魂の遺産
とりとり
第1話 雪中の遺跡
一
魂の遺産とは、千年戦争時代に製作された古代兵器の総称である。狭義には千年戦争末期に作られた神器と眷属器のことを指す。
魂の遺産には謎が多い。元より千年戦争時代の資料自体もほとんど残っていない上に、現存すると証明されたものはほとんどない。時折発掘される古代の遺跡だけが手がかりだと人々は信じている。
とにもかくにも、人々の興味は魂の遺産に縛り付けられていた。
氷の国、アヴローラ市の魔法学校生であるパトリシアとルークもその例に漏れなかった。警備に当たっていた王国兵たちの隙を突き、発掘されたばかりの遺跡にこっそりと侵入したのも魂の遺産の噂に惹かれてのことだ。
「うわぁああ! パトリシア先輩! 死にました! 僕もう死にました!」
ルークの絶叫が遺跡の壁にわんわんと反響する。まだ王国兵や魔法協会員の調査が入っていない遺跡だから当然でもあったが、パトリシアとルークは見事に暴かれていない罠にかかったわけである。
「それだけ声が出るなら大丈夫! まだ死んでない! 走って!」
「無理です無理です無理です! 何なんですかあの鎧!? 足早すぎじゃ……アッ、うわー! まだ追いかけてきてる!」
一瞬振り返って、真っ黒で騎士めいた鎧だけがガシャガシャと音を立てて追いかけてくるのを見ると、ルークはまた大声で叫んだ。
パトリシアもそれに負けない声量で、「もうやだー! 助けてお兄ちゃーん!」と絶叫した。もちろん、ここにパトリシアの兄であるウィルフレッドはいないし、こういうときに助けに来てくれるほど都合の良い兄でもない。
ガシャガシャと鳴る鎧の音がぐんぐん近付いてきて、パトリシアとルークはあまりの恐怖に泣きながら走った。黒い鎧はもはや死神のように見えた。
二人ともすっかり息が上がっていたので、どちらかが転ぶのだって当然のことだ。けれども、ルークが足をもつらせて転んだとき、パトリシアは「きゃー!」と悲鳴を上げることしかできなかった。なぜなら、ルークはそっと仰向けになって、「さようなら先輩、お元気で……」と天井に向けて祈り始めたからである。
「何してるの!? 何で!?」
「もう僕は死んだものと思って……」
「落ち着いて! まだ何とか……あっ」
パトリシアは魚のように口をぱくぱくとさせた。もう目の前に鎧が迫っていたからだ。
反射的に、パトリシアはウィルフレッドから勝手に借りた探索用の魔道具──みつけーるくん一号という名前はパトリシアがつけたものだ──を鎧に翳した。すると、鋭くピーッと音がして、場がしんと静まり返る。探索用の魔道具なのだから罠が近くにあれば音が鳴るのは当然だ。それ以外の効果などあるわけがない。
死んだとパトリシアは思った。鎧が巨大な剣を振り上げ、風圧がパトリシアとルークの髪を揺らし──突然、ガラガラと音を立てて床が崩れていく。
死んだ。本当に死んだ。悲鳴を上げながらパトリシアはそればかり考えていた。ついでに、今日の晩ご飯のことも少し考えた。今日の晩ご飯はクリームシチューだとウィルフレッドが言っていたのを思い出したのだ。クリームシチューはパトリシアの大好物である。
(お兄ちゃんのシチュー……食べたかったな……)
薄れゆく意識の中、パトリシアはそれだけを思った。
二
「クリームシチュー!」
「うわー!」
パトリシアが叫びながらガバリと身を起こすと、顔を覗き込んでいたらしいルークも叫んでのけ反った。
当然ながら、まだ遺跡の中だ。ランタン型の魔道具である明るいね一号をかざしてみると、周りには崩れた床石ばかりが散らばっているのが見えた。どうやら真っ黒なあの鎧は落ちてこなかったらしい。
パトリシアはほっとしながらも、がっくりと項垂れた。ここには美味しいクリームシチューはないし、ここは暖かい家でもない。何かあったとき、文句を言いながらも手を貸してくれるウィルフレッドもいない。その上、天井は随分と高く、持ち前の魔道具では元の道には戻れそうになかった。
