聖女になんてなりたくなかったのに
糸電話
序章:愛子に呪いを
第1話 プロローグ
01 プロローグ
領地を二つも跨いだので、景観で退屈することはなかった。私は自然よりも都会の光景が好きで、窓越しとはいえ歴史ある建物を鑑賞できて、概ね満足だった。
お茶会での話題作りのために得た知識が、いまでは立派な趣味となっている。古びた大教会も、太陽を遮る程の高さの六賢塔も、片田舎のエヴァイン領とはまるで違っていた。
しかしそれも、徐々に遠ざかっていく。首都アズレアは、上流階級のみが暮らすことを許された大都市だった。ぐるりと城壁に囲まれ、卑しい生まれのものは立ち入ることすら許されない。
東門を抜けると、急に人が増える。首都へのあこがれを捨てきれなかった平民たちが、風が吹けば崩れるような家を建てて、この場所に住み着いているのだ。
盗品や薬物、ワケアリの奴隷。首都では違法でも、ここ隣領カリアでは合法的に販売できる。しかも首都が近いので、富裕層のもの好きが色々買いに来てしまう。つまりここは首都が用意した、はみ出し者たちの収容所というわけだ。
横たわる老爺が、死んだように眠っている。いや、本当に死んでいるのだろうか。
焚かれた甘い、煙の匂い。少しずつ建物が減っていって、馬車は木々の隙間へと進んでいった。
長い長い森を抜けて、揺れる馬車馬に丘を上らせていくと、大きな木造りの屋敷が見えてくる。楽しかったお茶会の余韻が、徐々に陰鬱なものに変わっていく。
屋敷の門に刻まれるのは、繁栄を暗示する太陽の家紋。二代前の当主が建てたこの別荘は、先の戦争で倒壊したエヴァイン邸の代わりに、私達の住居として使われていた。
門番のユリアナが、一つ結にした真紅の長髪をなびかせている。たったひとりで、彼女は寒空の下、堂々と立っていた。見張りが1人しかいないのは、こんな辺境を襲う輩はいないと、父が費用を出し惜しみしたせいだ。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ユリアナは胸の方に手を持ってきて、軽くお辞儀をする。鎧が擦れる音が、微かに鳴った。
「はい、只今戻りました」
「奥様とアルマ様が応接間でお待ちです。長旅でお疲れかと存じますが、お顔を拝見させていただければと思います」
「わかりました。すぐ向かいます」
馬車から降りて、ゆっくりと屋敷の大扉へと進む。後ろをついてくる執事のベンジャミンが、じっとりとした視線を私に向けている。
「リアンシェーヌ様。伯爵様をお待たせしてはいけませんよ。まだまだ仕事が残っているのですから」
そうだ。仕事が残っている。
気だるい身体を引きずるように歩きだすと、侍女たちは勝手に目前の扉を開いた。出迎えたのは、金色の額縁に嵌った大きな肖像画。作り物のような美貌の彼女は、エヴァイン家の初代領主であるらしい。
右に曲がって、応接間の扉をくぐる。そこには母と、顔見知りの地方領主が待ち構えていた。
「おかえりなさい、リア」
母がまず、私を歓迎する。こちらもやはり、作り物のように美しい。
「これはこれはリアンシェーヌ嬢。長旅ご苦労であった」
次にカリアの領主アルマが、大げさな笑顔を私に向ける。奥には十人ほどの奴隷が並んでいて、どうして屋敷にしまうのだろうと、母を少し恨んだ。
「今日のはただの親睦会ですから、そう疲れてはいません。これからアルマ様の大切な商品を治療するというのに、疲れていては仕方ないでしょう」
「はは、そう気張る必要はない。これは君への……未来の聖女への投資なのだからな」
と、アルマは後ろの奴隷たちに目を向けた。服こそはまあ、上等なものを着ていたが、どれも顔色は悪く、怯えたような表情をしている。
まったく、何が聖女だ。儀礼の時に呼ばれるだけで実権はないし、こんな仕事ばかり請け負っているせいで権威もない。この部屋には神聖性のカケラも存在し得なかった。
