アポカリプスを越えて 記憶の連鎖
和泉茉樹
記憶の連鎖
キャンプの中心にある巨大な仮設施設は正式名称よりも「ドーム」とだけ呼ばれることが多い。
ゲノムハザードと呼ばれる破局、人間の手を離れた科学技術の暴走の結果、地球は生態系から環境までが激変していた。
私たち、一度は地球を離れながら地球へと帰還した宇宙移民船の人間、「現人類」は地球を再び住める土地にするため、様々な活動を行っていたが成果は上がっていなかった。
一部の限られた土地に数カ所のキャンプを設営し、そこを橋頭堡に支配権を確立して維持するのが当面の目標になっている。
ドームとは、現人類が唯一、安全に過ごせる環境だった。現在の地球では現人類は大気をそのまま吸うことさえも難しかった。その点は「亜人類」と呼称される地球にとどまりゲノムハザードを生き延びた人類と比べると、やや脆弱にも感じられる。
しかし、宇宙船という整えられた環境で生きてきたものや、長い間の冷凍睡眠でほとんど外的影響を受けていない現人類は、無菌室で育っているも同然である。適応力を発揮した亜人類の方がむしろ生命らしくはある。
いずれにせよ、現人類は故郷である地球に戻りながら、異邦人も同然なのだった。
◆
私はドームのエアロックに入り、幾つかの段階の洗浄工程を経てから、更衣室に入ってスーツを脱いだ。スーツの状態をチェックし、問題がないのを確認してからロッカーに吊るす。仰々しい作りだが、意外に軽い。開発者は苦労しただろう。
隣接のシャワー室で汗を流し、強烈な乾燥機の風で体も髪もいっぺんに乾いた。
新しいアンダーウェアで更衣室へ戻ると、仲間の女性が二人、スーツに着替えているところだった。まだヘルメットもかぶっていないので、直に会話できる。
「お疲れ様、アリサ、カメリア」
黒髪の方のアリサが「ども」と頭を下げる。無愛想だが、彼女はいつもそんな感じだ。不機嫌なわけではないらしい。
一方のカメリアは柔らかい表情で「お疲れ様、クリスティン」と微笑んでいる。
「これから何の仕事?」
何気なく問いかけると、カメリアが教えてくれる。
「マスドライバーの資材運搬の応援」
「何人で行くの?」
「二個小隊、十六人」
へえ、と思わず私は声を漏らしてしまった。このキャンプ、ドームで生活している現人類は一〇〇人もいない。一度に十六人を外へ出すのは珍しい。今頃、男子の更衣室は混雑していることだろう。
「急ぎたいみたい」
スーツを整えていたアリサが不意に言葉にしたので私はそちらを見た。
「急ぎたいって、マスドライバーの建設?」
「そう」
行き来が面倒だしね、とスーツを身につけたカメリアが後を引き取る。
「今みたいに往還シャトルで地上と移民船を行き来するのは、効率が悪すぎるってことでしょう」
「大昔の軌道エレベーターはもうないしね」
私の言葉に、亜人にはあれは無用でしょう、とカメリアが苦笑いしている。
西暦二一〇〇年頃には地球には軌道エレベーターが二基あった、という記録は既に失われた文明の情報を解析する中で発見された事実だった。
しかし、どこを探しても最初、それはなかった。記録は断片的で、軌道エレベーターは崩壊したか、撤去されたのだろうとはわかっていた。
調査チームは半年ほどを情報と実際の照合に浪費した結果、軌道エレベーターは確かに存在したと確認したが、巨大な構造物も今は基礎部分しか残っていないと判明する。地上に残る想像を絶する基礎部分はすでに植物の大繁殖に飲み込まれているが、調査チームによれば亜人類の根城でもあるらしい。
ともかく、現人類は軌道上にある移民船と地上の往復に苦心しているのが実際だ。私たちのような地上で活動する人間は、大抵、移民船へ戻ることを度外視して送り込まれる。大気圏外から降下ポッドで降りるだけである。帰還する方法は限定される。
私は降下して既に二年が経とうとしている。今いるキャンプの設営当初からの古株だ。
長話もできないだろうからと私はアリサとカメリアの二人を見送り、やっとアンダーウェアの上に地上にいる現人類の共通のユニフォームである上下一体型のつなぎを着た。これで少しは気も楽だ。
何を食べようかな、と更衣室からドームの内部へ通じるハッチを抜けたところで、指先にかすかな痛みが走った。
地上で怪我をすることはあまり好ましいことではない。屋外での活動ではスーツとヘルメットで外部と遮断されているので、怪我を負うことは基本的にありえない。それが怪我をするとなると、スーツに問題があるかもしれない、ということだ。
指を見てみると、すぐには怪我かわからなかった。指で触れてみて、初めてそこに小さなささくれがあるのに気づけた。
なんとなくそれに触れながら、思い出したのは母のことだった。
子どもの頃、ささくれをいじっていて、叱られたことがある。