だが、パトリシアはポジティブだった。とにかく根っから明るかった。まぁ帰れないものは仕方ないし、もしかしたらこの場所は王国兵にだって見つけられなかったかも──などと考え始めたのである。
それに対して、ルークはネガティブなので、「僕たち、誰も助けに来なくてこのまま死ぬんだ……」とか何とか言っていたが、パトリシアはそれをすべて無視した。代わりに、「とりあえず探索しようよ! 最悪壁を壊しながら進めば外には出られるはずだから!」と明るく言った。
「そんなことをしたら賠償金が……」
「死ぬよりは良いよ!」
「ウィルフレッドさんに怒られるかも……」
「それは内緒で遺跡に来た時点でダメだと思う」
「確かに……」とルークが言うのを尻目に、パトリシアは近くに落ちていたみつけーるくん一号を拾うと、斜めにかけていた鞄にしまった。
それを見ていたルークが、「そういえば、持ってきた魔道具、それだけじゃなかったですよね。何であのときそれを使ったんですか?」と聞いてくるので、パトリシアは「何か……なんだろう……ノリかな……」と誤魔化すように言う。
正直に言ってしまうと、鎧に向かって使えただろう魔道具はちゃんとあった。けれども、それがルークにバレればとても恥ずかしい思いをすると分かっていたので、パトリシアは黙秘することにした。齢十五歳の少女とは言え、プライドはある。魔法学校での後輩であり、ひとつ年下でもある少年に弱みを見せるわけにはいかないのだ。
「ノリ……?」
「そうそう! そういう日もあるよ!」
ルークのじっとりとした視線から逃れるように、パトリシアは「探索! 探索しよう! ね!」とルークの腕を引いて歩き出した。これ以上話していては間違いなくボロが出てしまうと思ったのだ。
ルークは多少不満げにしていたが、諦めたように「そうですね」と言った。けれども、視線はまだじっとりとしている。それなので、なんて可愛くない後輩だとパトリシアは内心で舌を出した。
「それはそうと先輩……」
「こ、今度は何かな、ルークくん?」
「何か……後ろからバサバサって音がするんですけど……」
不安げなルークの言葉を聞いて、「えっ」とパトリシアは声を上げると、そろりと後ろを振り返った。すると、暗がりの方から確かにバサバサと音が聞こえてくるものだから、冷や汗をかきながらも慌てて鞄に手をかける。
パトリシアが持ってきた魔道具は四つだ。探索用のみつけーるくん一号、あたりを照らすための明るいね一号、道を拓くための破壊神一号、それから、戦闘用のスーパースペシャルデラックス六号、略してSSD・Ⅵである。ウィルフレッドが作ったみつけーるくん一号や明るいね一号など(名付けたのはやっぱりパトリシアである)と違い、SSD・Ⅵはパトリシアが作ったもので、出力にも耐久性にも不安が残るが、愛着のある逸品だ。
パトリシアはSSD・Ⅵをそろりと鞄から引っ張り出すと、魔力を込めてふわりと宙に浮かせた。あまり魔法が得意でない代わりに、魔道具の扱いにだけは天賦の才を持つパトリシアにとって、SSD・Ⅵの扱いは難しいものでもない。
「ルーク、下がって!」
「は、はい!」
SSD・Ⅵに込めた魔力を増幅させるのだってお手の物だ。魔力の奔流が渦巻いて、SSD・Ⅵの砲口に青白い光を集める。
バサバサと聞こえる音はどんどんと近付いて来ている。汗が顎を伝って鎖骨に落ちる。それに気を取られることなく、パトリシアは暗がりに目を凝らして、すーっと息を吸った。
「魔力装填完了! SSD・Ⅵ砲! 撃てーっ!」
パトリシアが叫ぶと同時に、キンッと高い金属音のような音がして、SSD・Ⅵが貯めた魔力を解放する。瞬間、砲口から圧縮された魔力が青白い光の束となって放たれた。
光の束が暗がりを貫いたその瞬間、ギャッと獣の悲鳴が上がる。それから一拍置いて、しんと辺りが静かになったものだから、パトリシアもルークもほっと息を吐いて、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「た、助かった……のかな……」
