らませた。それを見たウィルフレッドがちょっと笑ったのに、なおのことパトリシアは腹を立てて、「バカ! バカ! 笑わないでよー!」と、ウィルフレッドの腕をぽかぽか叩いてみせた。
二
この家の家事は重労働だ。特に、家事をサボって遊んでばかりいたパトリシアにとってはそうだ。ルークも勉強ばかりしていたせいで同じような状態だ。それなので、頼みの綱はヒナタだけだったが、残念ながらヒナタは記憶喪失なのである。
ウィルフレッドが家を発って首都であるプラストールへ向かって(もちろん転移紙を使ってだ)から一日、パトリシアはすっかり疲れ果てていた。
魔道具のある時代、これが普通の家の家事ならすぐに終わったことだろう。しかし、この家はとにかく触ってはならないものや触り方に手順があるものが多すぎるのだ。ウィルフレッドがやるように魔法任せにできれば難しいことではないが、家に残された三人が全員魔法を使えないので、延々と手作業での作業を強いられている。
パトリシアだけでなく、ルークとヒナタも思ったことだろう。ウィルフレッドは悪魔であると。
「先輩……もう休憩しませんか?」
「そうだね……」
ルークに言われて、パトリシアはふーっと汗を拭って頷いた。幸い、一階の掃除は終わっているし、昼食はウィルフレッドが焼いておいてくれたパンや保冷庫(氷の国では、断熱材を抜いた倉庫を食材や料理の保存場所として使うことがある)に残してくれた作り置きを適当に食べれば良い。
ウィルフレッドがいてくれれば、お腹が空いたと言うだけで食事は温かくて美味しいものが出てくるし、皿洗いひとつしなくて良いものだが、今はすべて自分でやらなければならないと思うと気が重い。それなので、パトリシアはウィルフレッドに対する悪魔という評価を取り下げて、内心で小さく謝った。
「パティちゃん、僕、飲み物とか……ええと、何か用意できるものってある?」
「良いよ良いよ、気を遣わないで。私がやるから大丈夫!」
ヒナタの申し出に明るく答え、パトリシアは「ご飯も取ってくるね!」と駆け出して、ルークとヒナタがお礼を言ってくれるのを聞きながら、これも悪くないかもと少しだけ思った。
そうして、パトリシアが保冷庫の保存食とミルクを取って戻ってくると、二人は向かい合うように席についており、ルークが机に地図を広げてヒナタに何か話をしているようだった。それなので、パトリシアはすぐに適当なところに保存食とミルクを置いて、「何の話してるの?」と小走りに二人に駆け寄った。
「先輩、良いところに! 先輩は波の国がどこか分かりますか?」
「えっ、知ってるよぉ〜一番大きいところだよね!」
パトリシアが地図──世界地図の中心部を指差すと、ルークは「さすがにこれは常識ですよね」と笑って、「これも分からなかったらどうしようかと思いました」と憎まれ口を叩く。
「もう! 私、地理の成績は良いんだよ。知らなかったの?」
「冗談です、冗談!」
ルークは慌てて、両方の掌をパトリシアに向けてひらひらと振った。パトリシアは腰に手を当ててふんっとルークから顔を背けると、「バカにしないでよね!」と口を尖らせた。
ルークも少しは悪く思ったのか、「もーごめんなさいって、怒らないでくださいよ」と眉を下げて、「じゃあ、先輩がヒナタさんに説明してあげてください。この国と、この世界のこと」とパトリシアを立てるように言う。
説明が好きなルークがパトリシアにその役目を譲るのは滅多にないことだ。けれども、パトリシアは地理以外はからっきしなのである。それなので、「えー? 国の話は私がしてあげるけど、世界の話はルークがやってよ」とパトリシアが言いつつ席につくと、ルークは「良いですけど……」と苦笑した。
「よしよし、ヒナタくん! このパトリシア先生がなんでも教えてあげよう!」
「お……お願いします、えーと、先生?」
「ふふーん? 先生、先生、良い響きだな〜」
ヒナタに先生と呼ばれて、パトリシアは上機嫌で氷の国を指差した。それから、「私達が今いるところはこの国ね。みんな氷の国って呼んでるけど、ラヴィーナ王国って名前もあるの。首都はプラストール市ってところ」と国の説明を始める。
「じゃあ、ウィルフレッドさんはプラストール市で働いてるの?」