「では検診を始めていきましょう。ほらリア、こっちに来なさい」
私は招かれるまま、母の隣に座った。母が私に手を重ね、指先を軽く絡めると、さっきまで感じていた気だるさが嘘のように消える。この、無理やり健康にさせられる感覚が、私は大嫌いだった。
エヴァイン家は国法の規定にもれず、貴族の義務として魔術をその血に保管している。母が今使ってみせたものも、相伝の魔術だ。
「今日は1人で、やってみましょう」
母は簡単に言った。できる気はしないし、やりたくもなかったが、拒絶することはできなかった。
「ではそこのあなた。こちらに」
母が、私と同じくらいの少女に視線を向けた。くすんだ茶髪と、細い腕。少女はおずおずと私に近づき、その場でひざまずく。
「ええと、上着を脱いでください。すぐに終わりますので」
私が言うと、少女は体をこわばらせた。アルマの視線が気になるのだろう。しかし私は、彼に向こうを向いてくれなんて頼むことはできない。なぜならアルマは、私の魔術練度の成長を確認しに来ているのだから。
「どうした、脱げ」
アルマが凄むと、少女は渋々服を脱いだ。その光景は、たまらなく不快だった。
「お、お願いします」
少女の背中に触れて、目をつむる。手のひらに纏わせた魔力を、少しずつ目前の少女に流していく。
『検診術式展開』
エヴァインが保管する魔術は二種類ある。自らの肉体のあり方を書き換える鮮血魔術と、他者の肉体をあるべき姿に戻す治癒魔術。私には前者の才能がまるでなかったが、治癒魔術の方は、まあ、それなりであるらしい。
治癒魔術のプロセスは単純だ。体内の魂から抽出した魔力を流し込み、修復対象の状態を確認し、見つけた異常を修復する。つまり、今行っている検診術式は、「正常な状態の確認」を行う魔術行為であった。
すこしずつ、目前の少女の魂の情報が流れ込んでくる。慢性的な疲労、下腹部の炎症。肉体の情報を参照する途中で、いくつかの記憶が飛び込んでくる。幸せな家庭。親からもらった名前はソリア。父と母と祖母と、妹が二人。友だちと広場で遊んだ帰りに、人さらいに掴まって売りに出される。それからは毎日毎日ーーーーー
「ひっ!!!」
思わず私は、ソリアを突き飛ばした。その凶行に、母は驚きアルマは興味深そうに髭を撫でる。
「す、すみません。よくない物が見えて……」
「よくないもの?」
「性病です。それもいくつかの病気を併発しています」
「ほう」
満足気に、アルマは息を漏らした。
「で、治せるか」
「恐らくは……」
「なら、このまま頼む。いやはや、汚いものに触れさせてしまうことを心苦しく思うよ」
と、心無く呟くアルマに、私は震えた。ソリアは私達の会話を聞いて蹲るばかりだ。
「汚いなんて、そんな」
否定の言葉は、喉をつかえて消えた。たしかに私は彼女の記憶を見て、おぞましいと思ってしまった。
心臓が、ぎとぎとの血液を全身に巡らせている。こみあげる吐き気を堪えて、私は表情だけでも繕うことにした。
「ごめんなさい、続きをしますね」
治癒魔術に必要な情報は揃っている。あとは、読み取った魂の情報を元に体を治していくだけだ。
『修復術式展開』
複製された正しい肉体の情報を、ソリアに転写し書き換える。修復術式には高い病への理解が必要だったが、アルマは毎週毎週奴隷をこの屋敷に連れてくるので、こと性病に関して、私が修復に失敗することはない。
寧ろ、危惧するべきは治療過多の方であるだろう。アルマの方針で、ここにいる奴隷には避妊手術が行われているが、それは不可逆的なものではない。誤って治しすぎた場合、それを破壊する作業がまた行われることになる。
彼女たちに、これ以上の苦痛を与えるべきではない。
「終わりました」
「そうか。ネメジス卿、最終確認をお願いしてもいいかな」
母は無言でソリアを見つめて、微笑む。検診が済んだのだろう。