「多分……」
SSD・Ⅵがゆっくりと地面に降りて少しだけ転がるのを見ながら、パトリシアは、「SSD・Ⅵ、お疲れ様〜……」と手を伸ばす。それを見詰めていたルークが、「あの……」と複雑そうな顔をして言った。
「それ使えばあの鎧、倒せたんじゃないですか?」
ぎくっとパトリシアは肩を跳ね上げて、「なっ、なっ、何のことかな〜?」と目を泳がせる。
それがルークの怒りに火を付けたのだろう。ルークは「絶対倒せたんじゃないですか! 何ですかノリって! 何なんですか⁉︎ 僕ら何のためにあんなに怖い思いしたんですか⁉︎」と声を荒げた。
ルークの言うことは正論である。だが、パトリシアも引くわけにはいかなかった。ここで引けば一生この失態をネタにされるに違いない。ルークはそういう人間だとパトリシアは思っている。
「ノリだよ! ノリだったの! 仕方ないでしょ! あのときのノリだったの!」
「ノリしか言えないんですか先輩は!」
「言えないよ! 悪い⁉︎」
「悪いですけど⁉︎」
正論である。パトリシアはぐぬぬと唸って、「だって……焦ってて思い付かなかったんだもん……」と肩を落とした。
「まったく……最初から素直にそう言えば良いんですよ」
「うぐぐ、転んだくせに偉そうに……」
「それは今関係ないですよね⁉︎」
パトリシアとルークはその場でバチバチと睨み合ったが、お互いの腹がぐぅと鳴ったせいで、ガックリと項垂れた。夕飯までには帰るつもりだったので、食べ物だって持って来ていない。だって、転移紙(空間と空間を繋げる魔法陣の書かれた紙のことだ)があるから、要らないと思って──転移紙?
パトリシアは反射的に鞄の中を引っ掻き回して、底の方から一枚の紙を取り出すと、「転移紙あるじゃん‼︎」と大声で叫んだ。
「転移紙⁉︎ そんなものまで盗んできたんですか⁉︎」
「借りたの! 人聞きの悪いこと言わないで!」
パトリシアが言い返すと、ルークは呆れた顔をしながらも、「まぁ……でも、帰るあてが見つかって良かったですよ」と安堵したふうに言った。
帰るあてがあるということは、つまり、まだ探索を続けられるということだ。そう思ったのはパトリシアだけではないようだった。
パトリシアとルークは顔を見合わせて、どちらともなくにやっと笑った。家に帰ろうとはどちらも言わなかった。
「よし! 行くぞー! 目指せ魂の遺産!」
「おー!」
意気揚々と声を上げると、明るいね一号を掲げて、二人は遺跡の奥へと歩き出した。
三
二人が意気揚々としていられたのは三歩目までだった。この遺跡の地下はとにかく罠だらけなのだ。落とし穴に床から飛び出してくるたくさんの刺、迫ってくる壁、気持ち悪い謎の笑い声、流れ込んでくる水──様々な罠から何とか逃げ延びて、二人の気分は最底辺にまで落ち込んでいた。多分、どちらかが帰ろうと言い出せばすぐに転移紙を使っていたことだろう。
それでも、パトリシアは足を止めなかったし、ルークだってそうだった。もはや意地とも言えた。これで何もなかったらどうしようとパトリシアは思ったが、ちらりと見たルークが同じようなことを考えていそうな顔をしていたので言うのをやめた。
そんな様子だったから、上に続く階段を見つけたとき、二人は抱き合って喜んだ。もう地下から出られるなら何でも良いような状態だったのだ。
二人は喜び勇んで階段を駆け上がって、突然ぴしりと固まった。あの黒い鎧が階段の先にいたからである。
だが、今の二人は先ほどとは違った。あまりの限界さに、やけに様子がおかしくなっていたのだった。
「そこを退いてください! さもないと──」
「SSD・Ⅵ! 吹っ飛ばせーっ!」
ルークの言葉を遮って、光の束が黒い鎧を貫いた。回転する光は鎧を捻じ切って、ただの鉄塊に変えてしまう。
パトリシアはやり切った気持ちでいた。なにせ、あの恐ろしい鎧を一撃で倒せたのだ。だから、うきうきと胸を弾ませて、「やった! ルーク見た⁉︎ 私の魔道具、最強なんじゃないかな!」とルークの方を振り返る。