「そうだよ。ちなみにここはアヴローラ市で、首都からはかなり離れてるかな」
「僕が見つかったところは……」
「イスカーチェリ市の遺跡だね。お隣の市だし、ここからなら一時間も歩いたら着くよ」
「世界地図じゃ分かりにくいよね。今度ちゃんと説明するね」とパトリシアは軽く頰を掻いて、「何か気になることはある? 市の特色とかなら説明できるよ」と、ヒナタに向かってにっこり笑ってみせる。
ヒナタはぱちりと瞬きをして、困ったように視線を泳がせると、「あぁ……えっと、そうだなぁ……この国ってどんな国?」と、少し首を傾げた。
「氷の国はね、年中雪が降ってて、ずっと暗いし寒いんだけど……窓の外を見て?」
パトリシアが窓を指差せば、ヒナタは素直に席を立って窓を覗き込み、わぁと声を上げた。それが何だか素敵なものを見たときのようだったので、パトリシアはふふんと満足げに息を吐く。
氷の国は暗くて寒い国だが、魔法が特別発達している。だから、街灯の火はプリズムのような光を放つし、それが雪に反射すると、まるで地面が星空になったように輝くのだ。
このあたりの街灯の火はすべてウィルフレッドが点したもので、外で見れば普通の火だが、特別な魔法がかけられているのか、窓から見たときだけこういう美しい景色になるのだった。ウィルフレッド曰く、常にこんな風に光っていたら目が疲れるからだと言う。
パトリシアは目をきらきらと輝かせながら、「素敵でしょ? この国はね、魔法の国なの!」と高らかに言った。ルークも頷いて、「とても良い国なんですよ!」と笑った。
「すごいなぁ……僕、ここに来て、とても良かった気がする」
ヒナタが呟くようにそう言うので、パトリシアとルークは嬉しくなって、そろっと顔を見合わせるとひっそり微笑んだ。
三
「じゃあ、今度は僕が先生です! ルーク先生って呼んでくださいね!」
ルークが元気にそう言うので、パトリシアもすぐに、「ルーク先生、質問して良いですか!」と手を上げながら声を上げた。
「はい、なんですか? パトリシアさん」
「魂の遺産って何ですか?」
「良い質問ですね!」
パトリシアとルークが本当に先生と生徒みたいなやりとりをするせいか、ヒナタはくすっと笑って、「ルーク先生、僕も聞きたいです」と言った。それなので、ルークも気を大きくしたように、「良いでしょう、僕の言うことをよく聞いているように!」と胸を張ってみせる。
「まず、魂の遺産というものは、千年戦争と呼ばれる古代の戦争で使われていた兵器のことです。特に、神器や眷属器と呼ばれるものを指します」
「先生! 神器と眷属器とは何でしょうか?」
「うーん、あまりにも実例が少ないんですが……魂の遺産は武器の形をしていることと、神器はこの世に七本だけしか存在しないことは分かっています」
ルークはそこで言葉を切ると、「それから、さまざまな遺跡に残っていた資料を見るに、神器には国ひとつを簡単に滅ぼせるほどの力があったみたいですね」と言った。
ヒナタが首を傾げて、「実例が少ないってことは、見つかっている魂の遺産もあるんですか?」と聞くと、ルークが得意げに頷いた。そして、「ひとつだけ、現存が確認されている神器があります」と勿体ぶって言う。
「波の国のフュール・エルガーですよね、先生!」
パトリシアが先に答えれば、ルークは「パトリシアさん、花丸です!」と満足げに頷いた。歳下から褒められているのだが、パトリシアも得意になって、「わーい!」と両手を上げて喜んでしまう。
「穿つ波濤、フュール・エルガー。凍てる疾風、ギヨット=ストールズ。轟く落星、テイル・オブ・デザイア。呪われし巨壁、マジュド・アルマウタ。旅を見送るもの、ナイチンゲール。打ち照らす旭光、トゥ・シルビエンテ。尽きざる業火、星火燎原ノ扇……この七本が神器と呼ばれ、それらは当時の七大国が一本ずつ所有していたと言います」
ルークがつらつらと神器の名前を挙げていくので、はじめて聞くだろうヒナタだけでなく、パトリシアもぽかんとしてしまった。なぜなら、パトリシアは二本くらいしか名前を覚えていなかったからだ。