母は移民船で私を育てたけど、色々と他とは違う人だった。夫であるパートナーとはとっくに絶縁していたし、私を育てるのもほとんど一人きりで、移民船では充実している育児のサポートも大半は拒絶していた。
母のモットーは非常にシンプルだ。
「誰かの助けなんてアテにしないこと」
母と私の暮らしは決して楽ではなかったし、母を恨んだこともないではないが、なるほど、今の私の地球での生活を考えれば、ある種の生きる力を身につけるのは必要だった。それが一朝一夕に身につかないとわかったのもつい最近のことだ。
私は通路を進んで医務室へ向かいながら、こんな些細な傷に大げさだと思うが、地上ではちょっとしたことが大事になる。別のキャンプだが、ドーム内での小さな傷が原因で死んだ者もいた。傷自体は大したことはなくても、地上の大気には計り知れないものがある。ドーム内の空気は調整さえているとはいえ、初期は空気の清浄化処理が完璧ではなかったこともある。今は大丈夫のはずだが、念には念を入れて悪いことはない。
通路では仲間の何人かとすれ違った。
「やあ、クリスティン。今度、一緒に食事でもどうだ?」
「クリスティン、クラシックムービーのデータカードが今度、新規解放されるらしいぜ。その時はみんなで見ようぜ」
なんというか、地上にいる男性はどこか軽薄だ。まぁ、それでも彼らの大半は厳しい選抜をくぐり抜けた猛者揃いなので、いざ事が起これば別人に変わる。それで軽薄さが許されるとも思えないけど。
適当に彼らをやり過ごし、医務室にたどり着いた。中に入ると、一人きりで男性の軍医がデスクに向かって端末に何かを入力していた。顔を上げ、こちらに人の良さそうな笑みが向けられる。
「ベガ軍曹、何かありましたか?」
「ちょっと怪我を」
オーケー、と軍医がこちらに向き直り、空いている椅子を手で示す。そこに座って、指のささくれを見せる。軍医は真剣な様子で私の手に触れ、静かに言った。
「いつ、怪我をしたかはわかっている?」
「いえ。屋外作業から戻って、汗を流して着替えてから、やっと気づきました」
「そうか。スーツに異常はなかった?」
「と思います。目視でも異常なしで、システムもエラーを表示しませんでした。でも、素材が劣化して、スーツの中で引っかかった可能性はあります」
軍医が私の手を放すと、デスクの引き出しから何かの装置を取り出した。それが私の手の甲に押し当てられ、小さな電子音がした。改めて装置が今度は手のひらに当てられる。また小さな電子音。
軍医は装置の何かを見て、一度、確かに頷いた。
「乾燥した、ってところかな」
「乾燥?」
「スーツの機能、内部の湿度管理の誤差の内だよ。あと、シャワールームで乾燥機を使っただろう。乾燥機のせいで肌が乾燥することもある。ドーム内も湿度の調整が万全ではない。移民船の方が設備は整っているかもしれないね」
はあ、としか言えない私だったが、軍医は穏やかに笑みを浮かべると、一度、席を立ってから壁際の戸棚の前に行って、何かを手に戻ってくる。
「処方というほどでもないな。持っていくといい」
手渡されたものを見ると、小さなチューブだった。細かな字で注意書きが書かれているが、それが何かはすぐにわかる。
軍医は椅子に座りながら、教えてくれた。
「乾燥予防のためのハンドクリームだよ。あまり量を渡せなくて申し訳ないけど、少しずつ使うといい。ささくれは絆創膏を貼るだけでいいだろう。もし何か、不安があれば気楽にここへ来なさい。いいかな?」
はい、と私は素直に頷き、席を立った。深く一礼する。
「お手間をとらせて、申し訳ありません」
「いいや、気にしないで。地球では何が起こるかわからないからね。お大事に」
失礼します、ともう一度、頭を下げて私は医務室を出た。
通路を進みながら、手の中のチューブを改めて確認したけど、表示をはどう見ても保湿クリームだった。
移民船でも空調の不具合や、そこまでいかなくても構造上の問題で湿度が不安定になることがある。私も移民船で暮らしていた頃、乾燥に悩まされたことがある。
誰が考えたかは知らないけれど、移民船の本来の居住スペースは完璧に地球の環境に準拠し、その上で最適な気温湿度が保たれていたという。何十年、あるいは一〇〇年以上の時間をそこで過ごすことになるもののことを考えたのだろうが、気遣いというよりは科学者や工学者としての厳密さが感じられる仕組みだ。
ちなみに私と母が暮らした場所は増設された施設で、完璧とはほど遠かった。
歩きながらチューブの蓋を開け、封を切ってちょっとだけ手の甲にクリームを押し出す。チューブをつなぎのポケットに入れておいて、素早く手の甲同士を合わせてから両手の指へクリームを擦り込んで行った。
不意に何か、記憶を刺激するものがある。