「完璧ですよ。よくやりましたね、リアンシェーヌ」
母は私の頭を優しく撫でた。当然のことながら、ちっとも嬉しくなかった。
ソリアは、怯えたように私を見上げている。ここまで大掛かりに魔術をかけたのだから、自覚できるくらいには体調が回復しているはずなのだが、未だ顔色は悪いままだった。
ソリアは軽く頭を下げ、部屋の隅へ退く。口をわずかに振るわせたが、その声は私の耳に届かなかった。入れ替わりに、奴隷が寄ってくる。
───私はその日、六人の病を治したが、途中で吐いてしまって、結局半分以上は母に任せることになった。母はアルマに謝罪していたが、本人は寧ろ上機嫌で、私が順調に腕を上げていることを喜んでいた。
これで次代も安心だ。これからも良きパートナーでいよう。そんなふうな会話が、扉越しで聞こえた。
わたしはきっと、ずっとこんな仕事をするのだろう。それが貴族の義務で、私たちが生きるための限られた手段であるから。
夜が更けて、ネグリジェに私が着替えた頃。どうにも眠れなくて、私は母の寝室を訪ねた。
「どうしたのかしら、リア」
眠り目をこすりながら、母が起き上がる。ノックもせずに開けたというのに、母はすぐに私の存在に気がついた。
「眠れなくて」
母がキルトをめくって、手招きをする。一緒に眠るなんて子供みたいなこととはしたくなかったが、部屋は寒く、凍えてしまいそうだったので私は同じベッドの中に入った。
「あの、お母様。私、思うのです。ああいう商売の手助けをするのは、正しくないと思うのです」
抱きしめる母に私は質問をした。母は少し、悲しそうだった。
「アルマ伯爵には誠意があります。あの方は金銭を用意し、正式な依頼として奴隷の治療を任せてくれていますよ。これは国によって認められた商売です。治安維持のためには、必要なことなんですよ」
わからない理屈だった。そんな商売があるから、人攫いなんかが出るのではないか。そんな奴ら、全員取り締まって、牢屋にでも入れてしまえばいいのに。
「アルマ伯爵は毎週患者を連れてきています。買い手の方をどうにかしないと、キリがないです」
「そんなお金も、時間もないでしょう。それに、彼らが病にかかってしまうのは自業自得です。移されてしまった商品は、もちろん治療しますが」
「お金ならたくさんあるではないですか。税金だって領民から貰ってるはずです。だったら、もっといろんなことをするべきです」
「いいですかリア、私達の身体は一つです。すべてを救うことは絶対にできません。だから、救う人間を選ぶとき、そこに物差しを用意しなければならないのです」
繰り返される問答が、少しずつ激しくなる。
「私にとって、それは財です。貧富の差こそあれど、どんな人間も財によって物や人の価値を判断しています」
「そんなの間違ってます。貴族は特権を持っているのですから、この力を国民に還元するべきです」
強く言った。私は絶対に、引くつもりはなかった。どうにかして言い負かして、この家を正しくしたかった。
「私は、これを間違いだとは思っていません。少なくとも、彼女たちの命は私たちによって保証されているのですからね」
私を抱きしめる母の手が、少しだけ緩まる。熱が遠のく。
「それでも間違いだと思うなら、それもいいでしょう。あなたが私よりも、もっといい聖女になればいい」
母は、私の顔をじっと見つめている。
「いえ、リアンシェーヌ。あなたがなりなさい。私を越えて、誰よりも正しく、誰からも認められる存在に」
暗闇のせいで、表情はよくわからなかった。見えていたけれど、それが何を意味しているのかがわからなかった。
「その力で、みんなを助けてね」
そのつぶやきを最後に、母は私を抱きしめるのを止めた。慰めることすらできない私は、きっと、母を酷く傷つけたのだろう。
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