その反応を気にせず、ルークは続けて、「七大国とは波の国、氷の国、錆の国、砂の国、花の国、紅の国、靄の国を指しますが……今では砂の国は分裂し、花の国は騎士団を捨て国の規模を縮小しました。紅の国はまだ存在しているかさえ分からず、靄の国は滅んだ後です。ですから、今は波の国と氷の国と錆の国を指して三大国と呼ばれることの方が多いですね」と言う。
パトリシアはちらりとヒナタを見て、ヒナタがまだぽかんとしているのを確認して安堵した。もし話の流れに乗れていないのが自分だけだったらどうしようと思ったのだ。パトリシアは地理は得意だが、政治だの何だのに関してはからっきしなのである。
「それはともかく……神器の現存を公表した結果、波の国は他国との小競り合いが一切なくなったんです。神器はそれくらいすごいものなんですよ」
そこまで言って、ルークはぼんやりしているパトリシアとヒナタの顔を見ると、ぱちぱちと瞬きをする。そして、「ええと……また今度説明しますね」と、呆れた調子で苦笑した。
四
ウィルフレッドはふぁとあくびをわざとして、目の前の"親友"──ユーリィを見遣った。相変わらず、ウィルフレッドを視界に入れるときはいつも眉間にシワを寄せているのが面白くてならない。
王城に顔を出してまでユーリィを訪ねたのは、ユーリィが氷の国の第一王子だからでもなく、単純に話しやすいとウィルフレッドが思っているからだ。向こうがどう思っているかは知らない(むしろ毛嫌いされているようだと周りは言う)が、反応が大きくて何を話しても愉快なのが良い。
ウィルフレッドは「お久しぶりです、元気でした?」と適当に挨拶をして、へらりと笑った。すると、ユーリィの眉間のシワがいっそう深くなって、「久しぶりだと? 貴様、自分の立場を分かっているのか?」と詰ってくるので、ウィルフレッドはなおのこと愉快な気分になった。
「まぁ、俺も宮廷魔法使いなんで……そこそこに?」
「分かっているならせめて首都に常駐しろ! 馬鹿者が!」
「あはは、空気が合わないんすよねぇ」
ユーリィの言うことは最もだ。しかし、言うことを聞くかはまた別の話である。ウィルフレッドはユーリィをからかうのが好きだし、何より田舎でのんびりと暮らす方が性に合っているからだ。
「確かに、貴様ほどの魔法使いなら空気の違いも気になるのかもしれないが……」
ユーリィが少し悩むそぶりを見せながら言うので、ウィルフレッドはちょっと笑いを堪えてから、「分かってくれて嬉しいっすよ。んで、今度の旅行のことなんすけど……」と話を切り出すと、ユーリィの眉がキッと吊り上がった。
分かりやすい男だとウィルフレッドは思う。何を言えばどう怒るのか、簡単に想像が付くところが好ましい。
案の定、ユーリィは「旅行だと?」と吐き捨てるように言う。あまりにも想定通りの反応に、ウィルフレッドはへらと笑った。
「この忙しいときに貴様……」
「俺は忙しくないんで」
「本来貴様も忙しいはずなんだ! 無駄に仕事の効率が良いせいで分からないのだろうが!」
「はは、そんなに褒められても何も出ねぇっすよ」
「褒めていない!」
ユーリィがひどく怒鳴り上げるので、ウィルフレッドはいくらか目を細めて、「あんた、ほんと素直じゃないっすよね〜」と口の端を吊り上げた。こういう言い方をした方が面白い反応が返ってくるとウィルフレッドは知っているからだ。
「すっ……う、煩い! この、戯言を……!」
「あは、顔真っ赤」
「黙れ! 言わせておけば貴様! ここで叩っ斬ってやる!」
真っ赤な顔で言われたところで怖くも何ともないが、ウィルフレッドは「はいはい、すみませんでした」と適当に謝った。これ以上ユーリィで遊んでは本題に入れないと思ったためだ。
じとりと睨んでくるユーリィに軽く掌を見せて、「あー……そうそう、旅行……我が親愛なるラドヴァン陛下から直々に頂いた休暇の話なんすけどね」とウィルフレッドが言うと、ユーリィの目の色が変わった。
ラドヴァン──氷の国の王であり、ユーリィの父親だ。息子であるユーリィより、他人でありながら魔法の才のあるウィルフレッドを寵愛しているため、ラドヴァンに対し、ユーリィは複雑な思いを寄せているようである。
とは言え、ウィルフレッドには親子の確執に立ち入る権利はなく、まず関係もないことだ。重要なのは国王から休暇を言い渡されたことなのだし、感情的になりやすいユーリィでもそこを聞き逃すはずはない。