パトリシアの態度に反して、ルークは片手で顔を覆って俯くと、もう片方の手で階段の先を指差して首を振った。
それに憤慨しながらも、パトリシアはルークの指差した先を見て、即座に「あ……」と青ざめた。光の束は階段の先の床まで一緒に消しとばしてしまったのだ。
「え……へへ、へへへ……」
「で、どうするんですか? これから?」
「ち、地下の探索……とか、どうですか?」
パトリシアとしては、今更あの罠だらけの地下に戻るのも気が引けたが、ルークはため息を吐いて、「良いですよ、行きましょう」と言った。
「えっ」
「鎧を倒してくれたのは事実ですし……ここは先輩の顔を立ててあげます」
「そ、そっか……?」
「ほら、ぼーっとしてないで。行きますよ!」
「ええっ、まっ、待ってよ〜!」
階段を駆け下りていくルークを追いかけて、パトリシアも一段飛ばしで階段を降りていく。
そうして奥の道へ進んでいくと、急に明るい場所に出たものだから、パトリシアもルークも呆けてしまって、お互いにそろっと顔を見合わせた。だって、見たところ、この部屋には篝火のひとつもないのだ。
「石蛍かな?」
「魔導具かも……」
「でも、魔力の気配はしないよ?」
「うーん……氷柱石でもないですよね」
「苔も生えなさそうだしなぁ……」
光る生き物や石の名前を挙げ合って、二人はくいっと首を傾げた。パトリシアは生来魔力を嗅ぎ分けるのが得意だが、魔力の残り香さえしなければ、二人が光るものとして知っているようなものも見当たらない。
もしかしたら、この部屋自体が魂の遺産に連なる技術でできているのかもしれない。罠は調べようがなかったが、この部屋なら調べることもできそうだ。パトリシアはそう思って、ぱっと笑顔を浮かべた。ルークもそれに思い当たったのか、同じように笑う。
しかし、近くを調べてみたところで、二人には部屋がどうして明るいのかさえ分からなかった。けれども、考えを変えてみれば、この部屋が随分と珍しい技術によって成っているということは証明できそうだとパトリシアは思う。
「あーあ、ここにお兄ちゃんがいればなぁ……」
「ウィルフレッドさんは何でも知ってますからね! あ、そういえば、首都の遺跡でウィルフレッドさんが精霊王の痕跡を……」
「聞いた聞いた! その話もう百回は聞いた!」
「まだ七四回しか話してません!」
「覚えてるんだ!? すごいね!?」
パトリシアは大袈裟に呆れてみせて、「ほんとルークはお兄ちゃんの話ばっかり!」と口を尖らせた。ルークは勤勉で歳の割には博識だが、この悪癖はそれを補って余りあるほどの欠点だ。何せ、話題の八割がウィルフレッドのことについてなのだから。
パトリシアもウィルフレッドのことは好きだが、ルークほど心酔できるわけではない。いくらウィルフレッドが王宮に勤める魔法使い(最近は魔法が使える人間自体減ってきているので、魔法使いになれるだけで名誉なことだ)だとは言え、パトリシアにとっては意地悪で面倒臭がりで、ちょっとだけ優しくて頼りにならないこともない、ただの普通の兄でしかないのだ。
「僕からウィルフレッドさんの話を取ったら何が残ると思うんですか?」
「ルークはお兄ちゃんの何なの?」
「愛弟子……ですかね……フフ……」
ルークが気持ち悪い笑い方をするので、パトリシアは心の底の底まで呆れ切って、「多分、良いように使われてるだけだと思うよ」とため息をついた。ルークはウィルフレッドの押しかけ弟子としてパトリシアとも一緒に住むようになったが、パトリシアはルークが雑用以外をしているところを見たことがない。
「ウィルフレッドさんが僕を良いように……誉高き宮仕えの魔法使いが、僕を……フフフ……悪くないですね……」
「あ……うん……楽しそうだね……」
パトリシアはあまりの気持ち悪さにゾッとしながら、もう二度とルークから兄の話は聞くまいと誓った。パトリシアは割と普通の少女である。だからして、自分の兄に変態的な感情を抱かれているのを見て思うことがないわけではない。
