病院にて
夏空蝉丸
第1話
仕事中に、姉から電話があった。母親が倒れたから、すぐに来いと。
そんなことを言われても困る。そう思ったが、部長に話をしてみると、やはり、仕事を終わらせてから帰れとか言い出す。仕方がない。できるだけ早く終わらせるか、と考えながら席に戻ろうとすると、別のグループの課長が口を挟んでくる。
急いで帰っていいぞ。との言質を得て、私は自宅に連絡をする。妻も姉から連絡を受けていたようで、車で会社の入口まで迎えに来てくれた。一緒に行こうか? と妻に言われるが、子供たちを置いていくわけにもいかない。
一度自宅に寄ってから、自分一人で車で病院に向かう。聞いたことがない病院であったが、カーナビの設定があるから迷うことはない。二時間ほどで病院に到着すると、診察がそろそろ終わる時刻だった。
急いで病室に向かい中に入ると、姉がいた。母の家族は、兄はもう亡くなっており、妹は存命だが関西にいる。一応、連絡はしたとのことだが、今日中に来ることはないだろう。
生命維持装置であろう機械が取り付けられており、心拍数と脈の数値が表示されている。医者でないから、その値が良いのか悪いのかすらわからないが、眠っている母を見れば、正常でないことくらいは理解できる。
「もう、目を覚ますことはないだろうって」
姉に言われて、やっぱりそうなのか。と妙に納得をしてしまった。涙が出てくるわけでも辛くなるわけでもない。この日が来ることがわかっていたから、不思議なことに落ち着いている。
母の眠っているような表情は、苦しそうではない。父親が生きている時より、幸せそうな表情をしている。散々、文句を言っていて、一人になって自由になれる。と嬉しそうに半年前に言っていたことが思い出される。
「あんたもお別れを言っておきなさい」
「姉さんは?」
「もう済ませたわよ」
私はベッドに近づきしゃがみ込む。なんて言葉をかければよいのか。ちっとも頭に浮かんでこない。気の利いた台詞なんか言う必要がない。と思いつつも、思考が空回りして、昔のことばかり瞼に浮かんでくる。
しかも、いい思い出より悪い思い出ばかりだ。
私は何も考えないようにして、母の手を握った。力なく人形のような手は、私を叩いたような強さはもう無い。爪が割れて指先がささくれて裂けていた。でも、もう、気にすることはないのだろう。昔のように。
病院にて 夏空蝉丸 @2525beam
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