ユーリィは少し押し黙っていたが、はぁと溜め息を吐いて、「仕方がない……話くらいは聞いてやる」と、渋々といった具合に言う。
「いや〜持つべきものは友っすねぇ。じゃ、旅行の計画はお願いします」
「ふざけるなよ。僕は話を聞いてやるだけだ、さっさとついてこい!」
ウィルフレッドが軽口を叩くと、ユーリィはやはり眉を顰めて怒鳴り上げた。それなので、ウィルフレッドは楽しくなって、「仰せのままに、殿下」とちょっとばかし恭しく言った。
五
ユーリィが舌打ちをしながら盛大に音を立てて扉を閉めるのにちょっと吹き出してから、ウィルフレッドはふっと指先に息を吹きかけた。そうして、小さな氷の鳥を作り出すと、それを部屋の隅にあるランプの中へ飛び込ませる。
氷の鳥は火に変わり、ランプに青い炎が点ったのをちらりと見ると、ユーリィは忌々しげに、「貴様のやり口は本当に腹が立つな」と吐き捨てた。これは件の"休暇"のことでなく、ウィルフレッドの魔法と魔道具に思うところがあるのだろう。
ウィルフレッドは曖昧に笑って、「どうも」と言った。同じ魔法学校の学生(ユーリィとは同級生だ)であった頃から、ユーリィはウィルフレッドの魔法や魔道具に変な執着を示すことがあった。当時のウィルフレッドにはよく分からなかったが、他の友人達に聞いたおかげで、これが嫉妬なのだと今は分かる。
何はともあれ、王城東の客間を使えたのは幸いだった。ここはウィルフレッドが仕事をサボるときによく使っている部屋だから、いくらかの家具は自分製の魔道具に変わっている。つまるところ、防音も認識阻害もやりたい放題ということだ。
ユーリィがそれを知っているかは分からないが、どかりとソファに座って、「さっさと貴様も座れ。僕は暇じゃないんだ」と急かすように言うので、ウィルフレッドは聞いてみるのをやめて、「はぁい」と気の抜けた返事をした。
「それにしても……父上が理由もなしに休暇を言い渡すわけがないな。魔法協会に動きでもあったか?」
ウィルフレッドがソファに腰を下ろすなり、ユーリィはそう言った。先ほどのランプの火を防音のそれだと理解しているらしかった。
魔法協会とは、その名の通り魔法使いが所属する会だ。功績を残した魔法使いしか所属できないために協会員の資格を欲しがる者は多いが、きな臭い雰囲気が苦手で、ウィルフレッドは魔法協会からは距離を置いている。氷の国が魔法に頼った国であるからか、国から独立した権限を持つほど力のある会であるため、それができるのも国王の庇護があってこそだ。
「ま、それなりに。あんたが危惧してるほどじゃないっすよ」
「ふん、一山いくらの魔法使いはこれだから……」
ユーリィの嫌味に、ウィルフレッドは小さく苦笑した。自分と比べるのは酷かもしれないが、ユーリィも十分に優秀な魔法使いである。魔法協会員を見下せるだけ上等だとも言える。
「それで? 父上に何を言われた」
「分かってるでしょ。波の国にでも逃げ込めって」
「冗談を言うな。あの国を信用できるものか」
氷の国の王家に連なる者としては、確かに波の国を信用できないに違いない。波の国は圧倒的な国力を以って他の国に干渉する権限がある。これを素直に喜べるのは騎士団を持たない花の国くらいだと言えよう。現に、砂の国は反発を起こして波の国に戦争を仕掛け、国家分裂の危機にまで陥っているのだ。
その戦争──あまりに呆気なさすぎて、小競り合いと嘲笑されることまである──は、当時齢十四だった波の国の第二王子によって終結したが、もはや蹂躙と言っても良い有り様に戦慄しなかった為政者はいないだろう。神器の公表によって終戦したとは建前のことだ。
ウィルフレッドとしては、それだけの力を持ちながらも自国の領土を守るばかりの波の国は信用には値すると思うが、何か裏があると言われれば納得できないこともない。即位前だと言うのに、既に国のほとんどを取り仕切っている第一王子は冷酷な人物とも聞くから、特別印象が良いわけでもないのだ。
そんなものだから、ユーリィがやけに不機嫌になった理由は波の国自体が気に食わないからだとウィルフレッドは思っていた。けれども、ユーリィはしばし重苦しく黙ったあと、「波の国は陸路では遠いし、航路も悪いだろう」と静かに言った。