なんだろう? これは……、うーん、すぐには思い出せない。
すぐに思い出せそうなのに、どうしても繋がらないもどかしさ。
両手を揉み合わせるようにしながら足は自然と食堂へ向かっていた。
以前なら、任務が終わればすぐにドーム管理部の指揮官の元へ任務を遂行したチームの全員が出頭して、直に報告をすることになっていたが、少しずつ規則はゆるくなっていた。
キャンプの運営は現人類自治政府の中の部署が統括しているが、現場にいる人間は半軍半民といったところだ。強行的な降下作戦が行われた頃には軍人、兵士しかいなかったのが、今は軍とは無関係の科学者なども滞在してる。
ことに科学者の一部は極端な自由主義者で、周りのことなどお構い無しに研究に没頭する傾向がある。生活リズムも違ければ、価値観も優先順位も違う。そんな人たちを軍のような厳格で、形式張っているものに合わせるのは早々に諦めることになった。
一部で規制がゆるくなれば、他が極端に厳しいのでは不満もたまる。そんな流れで、管理部への指揮官への報告もおおよその期日が決められ、現場責任者以外はデータで報告書を提出すれば済むようになった。私が医務室へ行っている間に現場を指揮した責任者だけは出頭したはずだ。
というわけで、地上軍とも呼ばれた私たちはいつからか、警備兵とも呼ばれるようになり、新規の地上を開拓する解放軍とは区別されている。もっとも、命令が下れば私も解放軍に加わり、亜人類や原生動物と戦い、跋扈する植物を焼き払ったりすることになるのだが。
私が食堂に入ると、同じ任務、キャンプの周囲の植物の焼却を行った面々が、一つのテーブルを囲んで食事の最中だった。数人が私に気づき、さっと手を掲げて合図をした。私は頷いて、自分の分の料理を手に入れて彼らの元へ向かった。
「クリスティン、遅かったな」
一人が声をかけてくるのに対して、「ちょっと医務室へ行っていて」と答えるとちょっとだけ場が静まるので、私は思わず慌てた。
「手が乾燥して、ささくれができただけです。問題ないです」
大げさだなぁ、と場に笑いが満ちる。
私も食事を始め、雑談に加わった。彼らの話題もマスドライバーの建設状況だった。地球へ戻ってきたと言っても、現人類はどこか移民船こそを故郷と見る向きは変わっていない。
話題はマスドライバー建設地の植物についてに集中し、自治政府の技術部では除草剤の開発が進められているが難航しているらしい、とか、根絶するのは今の技術では不可能だ、とか、あまり明るい内容ではない。
「まぁ、時間をかければなんとかなるさ」
一人がそんなことを言ったことで、話題は一区切りになった。
解散になり、私は最後に合流したこともあり、最後に残ることになった。
食器を返却し、自室へ戻って報告書を書こうと思って通路へ出ると、何かが鼻先をかすめた。
やっぱり何かが引っかかる。
足を止めて、何がそんなに気になるのか、ちょっと考えてみた。
ハンドクリームを塗った時に感じたこと。
手の感触? それよりは、匂い?
……そうか。
やっと気づいた。
両手を鼻に近づけ、匂いを確認して確信した。
そうか、と思わず声が漏れそうになった。
私が両手に塗ったクリームの匂い。
その匂いが、母のハンドクリームの匂いと同じなのだ。まったく同じだった。
花の匂いとかしゃれたものではなく、薬品のようで、しかし些細な匂いだ。
私が感じていた違和感は、過去の記憶に関するものだった。すっかり忘れていた。まだ移民船で暮らしていた頃に母が使ったハンドクリームの匂いが、不意打ちでいろいろな記憶を伴って蘇ってきた。
思い出したくないことがいくつもある。しかしこうなってみると、忘れられない、という事実にやや不安になる。
母とももう長い間、連絡を取っていなかった。どうしているかとか、何も聞かないからおそらく今も元気でやっているはずだ。
メールを送ることすら、いつの間にかハードルが高くなっている。
楽しかった思い出や、思い出したくないことがいっぺんに浮かんでくるのに、私は一度、瞼を閉じた。
悲しいような気もしたし、寂しいような気もした。
ため息を一つ吐いて、全部をまとめて胸の奥に押し込んだ。
今、考えても仕方がない。思い出しても仕方がない。
ここは地球で、移民船ではない。
クリームを使う度に思い出すのも嫌だが、仕方がない。
かすかに指先のささくれが痛んだ気がしたけど、忘れることにした。
私は通路を進み、頭の中は報告書を書くことに切り替えた。
それでも、きっとまた思い出すだろうなとは思った。
早く治ればいいのに。
ささくれ如きに煩わされるなんて、軟弱なこと……。
(了)
アポカリプスを越えて 記憶の連鎖 和泉茉樹 @idumimaki
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