奇妙な笑い声を上げ続けるルークの不気味さに耐えられず、パトリシアはそろっとその場を離れようとして、突然、うっすらと魔力の気配がすることに気付いた。
不気味なルークに声をかけるのは嫌でならなかったが、背に腹は変えられない。パトリシアは魔力を嗅ぎ分けられるが、それはそれとして座学はからっきしだ。ルークが一緒にいてくれなければ、もし魂の遺産があったとしても気付くことさえできないかもしれない。
意を決して、パトリシアはルークの頭を強く小突いた。すると、さすがに正気に戻ったのか、「なっ、何するんですか!」とルークが文句を言うので、パトリシアはふんっと鼻を鳴らして、「私達の今日の目的! 忘れたの?」と言うと、ルークをじっと睨め付けた。
「忘れてませんけど……先輩、何でそんなに怒ってるんですか?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃないですか……それで? 何かあったんですか?」
本当にパトリシアは怒っているわけではなく、ただただルークの不気味さに引いていただけなのだが、それを指摘するのも面倒で、「すっごく弱い魔力の気配がするの。何かあるか……あるいはいるのかも」と言う。
ルークがごくりと息を呑んで、「罠じゃないですか?」と声を潜めた。言葉の慎重さとは裏腹に、ルークの目は期待に輝いているように見えた。
「ここの罠、みんな魔力の気配がしなかったから……今回は違うかも! どうする?」
「見に行きましょう。僕らこのために来たんですから!」
パトリシアとルークは頷き合うと、少しの恐怖とそれを凌駕する期待を胸に、魔力の気配のする方へ足を向けた。
四
パトリシアは心臓がバクバクと激しく鼓動を打つのを感じた。ルークもきっとそうだったに違いない。部屋の奥に行くにつれて強まっていく魔力の気配が、二人の期待を強く揺さぶっている。
魔力の気配と比例して、部屋の明かりもどんどんと眩しくなっていく。そして、極め付けに、殺風景だった部屋の入り口を振り返れば、巨大な本棚や宙に浮く天球儀らしきものなど、魔法にまつわるものたちが突如として現れるものだから、パトリシアもルークも恐怖なんか一切忘れて、「私達、すごいところに来ちゃったね」とか、「僕ら歴史書に載るかもしれませんよ」とか、妙に浮き足だったまま、小さな声で話すのだった。
あたりをぐるりと見渡すと、突然、室内だと言うのにちらちらと雪が降り始めて、それがパトリシアの肩に触れると星屑のようにキラキラと光った。魔法がとんと使えない二人にとって、まるでここは夢の中のようだった。
「すごいね、綺麗……これも魔法なのかな?」
「分かりません……けど、ウィルフレッドさんならおんなじこともできるのかな」
ルークから二度と兄の話は聞くものかと思っていたが、パトリシアはこの素晴らしい景色にすっかり圧倒されて、「帰ったら聞いてみよっか……」と呟くように言う。
気付けば無骨だった床は硝子のように透明になり、二人の足音が部屋の中に遠く響いた。その足音にさえ心が浮ついて、足元が覚束なくなる。
降り注ぐ星屑の雪は、その硝子めいた床にゆっくりと積もって、二人を導くように美しく輝いた。降り積もった雪を踏めば、まるで鈴を鳴らすような音がする。
そういった景色の中にいたものだから、二人は一体どれくらい歩いたのかも曖昧になっていた。いつしか壁さえ鮮やかに透けて、オーロラのようにぴかぴかと光っているのを見ると、パトリシアは疲れなんて感じようもない気がするのだった。
「本当にここ、遺跡の地下かなぁ」
「さぁ……」
ルークはパトリシアより呆けた様子でいた。ルークは魔法への憧れがパトリシアよりも強いから、仕方のないことだ。