「まぁ……大きな船は使えないっすね」
「貴様の軟弱な体で耐え得るとは思えないな」
「はは、そりゃどうも……」
氷の国から波の国までの航路は暗礁が多く、一部の水深の浅さから、大型船では座礁事故が起きやすい。そのため、小型船や中型船でなければ運航できないのだが、それらは氷の国特有の強い北風に煽られて簡単に沈むことさえある。短い航路なら魔法で何とかすることもできるが、波の国は遠いためにそれも不可能だ。
それに、ウィルフレッドは元々病気がちな方だ。力が弱いわけでなく、体格もそれなりに良いため、傍目には虚弱体質には映らないだろうが、床に伏せることも少なくはない。
ユーリィはいくらか迷ったような顔をして、それから、「考え直す気はないか。僕から父上に進言してやっても良いんだぞ」と、珍しく率直に言った。ウィルフレッドだって、それが気遣いだと分からないほど人の心が分からないわけではない。
ここでユーリィを茶化したところで、貴重な魔法使いを失うわけにはいかないと言われるだけだ。それなので、ウィルフレッドはちょっと笑って、「そうできれば良いんすけどね、今回は難しいかもしれません」と言うと、ユーリィから視線を逸らした。
「ふん……魔法協会のせいか? それとも、波の国の神器のことでか?」
「分かってるでしょ、両方っすよ、両方」
思い当たることはいくらでもあるからだろう。ユーリィは少し黙って、「そうか」とだけ言った。
本当に珍しく殊勝なことだとウィルフレッドは思う。魔法協会から距離を置きたいのはウィルフレッドの事情だが、本来魂の遺産は王族の管理下にあるもので、ラドヴァンが無理にウィルフレッドに任せたりしなければ、魂の遺産に関連することはすべて王族であるユーリィの仕事だったはずだ。その件については罪悪感でもあるのかもしれない。
「しかし、こちらからも情報を提供するとは言え、波の国が易々と神器の情報を渡すとは思えないが」
「大丈夫だと思います。第一王子はともかく、第二王子の方は寛容だって聞きますし……こっちにも切り札はあるんで」
ユーリィがついと眉を吊り上げて、「切り札?」と怪訝そうに言う。それから、「本当に切り札があるんだろうな?」と念を押すように言ってくるので、ウィルフレッドは小さく笑って、「まぁ、とっておきのが」と言った。
「貴様の言葉は妙に信用できないな……」
「酷くないっすか? 俺はこーんなに身を粉にして王家の皆々様に尽くしてきたのに」
「そんな戯言は首都に常駐してから言え!」
「うるっさ……そんな大声出したら人が来るっすよ」
「知るか! いくらでも呼べ馬鹿者が!」
ウィルフレッドが慌てて軽く耳を塞ぐと、ユーリィはますます激昂して、「いつもそういう態度だから信用されないんだ!」と怒鳴り上げた。よくもここまで大声を張り上げて喉が枯れないものだと、ウィルフレッドはぼんやり思う。
その態度が気に食わなかったのか、ユーリィがまた大きく口を開けるが、そのまま諦めたようにため息をつく。それから、ゆるりとソファの背もたれに身を預けて、じっとウィルフレッドの顔を見た。
「言っておくが、自分の体を切り売りするような真似だけはするなよ」
何気なくユーリィがそう言うので、ウィルフレッドはぱちりと瞬きをした。確かに、ウィルフレッドの体には切り売りするだけの価値がある。強い魔力を持つ人間の血は魔法薬の材料になるし、肉は口にすれば魔力を得られるとも言われる。ユーリィ曰く、魔法協会の狙いの一つはそれだろうとも。
しかし、それを今言われるとはウィルフレッドも思わなかった。元々能力の高さから期待ばかりされてきたウィルフレッドにとって、あからさまな心配の言葉が嬉しくないわけがない。何せ、"親友"からの言葉だ。
ウィルフレッドは笑ってしまいそうになる口元を軽く隠して、「分かってます」とだけ言った。そうやってせっかく笑いを堪えたのに、ユーリィが「貴様! 何を笑っているんだ!」と怒るので、結局、ウィルフレッドは声を上げて笑わずを得なかった。
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