一章:本物に至る病
第8話 本物に至る病
マリエル大教会は六賢フィロスによって設計された、国内最古の建造物である。王都のほぼ中心に位置するこの大教会には、女神マリエルの遺体が保管されており、信者にとって最も重要な聖地であった。
月明かりに照らされながらマリエル像の前に跪くのは、一人の女性。すらっと伸びた金髪と、瞳の中に刻まれた三日月型の紋章。服装は一般的な修道女そのものであったが、その姿には、一種の神々しさが宿っている。
「ああ、お母様。私を置いて、何処へ行ってしまうの」
修道女は涙を流しながら、マリエル像に尋ねる。返ってくるのは沈黙ばかりで、彼女の信仰が報われることはない。
コツコツ。コツコツ。
大教会の礼拝堂に、重たい足音が響く。
「グラース。熱心であることは感心しますが、あまり自由に出歩かれると困ってしまいます。せめて一言、私に言ってください」
二メートルほど離れた位置から、双頭の男が修道女に声をかける。しかし彼女が祈りの体勢を崩すことはない。
「お母様が死んでしまったわ。だからもう、私を繋ぎ止めておく必要は、何処にもないはずよ」
「何を言っているのですか。六賢がそう簡単に死ぬはずがないでしょう。特にネメジスは、死なないことに特化しているのですから」
教皇フィロスは、娘の戯言を一蹴する。六賢の中でも指折りの耐久性を誇るネメジスを殺せる存在など、世界に片手で数えられるほどしかいない。そもそもここはエヴァイン領から二十キロ以上離れているし、六賢の耳にも入ってきていないような情報が、名ばかりの権力しか持たない箱入り娘に届くはずがなかった。
「……私の身体の八割は、お母様の血でできているのよ。異常があれば、すぐにわかるわ。その痛みも、苦しみも、絶望も、愛も、全て私に教えてくれるの」
『愚かなことだ。母の愛をどれほど求めようと、貴様に伝わるそれは魂の共鳴反応にすぎないというのに』
フィロスの虚像は、娘の戯言を一蹴する。愛を虚飾と知るが故に。
「しかし反応が途絶えたとなれば、多少の信憑性はありますね。陛下をの写し身を、エヴァイン邸に派遣する必要があります」
フィロスは翻り、状況確認のために動き出す。そんな彼を修道女は横目で睨み、呟く。
「何をしようと、お母様が自ら帰ってくることはないわ。とても悲しい、悲しい話ね」
フィロスの意思に背き、彼の虚像は足を踏み止まらせた。老いた虚像は、信仰に背くものに救済は必要ないと、そう判断したのだ。
『儀式を前に怖気付いたか……。あまりにも不敬だ。ネメジス・エヴァインは、主の元に還る事もなく地獄に堕ちるだろう』
「それを決めるのは私たちではないわ。それよりねえ、お父様。次の聖女を早急に決める必要があるわけだけれど、どうするつもりなの」
修道女はマリエル像を見上げ、フィロスに尋ねた。神を目前にして、偽りを述べることができるものはいない。ここでの問答は、教会の決定に等しかった。
「候補者となるのはリアンシェーヌ嬢ただ一人です。十分に才能はあるようですし、儀式に支障はありません」
「そうかしら。その子に本当に才覚があるなら、お母様が死ぬことはなかったはずよ。一緒に暮らして、仕事をして、最期の瞬間までそばにいたんだから」
「何が言いたいのです」
フィロスが尋ねると、修道女はついに立ち上がり、その場でくるりと半回転した。そして自身ありげに胸を叩き、フィロスに熱弁する。
「正統な聖女の後継者は、私なんじゃないかしら。聖女の血を最も濃く受け継ぎ、救済活動に努め、聖女として望まれ生まれた私こそが、次の聖女に相応しいんじゃないかしら」
『貴様は主の寵愛を受けていない』
「たとえ主に忌み嫌われていようとも!この身が悲願の成就に役立つのであれば!それで十分ではないかしら。可愛いだけの出来損ないなど、聖女になるべきではない!」
大教会に、修道女の声が響き渡る。それにフィロスの虚像は、不快そうに顔を顰めた。
「つまり。つまりつまりつまり。私が主の御許に還ることのない贋作であろうとも、楽園を組み立てることはできるのよ。むしろ、その場所に到達できない私こそが、その基盤に組み込まれるべきなんじゃないかしら」
『貴様が高潔な人生を望もうとも、その魂が穢れに変わりはない』
「それでもいいと、言っているの」
迷いなく、修道女は言い放つ。それこそが自らの使命だと言いたげに。
「いいでしょう。リアンシェーヌ嬢とあなたのどちらが聖女に相応しいのか、一度審査してあげましょう」
「ありがとうございます、猊下」
修道女は、その場で深く頭を下げた。
フィロスは穏やかな表情でそれを見届け、今度こそ礼拝堂を後にする。六賢ネメジス・エヴァインの安否を、今すぐに確認しなければならないからだ。
『意味のある行為とは思えんな。主はお喜びにならないだろう』
ある程度歩いたところで、フィロスの虚像が実像に文句を漏らす。
「そうでしょうか。マリエル様は寛大なお方です。自分の手のひらの外で生み出された物が、それでも自分を愛そうと言うのであれば、慈悲をくださるかもしれません」
今度は、どちらかが歩みを止めることはない。ただ真っ直ぐに、二人は進むべきところに向かっていた。
「それに、私も興味があるのです。偽物として生み出された物が、本物に至るのなら、私たちの行為も報われると思いませんか」
『報いとは、訪れる物であって望む物ではない』
しかし、言い返せない指摘を受けて、一瞬フィロスは静止する。
「ははは、手厳しい」
だから笑った。如何に正しさを求めようと、欲望から逃れることはできないのだと自嘲して。
六賢塔の扉を開いた。
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