そうして、二人の身の丈よりもずっと大きな扉(両開きなために、本当に大きく見えた)を見つけて、二人はとうとう部屋の一番奥まで来たようだと悟った。氷色にちらちら輝く半透明の扉を前にすると、パトリシアはなぜだか、きゅうと心臓を鷲掴みにされたように切なく思った。
「開けるよ」
「はい」
パトリシアは静かな声で言って、ルークも同じように返事をする。それから、せーのと声を合わせて、二人とも扉の片側に思いっきり体重をかけたのだが、扉は想像よりずっと軽くて、パトリシアもルークもわぁと情けない悲鳴を上げて、転がるように扉の奥へ投げ出されてしまう。
しかし、痛みを感じたのは一瞬だった。慌てて顔を上げた二人を、見知らぬ少年──青年とも言えるのかもしれない──が、不思議そうな、それでいてひどく驚いた様子で見下ろしていたからだ。
パトリシアもルークも、とっさに言葉が出てこなかった。驚いたのもあるし、目の前にいる純朴そうな少年が、どう見たってこの部屋には不釣り合いに思えたのもあった。
少年はゆっくりと瞬きをして、「その……君達、どこから来たの?」と、見た目に違わずゆっくりとした優しい声で言う。
パトリシアは少しまごついて、「あ……あなたも、どこから?」と聞き返してしまって、ぱっと頬を赤らめた。だって、質問に質問で返すなんて、自分らしくないことだったのだ。
「僕……僕は、それが、分からなくて……」
「分からない?」
パトリシアとルークはそろりと顔を見合わせた。パトリシアはてっきり、この少年も、自分たちと同じように遺跡に来たのだろうかと思っていたのだった。
パトリシアと違って、ルークは何か違うことを考えているようだった。そして、ルークはちょっとぶつぶつと小声で何かを溢すと、「あの、もしかして、あなたは魂の遺産の何かじゃありませんか?」と真剣な顔で言う。
「たま……? 何だって?」
「魂の遺産! です。知らないんですか?」
ルークがそう聞くと、少年はうーんと首を捻って、それからすっかり黙り込んでしまう。それなので、パトリシアが何か助け舟を出そうとしたけれども、その前にルークが「もしかして、あなた、記憶がないんじゃないですか? 自分の名前は分かりますか?」と聞いたので、何も言えないまま喋り出そうとした口をこっそり隠した。
「名前……名前はヒナタ……だと思う。自信ないけど」
「ヒナタさんですね? 僕はルークと言います。とりあえず、お話を聞かせて……」
「ま、待ってよ、私も話に入れて!」
やっぱり寂しくなって、パトリシアが慌てて手を上げれば、ルークはちょっと呆れた顔をして、「先輩……あとで構ってあげますから、少し大人しくしていてくれませんか?」と言う。
「ひどい! ルークのバカ! すかぽんたん! アホ! まぬけ! えーと、それから、えーと……」
次の罵倒を言おうとした瞬間、ルークが腹を立てて文句を言うより早く、パトリシアは体を小さく竦めた。それなので、ルークもいつものように文句を言うでもなく、「先輩?」と不安げな声を出す。
強大な魔力の奔流が渦巻いている。まるで、空気がじわじわと凍り始めるようだった。危機感の薄いパトリシアでもすぐに危険だと分かるほど、重く恐ろしい魔力の気配が迫ってきている。
「早く……早くここを出よう。嫌な予感がする」
「ど、どうしたんですか? 一体?」
「後で説明する! 今は何も聞かないで」
パトリシアが鋭い声を上げると、ルークはビクッと体を震わせて、「ひ、ヒナタさん……」と小声で溢しながら、ちらりといくらか動揺している様子のヒナタの方を見た。
その二人のことを無視して、パトリシアは転移紙を鞄から取り出すと、即座に有りったけの魔力を注ぎ込んで床に落とした。それから、ルークとヒナタ両方の腕を掴んで、「飛ぶからね!」と声を張り上げて、思いっきり転移紙を強く踏む。
その瞬間、パトリシアは部屋の奥に何か人影を見たような気がした。しかし、それを窺い知ることなく、その場から三人の姿は掻き消えた。
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